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「妻と一緒に実家を飛び出した私は、知人の伝手でお菓子の卸業を始めたんだ。最初はうまくいかなくて苦労したが、やがて事業も安定してきて、借金して家を建てた。俺は卸業を続けながら、妻はその家で駄菓子屋や日用雑貨を取り扱った店を始めた。やがて三人の子供に恵まれて、何とかかんとかやってきてね。けれど、やがて菓子の卸業だけでは家計が回らなくなってな。色々副業しながら、何とか子供たちを育て上げた。子供らも全員真面目に育って、孫も生まれて…… かわいい曾孫もいるんだ」
病院の二階、食堂。
キミコの病室をあとにした我々は、そこで向かい合いながらコーヒーを飲んでいた。
ここまで来てくれたお礼と、これからどうやって妻を家に帰すのか、それについて話を聞くつもりだったのだが、気付くと私は昔語りを始めていた。
那由多さんはそんな私の話を、じっと静かに聞いてくれていた。
時折相槌を打ちながら、優しい微笑みを浮かべたままで。
「苦労も多かったが、幸せな人生だった」
私は言って、窓の外に目を向けた。
「妻には心から感謝しているんだ。だから、なんとか願いを叶えてやりたい」
「……はい」
「いったい、どうするつもりだ? 空を飛ぶことができないのなら、何か瞬間移動的な魔法とかを使ったりするつもりなのか?」
しかし、那由多さんは小さく首を横に振り、
「私も、おじいちゃんをがんで亡くしています。おじいちゃんも入院中はいつも帰りたいと口にしていましたけど、容体が急変した場合を考えるとそれはできないだろうとお医者様に言われて、結局病院で亡くなりました。実際、亡くなる前日までは普通に会話をすることもできたんです。それが、たった一晩で。そう考えたら、キミコさんを病院から外へ連れ出すなんてこと、私にはできません」
「なら、どうするんだ。何とかして見せますって、君は言ったじゃないか」
そんなつもりはなかったが、どこか責めるような物言いになってしまい、私ははっとなって首を横に振り、
「すまない」
「いえ、お気になさらないでください」
那由多さんは優しく微笑み、
「なので、外へ連れ出す以外の方法で考えています」
「外へ連れ出す以外?」
「はい」
と那由多さんは小さく頷き、
「実際のおうちに帰してあげることはできませんが、疑似的に家に帰る、そんな魔法でも構いませんか?」
「疑似的。それは、ブイアールとかなんとか、そういうことか?」
ブイアールなら、孫やひ孫が遊んでいるのを見たことがある。
スマホを小さな箱に取り付けて観る、立体映画のようなものだ。
だが、あんなもので妻が納得するとは思えなかった。
思わず胡乱な目で那由多さんを見てしまう私に、彼女は、
「そうですね。似ているとは思います。けれど、それよりももっと体感的におうちに帰ったような気がする、そんな魔法を使おうと思うんです」
「そんな魔法があるのか?」
那由多さんはじっと私の顔を見返しながら、
「……ただ、その魔法を使うためには、一つだけお願いがあります」
「お願い? 私にか?」
「はい」
と那由多さんは頷き、
「――キミコさんがいつも家で聴いていた歌とか、ありませんでしたか? その歌を、教えてほしいんです」
「――歌」
「そうです」
「どうして、歌なんかが必要なんだ?」
その問いかけに、那由多さんは、
「私の得意な魔法は、歌を用いたものなんです。心を癒す歌とか、勇気を与える歌とか、そういった魔法が私の得意分野で、今回のご依頼にも歌を使った魔法を使おうと考えています。その為には、奥さんが大好きだった、思い出の歌が必要なんです」
歌詞と曲調を覚える為に、と那由多さんは言って私を見つめた。
私は一瞬、困ったように視線を逸らし、
「――思い出の歌、か」
そう言えば、昔キミコがよく聞いていた歌があったな。
あれは、いったい誰の歌だったか、よく覚えていない。
ただ、ほんのりと耳にゆるやかな曲の印象が残っている。
もしかしたら、子供たちが覚えているかもしれない。
私はポケットから携帯電話を取り出し、那由多さんに視線を戻す。
「心当たりはあるんだが、曲のタイトルや誰が歌っていたのかが思い出せない。子供たちに聞いてみるから、少し、時間をくれないだろうか」
那由多さんは口元に笑みを浮かべると、
「えぇ、もちろん」
コーヒーカップに指を伸ばした。