「あ、冴子さん。」
そう声を掛けられて振り向く。
「あぁ、塚越くん。」
塚越くんは私の元へ走って来る。
「どっか、お出かけですか?」
聞かれて微笑む。
「そこのクリニックに行くだけだよ。」
言うと塚越くんが心配そうに聞く。
「どっか悪いんですか?」
私は笑う。
「持病の喘息の薬、貰いにね。」
塚越くんの背後から声がする。
塚越ー!
「呼んでるよ。」
そう言って私は塚越くんに手を上げる。
「じゃあね。」
手を振って歩き出すと塚越くんに腕を掴まれる。え?そう思った時には振り向かされていた。
「あの、連絡先とか、聞きたいです。」
クリニックの待ち時間にさっきの事が思い出される。勢いに負けて塚越くんに連絡先を教えてしまった。クリニックに着く前には塚越くんからワン切りされている。スマホに登録する。
『塚越くん』
名前以外はあまり知らない。知ってるのは彼がオレンジだという事。オレンジ、それはレスキュー隊員の証だ。この小さな田舎町にレスキュー隊員が居るなんて。それでも塚越くんを含めレスキュー隊員は三人居る。
クリニックを出て、いつもの薬局に寄る。そしてテクテク歩いて帰る。小さな田舎町、町民のほとんどが知り合いのような、そんな町で私は一人ひっそりと生きている。私がここに越して来たのは十年程前だ。当時、私は生活に疲れ、叔父さんの居るこの田舎町に越して来た。
二十七歳の頃に結婚した。結婚は失敗だった。夫は身勝手な人で私を家政婦のように扱った。耐えられなくなって離婚を切り出してもなかなか応じて貰えず、離婚までかなりの時間を要してしまった。そこで私は神経をすり減らし、鬱病になりかけた。静養も込みでこの田舎町に引っ越して来たのだ。全く知らない町では無かった。叔父が住んでいたから。その叔父も五年程前に無くなった。私は女が一人で住むには大きな家に住む事になった。
家に着き、玄関に入る。誰も居ない家。ただの入れ物のような家…。歳を取ると何にでもしんみりしてしまうのは良くないな、と思い直して、私は部屋に入る。田舎の平屋建ての良くある間取りの家。五年も一人暮らしをしていれば、それにも慣れるものだ。
ピコンとスマホが鳴る。メッセージが来たようだ。
『こんばんは。お疲れ様です。
仕事終わって今帰りです。
冴子さん、何してますか?』
メッセージなんて久しぶりだな、そう思いながら返信する。
『こんばんは、お疲れ様。
私はお風呂から上がって縁側で涼んでました。
お仕事、お疲れ様。』
それだけ送ってスマホを置く。塚越くんは何で私なんかに構うのだろう。塚越くんから見たら私なんてオバサンだろうに。
私は今年もう四十を超える。鬱病になりかけたせいで三十代の前半は潰れてしまっている。何とか立て直した時に叔父が亡くなった。喪失感はあった。でも泣いてばかりいられない。そこから五年、私は何とか一人で生活している。小さな田舎町、興味を持てば誰の事であろうと知る事の出来る、そんな町だ。
「冴子ちゃん、これもお願い出来る?」
そう言われて私は笑顔で引き受ける。
「あ、はい、やっておきます。」
私は近所の工場の事務をやっている。工場と言っても家族経営しているような小さな工場だ。亡くなった叔父の口利きだった。薄らと汗をかく、そんな季節になった。
「夏が来るねぇ。」
工場のおばさんが言う。
「そうですね。」
言うとおばさんが不安そうに言う。
「また台風来るかねぇ。」
台風、と聞いて思い出す。去年の大型の台風。町民全員が避難した、あの台風。私が塚越くんと出会った台風。
「おい、塚越!」
呼ばれてハッとする。
「すみません。」
謝って仕事に戻る。
「何だよ、ボーッとして。」
苦笑いしながら思っていた。冴子さん、元気かな。
俺が冴子さんに出会ったのは去年の大型台風の時だ。
町民全員に避難指示が出て、俺は消防団の人たちと一緒に町をパトロールしていた。早々と避難する人も居れば、避難が遅れる人も居る。町の全戸を回って確認する。風も雨も酷くなっていた。
「んじゃ、塚越、この先頼む。」
