目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第2話

   2


 夢を見た。


 また、平本部長に怒られる夢だ。


 傍らでは、呆れたように冷たい視線を僕に向ける、楸さんの姿もあった。


 夢の中で、僕が一体どんなミスをしでかしたのかは覚えていない。


 ただ、その場面だけが強烈に頭に焼き付いて、全身汗だくになっていた。


「大丈夫? うなされてたけど――」

 そんな彼女の心配そうな顔に、僕は、

「昨日も暑かったからね」

 とあいまいに答える。


 本当はクーラーが効いていたはずなのだけれど、彼女も納得しかねる顔で、けれどそれ以上は追求してこなかった。


 多分、何かは感じているんだと思う。

 気を使ってくれているのだ。


 彼女に笑顔で見送られながら、僕はいつものように家を出た。


 重い足取りで、何度もため息を吐きながら。


 昨夜わずかに軽くなった気持ちも、今は大きな石を胸に抱いているかのようだ。


 会社のドアを前にして一度大きく深呼吸して、

「おはようございます!」

 気持ちを入れ替えるように、大きく声を発する。


 だけど。


「……近藤くん、ちょっと」


 平本部長に険しい顔で呼ばれて、僕は一瞬で、すべてを悟った。


 僕が出社する直前、ある取引先から電話があったらしい。


『聞いていた話と違うじゃないか!』


 開口一番、あちらの担当者はそう叫んだという。


 何があったのかはわからない。


 部長から何を言われていたのかも、覚えていない。


 頭の中は真っ白で、僕はただただ頭を下げて謝ることしかできなかった。


 部長が何とか先方をなだめて事なきを得たらしいのだけれど、結局僕がどんなミスをしてしまったのか、頭が理解することを拒んでいた。


「……もういいから、ちょっと頭を冷やしてこい」


 そう言われて、僕は自分のデスクに体を向けて。


「――あっ」


 そこには、眉間にしわを寄せる楸さんの姿があった。


 夢と同じだ。


 平本部長に怒られて、楸さんの冷たい視線に睨まれて。


 思わず泣きだしそうになりながら、僕は楸さんの横を、

「……ごめんなさい」

 小さく謝りながら、トイレへ向かって駆けていた。





 一日中、僕はデスクに向かい簡単な書き物だけをこなした。


 それが、トイレから戻った時の、楸さんからの指示だったのだ。


 当面、僕の営業活動は停止。


 代わりの者が取引先に赴き、それまで携わっていた企画チームからも外された。


 同僚や後輩たちはよそよそしい態度で、誰も僕には話しかけてこなかった。


 申し訳なくて、情けなくて、自分が本当に嫌になった。


 昨日と同じく、定時帰宅を申し渡され、僕は一人、帰途に就く。


 夕方の、けれど強い日差しの中、とぼとぼと力なく歩く僕は、相当に滑稽に違いない。


 僕は果たしてここにいてもいいんだろうか。


 こんなに迷惑をかけるのなら、もういっそ、会社を辞めた方が良いんじゃないだろうか。


 ――彼女は何というだろう。


 幻滅してしまうだろうか。


 付き合い始めてからもう五年、同棲を始めてからは一年が経とうとしている。


 口に出さずとも、お互いにそろそろ結婚を、と意識していたのに。


 もしここで会社を辞めたら、もうそれどころじゃない。


 もしかしたら、このまま別れを言い渡されるかも――


 大きなため息を一つ吐いて、昨日のように、イベントホール沿いの道を歩いた。


 このまままっすぐ帰るのが何だか怖くて、少しだけ心を落ち着かせる必要があった。


 自動的に動く足が向かったのは、昨日、麦わら帽子の女性が歌を歌っていた場所だった。


 ふと耳をすませば、今日もあの歌声が聞こえてくる。


 僕は彼女に、『今日も残業で遅くなるから』とメールを送り、昨日と同じように、近くのベンチに腰を下ろした。


 目の前には、昨日と同じように、大きな麦わら帽子を被った女性がこちらに背を向け立っていた。


 ひまわりの飾りがついたゴムで髪を束ねた女性は、英字のプリントされた白い半袖シャツに茶色の短パン。そこからすらりとした白い足が伸びており、白いスニーカーを履いていた。


 相変わらず川に向かって歌っているせいで、その顔ははっきり見えない。


 けれど、夕陽に照らされた女性のその佇まいはどこか神々しくて、とても美しかった。


 そんな女性の歌声を耳にしながら、僕は思う。


 このままで、本当に大丈夫なんだろうか。


 彼女と結婚するつもりだったけれど、こんな状態では、ただただ不安しかなかった。


 いずれまた大きな失敗をして、会社をクビになりでもしたら――


 そう考えると、彼女へのプロポーズなど、夢のまた夢にしか思えなかった。


 果たして僕は彼女と結婚して、幸せにしてやれるのだろうか。


 もし子供が生まれて、路頭に迷わせるなんてことになりでもしたら……


 はぁ、と大きく深いため息を吐き、僕は瞼を閉じた。


 ダメだダメだ。僕は何を弱気になっているんだ。


 大丈夫、大丈夫だ。まだ、大丈夫――


 そう自分に言い聞かせながら、僕は目の前で歌い続ける女性の、その綺麗で優しい歌声に耳を傾けた。


 女性の歌声は僕の心を柔らかく、温かく包み込んで。


 やがて僕は、昨日と同じように、いつしか眠りに落ちたのだった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?