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第5話

   5


 翌日、那由多さんは昼前に再び病院にやってきた。


 今日は白のワイシャツに細身のジーンズ、足元は黒のパンプスで、肩からは大きなボストンバッグを提げている。


 いったい、中に何が入っているのだろうか。


「――こんにちは」

 那由多さんは言って、バッグを担ぎなおした。


 その途端、中からがさりと音がする。


 私は片手をあげて挨拶して、彼女のそのバッグに目をやりながら、

「随分と大きな荷物だね」


「えぇ、まぁ」


 曖昧に笑う那由多さんに、私は首を傾げる。

「……本当にうまくいくんだろうね?」


「任せてください」

 胸を張るように、那由多さんは頷いた。


 私たちは昨日と同じようにエレベーターホールへ向かい、妻の病室がある最上階を目指した。


 チンっという音と共に、エレベーターのドアが開く。


 ナースステーションの前を通過して妻の待つ病室前に差し掛かったところで、不意に那由多さんは足を止めた。


「どうした?」


 訊ねると、那由多さんはバッグの中から小さな懐中時計を取り出し、何やらダイヤルを回すとかちりとボタンになっているらしいつまみを押した。


 その途端、慌てた様子で看護師が病室に駆けこんでいった。


 何が何だかよくわからないが、あっという間に妻を残して他の患者が病室から連れ出されていく。


「これは、いったい?」


「人払いの魔法です。三十分くらいの間、ここには誰も近づけません」


「……人払い?」


「そんなことより、さぁ、早く入りましょう」


 私は狐に抓まれたような思いの中、那由多さんに急かされるように病室へ入った。


 キミコはベッドに寝たまま上半身を起こし、入ってきた私たちに気づくと、

「あらあら、待っていたわ」

 と小さく微笑み、

「それで、本当に、私をうちに帰してくれるの?」


 そんなキミコに、那由多さんは、

「――はい」

 若干言いにくそうに、小さく頷いた。


 決して『疑似的に』という言葉は口にしなかった。


 それから私に顔を向け、

「誠二さんも、ベッドに腰掛けてくれますか?」


「ん? あぁ、わかった」


 言われるがまま、キミコのすぐそばに腰かける。


 那由多さんはそれを見届けると、おもむろにバッグのチャックを大きく開けて。


「――ぷはぁッ! 息苦しかった!」


 中から、あの大きなインコが飛び出してきたのである。


 これには私もキミコも思わず目を真ん丸くしてしまい、

「と、鳥が喋ってる……!」

 言って、キミコはゆっくりと私の隣に足を下ろすように座りなおし、その手を白いインコに伸ばしながら、

「あなた、喋れるの?」


「えぇ、もちろん。私はキコ。よろしくね」


「キコ……」

 呟くように、口にするキミコ。


 インコは跳ねるようにベッドの端に降り立ち、それを見届けてから那由多さんは口を開いた。


「それでは、お二人にはしばらく目を固くつぶっていて頂けますか?」


「目を? どうして?」


 キミコの問いに、那由多さんは、

「この魔法を使うのに、眼を開けていると酔ってしまうんです。私が良いというまで、絶対に瞼を開かないでください。良いですか?」


「――わかったわ」

 キミコがぎゅっと目を閉じるのを確認してから、私も同じく目を閉じる。


 ぼんやりと広がる闇の中で、キミコの好きだった唄を歌いだす那由多さんとキコ。


 その歌は不思議に私たちを包み込み、何とも言えないふわふわとした宙を浮くような感覚に、私は思わず隣に座るキミコの手を握っていた。


 キミコも同じように、私の手を握り返してくる。


 しばらくの間、私は方向感覚を失っていた。


 まるで酒に酔ってしまったような、若干の吐き気を催し始めた頃。


『――目を開けてください』

 頭の中で、那由多さんの声が響いてきた。


 おかしい。那由多さんはずっと唄を歌い続けているはずなのに、それに被るように声が聞こえてくるだなんて。


 思いながら、私は恐る恐る瞼を開けて――

「……えっ」

 そこは我が家の庭先だった。


 周りは古いコンクリートの壁に囲われており、隅の花壇にはキミコの植えた色とりどりの花が咲いている。


 空を見上げれば、どこまでも澄み渡る青い空。


 私は驚きのあまり妻に顔を向ける。


 妻も驚いたような表情で、私を見ていた。


 私たちは二人並んで自宅の縁側に腰掛けていたのである。


「これは、いったい」

「そんな、今まで病院にいたはずじゃぁ」


 と、そこへ。


「お母さん、お父さん!」

 たたたっとかけてきた幼い姿の子供たち。


 子供たちは部屋の中から庭に飛び出すと、鬼ごっこを始めた。


 これは、いったい、どういうことだ?


 やがて子供たちの姿が薄まっていったかと思うと、代わりに庭を駆け回り始めたのは孫たちだ。


 ふと後ろを振り向けば、成長した子供たちが私たちの背中越しに孫たちへ笑顔を向けている。


 それは正月やお盆によく見た光景。


 とても幸せな、私たちの家族の姿。


 ――そうか、これは思い出だ。


 妻と顔を見合わせ、頷きあう。


 那由多さんはキミコを連れ出す代わりに、懐かしい歌に合わせて我々に思い出の幻を見せてくれているのだ。


『疑似的』とは言っていたが、今目の前に広がる光景や感触はもはや現実そのもので、とても幻だなんて思えなかった。


 次々に現れては消えていく、子供たちや孫たちの楽し気なその姿。


 そこには確かに、あの幸せな日々があって。


「――色々ありましたね」


 不意にキミコがつぶやいて、私の肩にとんと頭を預けてきた。


「――あぁ、そうだな」


 私は頷き、ぎゅっとキミコの手を握り締める。


「私、凄く幸せでした。あなたと結婚できて」


「うん。私もだ」


「……本当に、今までありがとうございました」


 そのキミコの言葉に、私は思わずどきりとした。


「今までって――何を言ってるんだ」


 けれど、キミコは小さく首を横に振って、

「……ちょっと、疲れてしまいました」

 そう口にして、そっと瞼を閉じる。


 口元に、微笑みを浮かべたままで。


「き、キミコ?」


 一瞬、キミコが死んでしまったように見えて気が気ではなかったが、慌てて顔を近づけると、キミコはただ小さな寝息を立てて、本当に眠っているだけだった。


 ――良かった、驚かせてくれる。


 私は安堵して、再び目の前の懐かしい光景に視線を戻した。


 そして妻と過ごした数十年の思い出を噛みしめながら、小さくため息を漏らす。


 私の事を好きだと言ってくれて、文句ひとつ言わずに私についてきてくれて。


 あの時、キミコが私のもとへ来てくれなかったら、果たして今の私は幸せだっただろうか?


 こんなふうに、温かい気持ちでいられただろうか? 


 ――いや、そんなことは考えるだけ無駄だ。


 私とキミコは、今こうしてここにいる。


 まるで空気のように、常に寄り添い、私たちは生きてきた。


 それが真実。


 それだけで、十分じゃないか。


 私はちらりとキミコに視線を向ける。


 そして、まだ言えてなかったその言葉を、彼女の耳元でささやいた。


「ありがとう、キミコ。私も幸せだったよ」


 それから、小さく付け足す。



「――今も、そしてこれからも」

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