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第5話




 実際の業務を後ろから見学させてもらったり、ファイリングされた資料を見させてもらったり。そうしている内にあっという間に時間は過ぎ去り、気付くとお昼休みを迎えていた。

 昼休憩を報せるチャイムの音を合図に、資料室を訪れていた私と部長は部屋を出て、荷物が置いてあるデスクルームへと向かう。

 お昼はどうしようかな、と歩きながら考える。あそこのミーティングテーブルをそのまま使わせてもらえるなら、コンビニで簡単に済ませちゃうんだけど。

 顎に手を当てながら歩いていると、不意に隣から視線を感じた。見上げると、こちらを見つめる琥珀色とかち合う。

「……なあ」

 そして、東雲部長が何かを言おうと薄い唇を開いた時。

「東雲部長」

 後ろから部長を呼び止める声が聞こえてきて、私と部長は揃って振り向いた。

 そこに立っていたのは、真っ赤なルージュが印象的なスタイル抜群の女性。

 濡れ羽色の髪をかき上げてハイヒールで歩くその姿が、ドラマに出てくるようなバリバリのキャリアウーマンさながらで、私は思わず見惚れてしまう。

(か、かっこいい……)

 部長の知り合いだろうか。そう隣をちらりと見上げると、ストンと感情をそぎ落としたような真顔が視界に飛び込み、怖くなってすぐに目を逸らした。うん、知り合いではないみたい。

 しかし女性は凍えるような部長の視線をものともせず、妖艶な笑みを湛えたまま私たちの前に立った。

「私、経理部の黒木と申します。これからお昼ですよね? 近くに美味しいお店を知っているので、良ければご一緒にどうですか?」

 そう微笑んだ黒木さんの視線が、ちらりと私に一瞬流れる。その視線は完全に邪魔者に対するそれで、ハッとして私はその場から去ろうとした。

 二人で食事をしたいから気を利かせて退散しろ。とその眼力が言っていたので。

「あ、あの部長、私はお先に……」

 へらり。笑いながらジリジリと後退する。瞬間――目にも止まらぬ速さで東雲部長の腕が伸びて来た。

「ひぇ」

 思わず悲鳴を漏らすと同時に掴まれた手首。咄嗟に振りほどこうとすると、掴む力がますます強くなった。

 恐る恐る部長を見上げるけど、こちらを見ているわけでもない。

 ただその手の力が、彼から立ち昇る雰囲気が、自分だけ逃げることは許さない。そう告げていた。

 そんな私たちの様子に、黒木さんの凛々しい眉が不機嫌そうに跳ね上がる。

 そして黒木さんが私に向かって口を開いた時、被せるように、氷柱の如く鋭く冷たい声が東雲部長から発せられた。

「お気遣いありがとう。ただ、既に先約があるので遠慮させていただこう」

 ちっともありがたいだなんて思っていないような声色だ。

 黒木さんも流石に戸惑うように瞳を揺らしたものの、すぐにまた艶やかな笑みを浮かべ「そうつれないことを仰らず……」と白魚のような指先を、東雲部長の腕に絡めようとする。

「――触らないでくれ」

 しかしその指先は、先ほどよりもワントーン低い声に拘束された。

 東雲部長の、吹雪くような極寒の視線が黒木さんを射抜く。その瞳の奥には、確かな嫌悪と怒りが揺らめいていた。

「俺はいま君に話しかけられるまで、君と話したことも無ければ、君の名前すら知らなかった。知り合いでも何でもないやつに気安く触られるのは好きじゃないんだ」

 とりつく島もない声に、今度こそ黒木さんの顔が真っ青になる。しかし対照的に、その瞳はどす黒い焔を燃え上がらせているようだった。

 唇を噛み締め、わなわなと震える黒木さんがゆっくりと私を見る。

 憎悪に染まった双眸が私を捕捉しようとしたその瞬間──部長は私の手を引いて、無言でその場から立ち去ったのだった。



 掴まれた手はデスクルームに入る前に離され、ミーティングテーブルまで戻ると部長はじろりと私を睨みつける。その恨めしそうな視線に、冷や汗がたらりと米神を伝った。

「えっ……と」

「君、あっさり俺を見捨てようとしただろ」

「み、見捨て……!? い、いえ、そんなつもりは」

 逃げようとはしたけれど。

「あの、お邪魔かなあと思って」

「邪魔なもんか。もう変な気遣いはするなよ」

 すっかり機嫌を損ねてしまったのか、つんとした顔でそっぽを向く東雲部長に、はあ、とどちらともつかない返事をする。

 変な気遣いとは言われても……あの場面じゃ、誰でも同じ行動を取るに決まってる。

「あの……じゃあ、また午後からよろしくお願いします」

 なんだか少し気まずい空気から逃げるように、鞄を肩に掛けてぎこちなく微笑む。すると、アーモンド形の両目が驚いたように見開かれた。

「どこに行くつもりだ」

「え? あの、お昼に。場所はこれから探そうかと……」

「一人でか」

「? はい。東雲部長は先約があるんですよね」

 また午後はこのテーブルまで戻ってくればいいでしょうか、と首を傾げると、部長が長い溜息をつきながら頭痛を覚えたように片手で頭を押さえる。

 その呆れましたと言わんばかりの仕草にぽかんとしていると、不機嫌そうな琥珀色が細められ、間抜けな顔の私を映した。

「俺は君を誘ったつもりだったんだが……」

「え!?」

「それとも遠回しに、俺の誘いを断ってるのか?」

 拗ねたような表情で見下ろされ、言葉の意味を噛み砕いて飲み込むのに少し時間がかかった。

 先約って……私のこと!?

 思い至って驚愕する。いや、きっと黒木さんの誘いを断るための口実だろう。でもこうして、なんだかんだ優しい部長はそれを事実にしようと私を誘ってくれているのだ。そう思うと、部長の衝撃発言も納得がいく気がした。

 本当に律儀な人だ。私とご飯なんか、行きたくもないだろうに。

「勿論俺の奢りだし、君よりは周辺の店に詳しい自信もある。……それとも、上司とご飯じゃ息が詰まるか?」

 中々返事をしない私に焦れたのか、こちらを責めるようだった視線の強さが緩み、形のよい眉が下がる。

 どこか不安そうな、雨の日に捨てられた子犬を彷彿とさせるような表情で尋ねられ、私は否定するように首を振ってしまった。

「い、いえ、そういう訳では……!」

「なら、決まりだな」

「え」

 悲し気に下がっていた眉がスンと元に戻る。

 薄い唇を悪戯っぽく歪めた部長は、唖然とする私の肩をポンと叩いて「行くぞ」と長い脚を踏み出した。



 お昼の時間はあっという間に過ぎていった。

 どんな会話をしたのか、何を食べたのか、どんな味だったのか。……正直、何も覚えていない。

 だって部長と二人きりでランチなんて、そんなこと初めてだったから。

 部長が連れてきてくれた、お洒落な洋食店。ここに来るまでの間に、何人もの女性社員から声を掛けられた。

 部長はその全てをにべも無く断っていたわけだけど……。

 どうしてそこまでして、私だけを。

 不思議に思ったけれど、訊けなかった。

 やたらと可憐な笑みを湛え、私に話しかけてくる部長の美しさに、相槌を打つ。それだけで精一杯で。





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