避難に遅れたおじいちゃんを背負った先輩に言われて俺は頷く。
「はい、分かりました。」
一戸、一戸声を掛ける。そして不意に見つける人影。その人は壁に寄りかかって何かを抱えている。女性だ。
「大丈夫ですかー。」
声をかけながら近付く。彼女は腕に子猫を抱えていた、ずぶ濡れで。
「大丈夫ですか?」
近付いてまた聞くと彼女が俺を見上げる。
「ごめんなさい、この子、放っておけなくて。」
子猫は怯えていて、彼女にしがみついている。不意に強い風が吹く。俺は咄嗟に彼女を風から守るように囲む。
「とにかく、ここは危ないんで、避難しましょう。」
彼女が言う。
「でも、この子がいたら避難所は無理だから…」
確かにそうだ。避難所はペット禁止だ。考えろ、俺!考えろ!こういう時の常套句はペットよりも自分の命優先、でもこんなにずぶ濡れになって、子猫を抱えているこの人にそれは言えなかった。
「とにかく、雨風凌げるとこに行きましょう。」
彼女と子猫を連れて、高台へと避難する。その間、俺は彼女の肩を抱き、時折吹く突風から守る。避難所は小学校の体育館。どうするか。考えに考えて、俺は彼女に提案する。
「その子、俺が預かります。」
彼女は驚いて俺を見上げる。
「そんな、」
言いかけた彼女に微笑む。
「大丈夫、ちゃんと保護します。だからあなたは避難所に。」
子猫を胸元に入れて、彼女を避難所まで送る。
「冴子ちゃん!こっち!こっち!」
声がする。工場のおばちゃんだ。彼女は手招きされて俺に頭を下げ、おばちゃんの方へ行く。冴子さんっていうのか。
子猫の体を拭いてやり、ダンボールにタオルを敷いて中に入れる。すぐに子猫は眠る。子猫を撫でていると声を掛けられる。
「何だよ、猫なんて。」
言われて俺は苦笑いする。
「放っておけなくて。」
言うと先輩は笑う。
「お前はそういう奴だよな。」
正確には猫じゃなくて、彼女を、なんだけど。それは言わない事にした。彼女、大丈夫かな。守る為とは言え、抱き寄せた彼女はものすごく細かった。背も小さくて、俺が力を入れたら折れてしまうんじゃないか、と思う程に。ずぶ濡れだったけど、着替えとか…そこでハッとする。きっと避難所には着替えなんて無い。俺は自分のロッカーからTシャツと私物のツナギを持って避難所に行く。
避難所に入る。子供たちの笑い声、おばちゃんたちの話し声が響く。見回すと彼女が居た。体育館の隅、一人で毛布にくるまっていた。俺は彼女の元に行く。
「こんばんは。」
声を掛ける。彼女が俺を見上げる。
「あの、ちょっと良い?」
彼女を連れて小学校の建物に入る。
「こっちに入っちゃって良いんですか?」
彼女に聞かれ笑う。
「大丈夫。」
体育館からほど近い、保健室に入る。
「着替えとか無いだろうなって思って。俺のだけど、良かったら。」
彼女が驚く。
「確かに着替えは無いけど…でも…」
俺は彼女に着替えの入った袋を渡す。
「風邪、ひいちゃうから。」
保健室のカーテンをひく。
「俺、そこで待ってるんで。」
保健室の入口に立ち、カーテンに背を向ける。衣擦れの音、袋の音、また衣擦れの音。カーテンが開かれる音がする。
「あの、終わりました…」
振り向くと彼女はダブダブのツナギを着ていた。手も出てないし足元もダブついている。正直、可愛いと思った。俺は笑って彼女に近付き、彼女の足元にしゃがんで、裾を折る。
「やっぱ、大きいかぁ。」
そう言いながら。立ち上がって、言う。
「ほら、腕出して。」
言うと彼女が言う。
「自分で出来るから。」
俺は笑って言う。
「いいから、いいから。」
彼女が腕を出す。袖口を折って畳む。
「良し、おっけー。」
そして彼女を見る。
「髪、濡れてるね。」
彼女の長い髪がまだ濡れていた。
「大丈夫、そのうち乾くから。」
彼女が微笑む。優しい微笑み。一瞬、抱き締めたい衝動に駆られる。何とか理性で抑えて言う。
「服、預かろっか?」
聞くと彼女が首を振る。
「ううん、大丈夫。」
袋に入れた彼女の服を彼女は胸に抱いている。
「戻ろうか。」