病院から帰宅の途についたのは、夕方になってからだった。
キミコさんも誠二さんも、私の歌の魔法で満足してくれたらしく、私が帰るときには手を取って涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれた。
本当はちゃんと家に帰してあげられれば良かったんだけど、何かあった時の事を考えると怖くて、こんな方法しかできなかった。
キコは、
「よかったじゃない。喜んでもらえたんだから」
と言ってくれたけれど、私は小さくため息を吐きながら、
「そうかな?」
「そうよ。茜はもっと自分に自信を持つべきね」
「自信、かぁ……」
私は自信がない。たぶん、変に理想が高いんだと思う。
なるべくなら、皆を幸せにしてあげたい。笑顔にしてあげたい。
けれど、そんな都合よくいくわけなんてなくて。
真帆さんの、あの気の抜けたような接客の方がお客さんを満足させていることに驚きつつ、そして見習わなければならないんだろうなぁ、と小さくため息を吐いた。
「まぁ、頑張るしかないか」
そう呟きながら、コンビニの角を曲がった時だった。
私は目の前の光景に思わず足を止め、眼を見開く。
十数メートル先、楸古書店の前。
そこに見覚えのある一台の車が止まっていて、その傍らで、一組の男女がキスを交わしていたのである。
こんな公道のど真ん中で何やってんだ、という思いと同時に、それが真帆さんとあの全魔協職員、下拂さんであることに驚愕した。
「え、あっ……」
あまりのことに思わず変な声が口から洩れ、咄嗟に身をひるがえしてコンビニの影に身を隠す。
私はすぐそばのごみ箱の上で羽を休めるキコに目を向け、
「あ、あれ、真帆さん?」
と小さな声で訊ねた。
キコはさして驚いた様子もなく、
「そうね」
と短く答える。
「え、なに? どゆこと? なんで真帆さんと下拂さんがキスを――」
「お互いに好きだからじゃない?」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 真帆さん、男には興味ないって言ってたじゃん!」
「……そうね、男にはね」
「な、なにそれ、下拂さんは男じゃないの? 女の人だったの?」
「そんなわけないでしょ?」
とキコはばさりと翼を広げ、
「――まぁ、あとで直接、真帆に聞いてみなさい。私は先に帰ってるから」
そう言い残して、私を置いて店の方へ去っていった。
「え? えぇっ!」
私は何とも煮え切らない言葉におろおろしつつ、もう一度真帆さんたちの姿を盗み見る。
真帆さんと下拂さんはまだ車の傍に立ったまま、何か小さく言葉を交わし、そしてまた名残惜しそうに口づけを交わした。
今までに一度も見たことがない、真帆さんの嬉しそうな笑顔。
下拂さんも、名残惜しそうに真帆さんに手を振り、車に戻っていく。
エンジンがかかり、店の前から走り去る車をじっと見つめ続ける真帆さん。
これは、いったい、どういうことなの?
もしかして、二人は付き合うことにしたの?
それって、ついに真帆さんが折れたってこと?
真帆さんは下拂さんの車が見えなくなるまで見送り続け、やがて足元のラタントランクに手を伸ばして店に体を向けたところで、
「……あっ」
と小さく口にして、さっとこちらに顔を向けた。
一瞬、真帆さんと視線が交わり、私は慌てて身を隠した。
いやいや、もうバレてるって。何してんの、私!
思いながら、私は恐る恐るコンビニの影から真帆さんの方に足を向けた。
真帆さんはどこか動揺したように私を見ながら、
「い、いつからそこに居たんですかっ!」
と珍しく慌てたように口にした。
「あ、いや、その――」
私もどう答えていいか解らず、けれど下拂さんとの関係を訊くなら今しかない! とばかりに勇気を振り絞って口を開いた。
「し、下拂さんと真帆さん、付き合うことにしたの?」
ダイレクトな質問に、真帆さんは頬を朱に染めて目を真ん丸くさせながら、「ち、違います!」と大きく首を横に振って、
「そ、その、ユウくんとは昔からのお友達で――!」
「ゆ、ユウくん? ユウって、下拂さんの下の名前ですよね? いつから下の名前で呼ぶようになったんですか! 普段はシモフツ君って呼んでませんでした?」
しまった、と真帆さんは口元に手をやり、
「だ、だから、それは、だから、えっと――」
しどろもどろになりながら、必死に言葉を探す真帆さん。
その慌てふためきように、返って私は冷静さを取り戻していく。
「ねぇ、真帆さん」
「あ、はい!」
背筋を伸ばし、けれど視線を合わせようとしない真帆さんに、私は言った。
「もう、いいですから、ちゃんと教えてください」
「…………」
黙りこくる真帆さんに、私はその唇を指差しながら、
「さっき、何度も下拂さんとキスしてましたよね? 結局どうなんですか? 真帆さん、下拂さんのことが好きなんですか?」
その質問に、真帆さんはしばらく両手の指を弄んでいたが、やがて観念したのだろう、大きな溜息を一つ吐いてから、
「――はい」
「……いつからなんですか?」
「もう、ずっと昔からです。高校の頃から」
「じゃぁ、なんで付き合わないんです? お互い好きなんでしょう?」
「昔は付き合っていました。高校を卒業するまでは」
「え、それって、別れたってことですよね? よりを戻したってことですか?」
「えっと、そうじゃなくて――」
「それに、真帆さん、男には興味ないって言ってましたよね?」
「……そうですね」
と真帆さんはもう一度小さくため息を吐くと、
「男とか女とか、そんなのは関係ないんです。私は、ユウくんが好きなんです」
「それって、どういうことなんですか?」
「う~ん、なんて言えばいいんでしょう」
真帆さんはしばらく考え込んで、やがてこう答えた。
「ユウくんは、私にとって空気みたいな存在なんです」
「空気? なにそれ、どういうこと?」
「空気って、人が生きていくためには絶対に必要不可欠なものじゃないですか」
「はぁ、そうですね。空気って言うか、酸素ですけど」
「私にとって、ユウくんが居るのが当たり前なんです。彼が居なくなったら、私、たぶん死んじゃうと思うんですよね」
恥ずかしそうにはにかむ真帆さん。
そんな真帆さんに、私は目を丸くしながら、
「――じゃ、じゃぁ、なんでいつもプロポーズを断ってるんですか? お互い好きなんですから、結婚すればいいのに!」
「結婚って、そんなに大事ですか?」
「……えっ?」
「前も言ったじゃないですか。幸せの形なんて、人それぞれだって」
それに、と真帆さんはにへらとしまらない笑みを浮かべながら、
「――結婚しちゃったら、もうプロポーズなんてしてもらえないじゃないですか」
「え、あぁ……」
そんな真帆さんの、その可愛らしい姿に、私はなんだか胸が熱くなって。
「ま、真帆さん、真帆さん!」
思いっきり真帆さんに顔を近づけて、
「え? なんですかっ?」
目を丸くして驚く真帆さん。
「今夜は下拂さんとの話、全部聞かせてください!」
「え? えぇっ?」
「今夜は寝かせませんからね、覚悟してください!」
「ほ、本気ですか、茜ちゃん?」
視線をあちらこちらに向けて顔を真っ赤にする真帆さんなんて、初めてだった。
色々訊くなら、今しかない!
「当たり前じゃないですか!」
私は真帆さんの腕を引っ張りながら、
「大切な師匠の恋バナ、聞かせてください!」
「こ、恋バナ? えっえぇ──!」
珍しく狼狽する真帆さんの姿が、いやに可愛くて仕方がなかった。
…………ごにんめ 了