塚越くんと別れて家に入る。サンダルを脱ごうとした時、不意に玄関の引き戸が叩かれる。少し驚いていると引き戸が開く。そこには一人の男が立っていた。私の知っている人、二度と会いたくないと思っていた人。
別れた元夫。
背中の傷が疼く。
「久しぶりだな、冴子。」
雨に濡れている元夫。ずっと待っていたんだろうか。元夫は私の腕を掴んで言う。
「お前の叔父さんが亡くなったなんて、知らなかったよ。」
腕を掴まれて恐怖で体が動かない。元夫がニヤケながら言う。
「お前の叔父さんが居たら会わして貰えないからな。」
ガタガタと震えが来る。
「さっき一緒に居た男は誰だよ?お前、男、誑し込んでるのか?随分と若い男だったけど。」
私の腕を掴む力が増す。爪が食い込む。
「お前はさ!俺じゃないとダメだろ!こんなド田舎に逃げやがって!」
そこで元夫はふわっと笑う。
「戻って来い、そしたらまた可愛がってやる。」
フラッシュバックする。元夫に殴られ、組み伏せられていた日々…。元夫が私の耳元で囁く。
「背中の傷はもう痛まないか?それ、あの男にもう見せたのか?」
そこで笑い出す。
「見せられる訳ねぇよなぁ?そんな醜い傷痕。」
ポロポロと涙が零れる。
「泣くなよ、可愛いがってやるって言ってんだろ…。」
その時。
「その手、離せよ。」
その声に驚いて見ると、そこには塚越くんが居た。塚越くんはドカドカと歩いて来て、私と元夫の間に割って入り、私の腕を掴んでいる元夫の手を引き剥がす。
「お前!何だ!俺と冴子の問題に口挟むんじゃねぇ…」
元夫の声が萎む。塚越くんが元夫を上から睨んでいるからだ。体格差が凄かった。塚越くんは190近いのに対して元夫は170あるか、無いか。加えて塚越くんはオレンジで筋骨隆々、元夫はそれに比べるとひ弱に見えた。
「こうやって冴子さんに暴力振るってたのか、アンタ。」
塚越くんは私を背後に庇い、元夫を睨みつけている。
「やるならかかって来い、相手になってやる。」
元夫は既に後ずさりし始めている。
「お前みたいな奴はどうせ、自分より弱い人間しか相手にしないんだろ?」
塚越くんが一歩踏み出す。
「次、冴子さんに手出してみろ、俺がお前を叩きのめす。」
元夫は走って逃げて行く。振り返った塚越くんは優しい顔をしていた。
「大丈夫?」
私は震えていて、体を動かせない。不意に体の力が抜ける。
「冴子さん!」
慌てて塚越くんが私を支える。
「土間に座ったらダメだよ、キレイな服が汚れちゃうじゃん。」
俺はそう言って冴子さんを支え、玄関の入口のヘリに座らせる。冴子さんはガタガタ震えていて、ポロポロと涙を流している。俺はジャケットを脱いで冴子さんに羽織らせる。ホンの少し考えて俺は冴子さんのサンダルを脱がせる。
「ちょっとごめんね、冴子さん。」
そう言って抱き上げる。抱き上げた冴子さんは軽かった。
冴子さんを部屋に運び、座らせる。
「ちょっと待ってて。車、停め直してくるから。」
玄関には俺が持って来た冴子さんのスニーカーが転がっている。それを揃えて、車に戻り、冴子さんの家の敷地内に車を停める。玄関から入り、引き戸を閉めて、部屋に入ると冴子さんはまだ放心状態でガタガタ震えていた。こんなになるまでアイツに何されたんだ。俺は悔しくて、悲しくてやるせなかった。冴子さんの隣に座る。
「大丈夫?」
聞いても冴子さんはただ泣いている。堪えきれず、俺は冴子さんを抱き締める。
「大丈夫、大丈夫だから、アイツはもう居ないよ。アイツが来ても俺が追っ払うから…大丈夫だから…」
温かい体温、優しい抱き締め方、背中や頭を撫でる優しい手…。縋ってしまう、こんなふうに優しくされたら、縋ってしまう。私は塚越くんに寄り掛かり、言う。
「元夫なの…」
塚越くんは私の背中や頭を撫でている。
「うん。」
優しい声。
「もう十年も前に、別れた人なの…結婚してから四年…ずっとあの人に、暴力振るわれてて…」
泣き声になってしまう。
「うん。」
こんな話、塚越くんに話しても仕方ないのに。
「最後の話し合いの時に、あの人に熱湯かけられて、火傷して、病院行きになって、やっと離婚出来たの…」
塚越くんは私の額に口付ける。
「うん。」
元夫の言葉が頭の中で響く。
見せられる訳ねぇよなぁ?そんな醜い傷痕
「酷い傷痕なの、治るのに時間もかかったし、今でもたまに痛いの…」
塚越くんが私を抱き締める。
「うん…」
とめどなく涙が溢れて来る。
「逃げて来たの、叔父さんが助けてくれたの…でももう叔父さん居なくなっちゃって、怖かった…」
塚越くんが鼻を啜る。
「うん…」
塚越くんが私の腕に触れる。元夫が掴んだ場所に元夫の爪痕がある。塚越くんはその爪痕に口付ける。驚いて塚越くんを見ると塚越くんが涙しながら微笑んでいた。
「やっと俺、見てくれた。」
震える手で塚越くんの涙に触れる。
「何で塚越くんが泣くの…?」
塚越くんは私の手をその大きな手で包む。
「何でかな、悔しくて、悲しくて、切なくて、苦しい…」
塚越くんは私に顔を近付けて聞く。
「キス、していい?」
返事の代わりに私は目を閉じる。塚越くんが口付けて来る。抱き締めていた手が私の頬を撫でる。塚越くんの舌が私の唇を割って私の舌を攫う。舌が絡み合った瞬間、私は確かに感じた、お臍の下、子宮がキュンとなる感覚。あぁ、私、塚越くんに抱かれたいんだ…。こんな感覚、もう何年ぶりだろうか。気付けば私は塚越くんのうなじに手を回していた。唇が離れる。塚越くんは私を抱き締め軽く息を切らしている。私の骨盤に塚越くんの熱いそれを感じる。きっと塚越くんは我慢している。塚越くんの高鳴る鼓動。私の胸も高鳴っている。涙はもう止まった。怖くない。私は立ち上がって塚越くんに手を差し出す。
「来て…」
塚越くんは私の手を取って立ち上がる。私はそのまま塚越くんの手を引いて、奥の部屋に行く。そこは私が寝室として使っている部屋。部屋に入って塚越くんの手を離し、押し入れから敷布団を出す。部屋の真ん中にそれを敷く。シーツを出して掛けていると塚越くんが手伝ってくれた。強烈に今の自分の行動が恥ずかしくなり、塚越くんに背を向ける。塚越くんは私を背後から抱き寄せる。
「あのね、」
言うと塚越くんは私の首筋に唇を這わせながら頷く。
「うん…」
微かに震えているのはきっと不安だからだ。
「背中の傷、本当に酷いの…」