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翌日。
約束した時間通りに彼女は妻の入院する病院ロビーに現れた。
魔女というくらいだから、てっきり箒か何かで空を飛んでくるのだと思っていたが、ロビーからガラス越しに外を眺めていると、彼女は普通に病院前のバス停でバスを降りてやってきた。
まぁ、こんなところで箒なんぞに乗ると変に目立ってしまうからだろう。
そこはやはり秘密というものなんだろうか?
「お待たせしました」
彼女はすぐに私に気づくと、小走りにこちらに駆けてきた。
那由多さんは白のニットにグレーのロングスカート、足元はかかとの高い黒のパンプスといった出で立ちで、肩からハンドバックを提げていた。
店であった時よりも若干化粧が濃い印象だ。
「いや。ここまで来てくれてありがとう。それじゃぁ、案内するよ」
私は那由多さんを伴い、エレベーターホールへ向かった。
一昨年建て直されたばかりのこの病院は、白と茶色を基調とした壁にグレーのタイルカーペット、広々とした廊下や待合室は、まるでどこかのホテルのようだ。
一階には総合受付や診察室と各検査室、二階には食堂や入院患者用の理髪店などが入り、三階が手術室や分娩室など、そして四階より上が各科ごとの病室となっていた。
エレベーターで一番上の病室階へ向かい、ナースステーションの前を通って妻の待つ病室へ入る。
今日も手前左右の入院患者はぼんやりとテレビを眺めており(カーテンの隙間から姿が見えた)、その間を通って我々は窓際右奥のベッドを覗き込んだ。
「――キミコ」
寝ている妻に声を掛けると、妻はうっすらと瞼を開けながら、
「……あなた」
それから私のすぐ後ろに立つ那由多さんに気が付くと、
「あなたが、那由多さんね? お話はこの人――誠二さんから聞いているわ」
「あ、はい」
と那由多さんは返事して、かしこまったようにぺこりと頭を大きく下げた。
「今日は、真帆さんが来られなくてすみませんでした」
「ううん、いいのよ」
とキミコは小さく首を横に振り、
「ありがとう、ここまで来てくれて」
「いえ、そんな」
「あなたも、魔女なのよね?」
「はい、そうです」
「よかった」
とキミコは小さく微笑み、
「一度、魔女さんに会ってみたかったの」
ゆっくりと身体を起こそうとするのを、私は手を伸ばして止めようとした。
けれどキミコはその手を軽く払い除けながら、
「……大丈夫。今日は調子がいいから」
「あまり、無理はするなよ?」
「はい」
小さく頷き、キミコはその眼を那由多さんに向ける。
「実は、魔女であるあなたに、お願いがあるの」
「はい」
と答えて那由多さんは腰を屈め、キミコと目線を合わせながら、
「私がお力になれることでしたら、なんでも仰ってください」
その言葉に満足したように、キミコは口を開いた。
「――もう一度だけ、私を家に帰してくれないかしら」
その願いの意味を図りかねたのだろう、那由多さんは私に視線を向けてきた。
私は小さくため息を吐くと、
「キミコはもう、先が長くないんだ。足腰も衰えて、無理をさせられない」
短く、そう答えた。
キミコはもう、家には帰れない。
いつ容体が急変するか解らない。
今はまだこうして起き上がって話をしているが、明日をも知れぬ身であることに変わりはなかった。
しかし――そうか。
やはりキミコは、家に帰りたかったのか。
けれど、それは子供らも医者も許さないだろう。
何より、キミコはもう身体を思うように動かせない。
常に痛みを訴え、けれどもはやそれに抗おうともしていなかった。
そんなキミコの――最後の望み。
「それは――」
言いよどむ那由多さんに、キミコは小さく息を吐き、
「例えば、空を飛んで私を連れて帰ってくれたりはできないかしら」
「そ、それは」
「本当に、少しだけでいいの。ちょっとだけ、最後に家を見ておきたいの」
キミコはもの悲しげな眼で那由多さんを見つめていた。
私も、同じように那由多さんを見つめ続ける。
彼女になら、それができるんじゃないか、そう思って。
しかし。
「ごめんなさい。実は私、空を飛べないんです」
その言葉に、私は目を丸くしながら、
「いや、しかし、昨日は確かに、私の身体を宙に浮かせたじゃないか」
「はい」
答えて那由多さんは小さく首を横に振り、
「でも、あの程度なんです。風の精霊の力を借りて、人より高くジャンプする程度の力しか私にはありません。真帆さんなら、箒で空を飛ぶこともできたでしょけれど…… 私には、その魔法が使えないんです。魔女にもそれぞれ得手不得手があって、私は空を飛ぶことができない魔女なんです」
本当にごめんなさい、と那由多さんは申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。
キミコは深い深いため息を一つ吐くと、
「――そう。ごめんなさい、無理を言って」
肩を落とし、リノリウムの床に視線を落とした。
けれど、那由多さんはそんなキミコの細い手に腕を伸ばし、そっとその手を包み込みながら、
「……でも、一日だけ時間をください。私が、何とかして見せますから」
小さく微笑み、そう口にした。