(いけない、遅くなっちゃった……!)
会議の時間まであと五分。私は額にうっすらと汗を滲ませながら、咎められない程度の小走りで廊下を駆けていた。
席を立とうとした瞬間に掛かってきた内線電話の対応に、思いのほか時間を取られてしまって。終わった時にはもう、執務室に一人取り残されていたのだ。
(早めに会議室の準備をしておきたかったのに……!)
泣きたい気持ちになりながらもどうにか会議室まで辿り着き、呼吸を整えてからノックする。
はあい、と明るい男性の声が聞こえてきたと同時にドアを開き、私は勢いよく頭を下げた。
「すみません、遅くなりました!」
謝ってすぐに顔を上げれば、ああやっぱり、お茶出しもプロジェクターの準備も完璧だ。
私が一番下っ端なのに、全部任せてしまった。
絶望する私の頭上に、優しい声が降る。
「大丈夫だよ、佐藤さん。まだ開始時間じゃないから」
そう微笑んでくれたのは、艶やかな黒髪が素敵な井上さん。
「そーだよ! それにさっちゃん、電話で捕まってたもんね」
大丈夫だった? と心配そうに顔を覗き込んでくるのは横山くんだ。明るく気さくな年下の先輩社員で、私はいつも助けられている。
奥に座る松下さん、戸田さんも穏やかに頷いてくれて、皆の優しさにまた泣きたくなりながら最奥に座るその人を見た。
ブラインドから射し込む光を受け、
色素の薄い琥珀の瞳を縁どる長い睫毛は、白磁の頬に繊細な影を落としている。
秀でた額。すっと通った鼻筋。血色のよい薄い唇。均整の取れた
私たちのやり取りを見つめていた美しい瞳が一度だけ瞬き、花びらのような唇が開かれた。
「揃ったな。ミーティングを始めるぞ」
その言葉を彼が――
私は部長から一番離れた入口側、横山くんの隣に座り、松下さんから資料が配られたところで定例ミーティングが開始を告げる。
ここ、N.Dream株式会社、本社人事部はこの場に居る六人で構成されていた。
私と――五人の、男性で。
「そうだ、佐藤」
ミーティング終わり、紙コップやプロジェクターを片づけていると、東雲部長に声を掛けられて手を止める。
「は、はい」
未だに名指しで呼ばれるとどうしても緊張してしまい、恐る恐る顔を上げる私に、東雲部長が眉を下げて苦笑した。
「そんなに身構えなくても」
「あっ、す、すみません」
どうやら緊張がそのまま伝わってしまったようだ。慌てて頭を下げると部長はなんとも言えないような表情になり、しかしすぐに真面目な顔つきに変わる。
「来週の視察、君に同行してもらおうと思ってるから準備しといてくれ」
「え!?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。だってあまりに、予想外すぎて。
目を丸くして固まる私に、隣で片づけを手伝ってくれていた横山くんが「お~!」と歓声を上げる。
「ついにさっちゃんも視察デビューだ」
私と部長の間にひょっこり顔を出し、にんまりと笑って見せた横山くん。だけど私は、何も応えられなかった。
――N.Dreamは全国展開する化粧品会社で、各地に大きな支社を有し、各支社に人事や経理、総務といった管理部門が設置されている。
私たち本社組の仕事は、各支社ごとに提出されたデータの集計・管理──そしてもうひとつ欠かせないのが、支社の視察だ。
これは支社の監査も兼ねており、部長が月に一度、どこかの支社へ出張していることは知っていた。そこに、私以外のメンバーを一人連れていくことも。
人事部に配属されて約二年。私が呼ばれることは一度も無かったから、私を連れていくつもりは無いのだと勝手に思い込んでいたし、納得していた。
だって、東雲部長は――……。
「佐藤?」
声をかけられ、ハッとする。
衝撃から抜け出せないままの私を、端整な顔が怪訝そうに覗き込んでいた。
その近さにびっくりして一歩後退りながら、私はおずおずと唇を震わせる。
「あ、あの、私で良いのでしょうか……」
「というと?」
「その、他の皆さんのようにお役に立てるかどうか」
正直なところようやく通常業務に慣れてきたばかりで、役に立てている自信は全く無かった。
他の四人は指示も仕事も的確で頼りになる。だけど私は、自分の仕事を捌くのに精いっぱいで。一人では解決できないようなことも、まだ沢山ある。
そんな私が視察に着いて行っても、部長の足を引っ張るだけなんじゃないか。迷惑をかけて、もし……もし、部長を失望させてしまったら。それが、怖い。
部長の目を見ていられなくなって、鼠色のカーペットに視線を縫い付けながら弱音を吐く。
東雲部長はしばらく黙っていたが、やがて降ってきたのは落ち着いた静かな声だった。
「佐藤は真面目だし、仕事もきちんとこなしてる。ちゃんと君の力量を見て、連れて行っても大丈夫だと、それが君の成長に繋がるだろうと判断したから声を掛けたんだ」
「あ……」
その言葉に弾かれるように顔を上げると、東雲部長は柔らかな眼差しで微笑んでいた。
「それとも、俺の判断が間違いだと?」
そんなこと、思っていたって言えるはずが無い。
正直まだ、部長は私のことを買いかぶりすぎなんじゃないか。そう思うけど、口を噤んで首を横に振る。期待を裏切りたいわけではないから。
「ん。じゃあ、詳細は後で連絡するな」
部長は満足そうに頷いたけれど、でもやっぱり不安なものは不安で。
そんな私を安心させるように、横山くんがぱちんと茶目っ気たっぷりのウインクを送ってきた。かと思うと、私と部長の背中をポンと優しく押す。
「ささ、そろそろ出ましょっか。次使う人が待ってますからねー」
それはいけない。慌てて荷物を抱えて廊下に出ると、数人の男女が外で待っていた。
部長が顔を出した瞬間に集まる視線。
きらきらのシャドウに彩られた瞳が瞬く間に見開かれていくのを、私は呆然と見つめてしまった。
「あ……」
声を掛けようとしたのかもしれない。頬を薔薇色に染めた、可愛らしく着飾った内の一人が吐息のように声を漏らす。
私はどきりとして、半歩前を歩く部長を見上げた。
しかし彼の瞳は送られる熱視線を歯牙にもかけず、彼女たちを一瞥することさえ無い。
「おい」
すれ違いで入室した男性社員が、微動だにしない彼女たちを咎めるように呼ぶ。
部長の横顔を名残惜しそうに見つめていた視線が渋々といったように外され──最後に、半歩後ろを歩いていた私を捕まえた。
瞬間、鬱陶しいものを見るような目つきで睨まれたような気がして、私は慌てて俯いたのだった。