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第1話

   1


 朝、目を覚ますと、いつも冷や汗をかいている。


 夢と現実がこんがらがって、思わず時計とカレンダーに目をやり、そして自分の頬を強く抓った。


 ――痛い。


 その痛みにほっと安堵して、彼女の用意してくれた朝食を摂り、出勤する。


 会社について一番、目の前には、夢で見たのと同じ、上司の怒り狂った顔があった。


 僕はただただ頭を下げ続けて、謝罪の言葉を口にする。


 間に入って上司をなだめてくれる楸さんに、僕はそのあと、やはりお礼の言葉を述べながら頭を下げた。


 そんな毎日が、ここ数週間、ずっと続いている。


 そろそろ楸さんも、僕の不甲斐なさに呆れ果てているのだろう、深い深いため息を吐くと、

「……有給でもとって、ゆっくり休んだ方が良いんじゃない?」

 どういうことだろう、と僕は不安を覚えながら考える。


 失敗ばかりする僕に、遠回しに会社を辞めろと言っているんだろうか、と怖くなった。


 僕を励ましてくれるあの笑顔の裏で、楸さんがどんなことを思っているのか、それを考えるだけで胃がキリキリ痛んで吐き気がする。


 入社から二年。


 これまで何度も仕事上のミスはしてきたけれど、これほど連発してミスをするなんてことは一度もなかった。


 企画書や見積書を出せば数字を間違えたり、先方の会社名を取り違えたり。


 依頼された品の発注数を一桁間違えて請求書がえらいことになり、何とか仕入先に頭を下げて返品する代わりに、別の品を仕入れて全員で各取引先に売り込みに行くことを余儀なくされた。


 今日は今日で朝一の会議を忘れ、出勤途中に上司からの電話がかかり、午後からの予定だった取引先への訪問を忘れ平謝りの電話をかけた。


 このままこの会社で、というより、社会人として働いていく自信すら失ってしまいそうだった。


 それでも何とか自分を奮い立たせ、デスクに向かって書類仕事をこなしている時だった。


「近藤くん」

 楸さんに肩を叩かれた。


「あ、はい。すみません」

 思わず謝罪の言葉が口から洩れて、楸さんは呆れたように小さく笑う。

「なんで謝ってんの? そんなことより、あとは私たちがやっておくから、あなたはもう帰りなさい」


 え、と僕は目を見張る。


『お前のような足手まといなど、この会社には必要ない。とっとと失せろ』


 そう言われたような気がした。


 そんな僕に気づいたのか、楸さんは「違う違う」と笑顔で手を振り、

「ほら、もう定時でしょ? そんなに根詰めないで、早く帰ってゆっくり休みなさい」


 言われて時計に目を向ければ、確かに時計の針はもう午後六時を過ぎていた。


「いえ、でも、まだ仕事が――」


「だ、か、ら。あとは私たちでやるって言ってるでしょう?」


 楸さんはそう口にすると、上司――平本部長に視線を向けた。


 僕もつられて窓辺に座る平本部長に目を向ければ、平本部長はちらりと僕に視線を寄越すと、再びパソコンの画面へと視線を戻した。


「ね?」と楸さんは僕の肩をポンポン叩きながら、

「早く家に帰って、お風呂にでも浸かってゆっくり寝なさい。今のあなたの仕事は、まず体調を整えてスランプから脱すること。いい?」


 まるで追い出されるかのように、僕は会社をあとにした。


 ――夏、夕方。


 いまだ強く照らす太陽の下、僕はとぼとぼと帰宅の途に就いた。


 まるで自分が必要のない人間になってしまったような錯覚に陥りながら。


 けれど、こんな状態で家に帰って、同棲中の彼女に心配されたくはなかった。


 こんな弱々しい自分を見せて、嫌われたくもない。


 僕はいったん電車を降りると、駅のすぐ近くに建つイベントホール、その傍らを流れる川沿いの遊歩道に足を向けた。


 遊歩道には、自転車で帰宅する学生やジョギングをしている人の姿がちらほらあった。


 僕はそんな中、ゆるやかに流れる川面を横目に見ながら、項垂れるように歩いた。


 大きな大きなため息を吐き、いっそこのまま川に飛び込みでもしようか、なんてことをぼんやりと考えていた、その時だった。


 どこからともなく、綺麗な歌声が聞こえてきたのだ。


 耳をすませば、それはすぐ先の川辺から聞こえてきており、どこの国の言語なのか、聞いたこともない言葉だった。


 僕はその歌声に吸い寄せられるように、歩みを進める。


 やがて見えてきたのは、長い髪を後ろで束ね、大きめの麦わら帽子を被った、一人の若い女性だった。


 白い半袖シャツに、薄色のデニムパンツを穿いている。


 彼女は川に向かってその綺麗な歌を歌っており、道行く人たちは皆がそんな彼女に視線をやりつつ、僕の前を通り過ぎていった。


 僕はなんて綺麗な歌声なんだろうと思いながら、イベントホール側に設けられたベンチに腰かけた。


 彼女の歌声に聞き入りながら、ゆっくりと瞼を閉じる。


 心が洗われるような、癒されるような、そんな優しい歌声に、僕はいつしかウトウトし始めて――目が覚めた時、辺りはすっかり暗くなっていた。


 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 いったい、今何時なんだろうと慌てて腕時計に目をやれば、午後九時前。


 二時間近くもこんなところで寝ていたらしい。


 そればかりか、スマホを見れば彼女からの着信が何件も入っていた。


 僕は慌てて彼女に電話をかけなおす。


「――あ、ごめん。電話出られなくて」

『どうしたの? 残業?』

「あぁ、うん。ごめん。でも今帰ってる途中」

『よかった。何かあったのかと思った。次からはちゃんと連絡してね』

「あぁ、ごめん」


 すぐ帰るから、と答えて、僕は通話を切った。


 それから大きく伸びをして、一息吐く。


 ふと胸に手を当てて、夜空を見上げた。


 ……何となく、気持ちが軽くなっているような気がした。


 あの女性の、歌のおかげだろうか。


 いい歌声だったなぁ、と思いながら、僕は腰を上げると、誰もいなくなった遊歩道を、我が家に向かって歩き出した。

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