3
翌日。
今日もデスクに向かって与えられた簡単な書き仕事と書類の整理をこなしながら、ひっきりなしに出入りする同僚や後輩に申し訳なさと不甲斐なさに苛まれていると、
「……?」
不意に誰かの視線を感じた。
書類から顔を上げて辺りを見回せば、平本部長が僕の方に顔を向け、何とも言えない表情を浮かべている。
部長は僕の視線に気づくと、しきりに口をパクパクさせながら、けれど何もしゃべることなく頭を左右に振り、再びパソコンに顔を戻した。
……なんだろう。今、部長は僕に、何を伝えようとしていたのだろうか。
まさか――クビ、とか?
途端に全身から汗が噴き出してきた。
手足ががくがくと震え、掴んでいた書類を思わず床の上に落とす。
そんなはずはない、そんなはずはない――
僕は動揺しながら、床の上に手を伸ばして、
「あっ!」
誰かの声が聞こえたかと思うと、机の上に置いていたファイルに肘が当たり、腰を屈めた僕の上にバサバサと降ってきた。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てたように、すぐ近くにいた後輩が駆け寄ってきて、落ちたファイルを拾ってくれた。
僕は落ちた書類を手にしながら、
「――ごめん、ありがとう」
けれど、その後輩の顔を、僕はまともに目にすることができなかった。
こんな情けない先輩で、本当にごめん。
そう思った。
後輩はデスクの上にファイルを置くと、
「気を付けてくださいね」
まるで腫れものを触るように、優し気にそう言い残していってしまった。
もう何百回と吐いたため息を、僕はまた一つ深々と吐いた。
時刻はそろそろ午後六時になろうとしている。
何事もなく終わろうとする今日の一日。
けれど、そこにあるのは、ただぽっかりと空いた、大きな心の穴だけだった。
今の僕には何もないような気がして、焦燥感が募っていく。
何となくぼんやりとデスクの上を眺めていると、
「近藤くん!」
ぽん、と肩を叩かれた。
振り向くと、そこには楸さんが立っていて、今まで見たこともないような満面の笑みを浮かべていた。
「そんないつまでもしょげた顔しないでよ!」
言って、まるで小さい子をあやすように、僕の頭をくしゃくしゃ撫でる。
僕はされるがままになりながら、
「――すみません」
小さく返事した。
それから楸さんは「ふふん」と鼻を鳴らすと、
「――安心して。あんたのミス、みんな忘れてくれるってさ」
その言葉に、僕は思わず首を傾げる。
「……どういうことですか?」
「ん? そのまんまの意味よっ!」
楸さんはそう口にすると、楽しそうにニッと笑った。
僕は全く意味を理解できなくて、ただ「はぁ……?」としか答えられない。
「ただ、もしかしたら近藤くんのこと自体を忘れてるかもしれないから、次行くときは自己紹介から始めてね」
……? 僕のこと自体を忘れている?
「楸さん、それっていったい――」
と訊ねようとしたところで。
「あ、ごめん! そろそろ迎えが来る時間なの! 詳しくはまた明日ね!」
「え? あっ――!」
楸さんは慌てたように自分の鞄をひっつかむと、飛び出すように足早に扉から出ていった。
僕は訳も分からず、その後を追う。
なんなんだよ、いったい!
とにかく説明してほしかった。
僕のミスをみんな忘れてくれるという意味を知りたかった。
楸さんは会社の階段を、玄関がある下に向かうのではなく、何故か上に向かって駆け上っていく。
その足は僕より早く、あっという間に差をつけられる。
もともとそんなに体力に自信のない僕だったが、ここ数年の運動不足でかなり体力が落ちているらしい。
やがて屋上への扉を開ける音がして、僕もそれに続いて扉を抜けて――
「……えっ」
けれどそこに、楸さんの姿はどこにもなくて。
嘘、だろ……?
確かに、ついさっき、この扉を抜けていったはずなのに……
まさか、屋上から飛び降りた、とか……?
僕は金網フェンスに駆け寄り、周囲をぐるりと見まわす。
……どこにも異常はない。
というより、あの一瞬で姿を消すなんてこと、できるはずがない。
それこそ、空を飛びでもしない限り――
そう思いながら、空を見上げて、
「――えっ」
僕は目を疑った。
はるか上空。
夕日に向かって飛び行く何か。
その影は確かに二人の人間で、何か長い棒――それこそ、魔女が乗るような箒に腰かけて飛び去って行く姿がそこにはあった。
……なんだよ、あれ。嘘だろ?
僕は目を瞬かせて、瞼を閉じ、胸に手を当てて心を落ち着かせる。
それからもう一度瞼を開くと、そこにはもう、人影なんて見えなかった。
ただ数羽のカラスが、翼を羽ばたかせて飛んでいるだけだ。
たぶん、カラスの見間違いだ。
そうだ、そうに決まっている。
だけど、と僕は首を傾げる。
それなら、楸さんはいったい、どこへ行ってしまったんだろうか――?