午後十一時。
遅めの晩御飯を食べて、私と真帆さんはいつものように居間のテーブルを挟み、向かい合ってお茶を啜っていた。
深いため息をひとつ吐いてから、
「柏木さんは、あの後どうなったの?」
うなぎパイをぱりぱり口に頬張る真帆さんに私は訊ねた。
真帆さんはもふもふと口を動かしながら、
「あほあほふふひふぇふぁふぁふぇふぇ、ふぁふぇっふぇふぃふぃふぁふぃふぁふぉ」
うん、全く何を言っているのか解らない。
最初の『あほあほ』はきっと『阿呆阿呆』と言って私を馬鹿にしているのだろう、と勝手に解釈しながら、
「真帆さん、とりあえず飲み込んでから、もう一回言ってくれる?」
もぐもぐもぐ、ごっくん。ずるずるずる――
と真帆さんはお茶を啜ってから、
「あのあとすぐに目が覚めて、帰っていきましたよ。私の調合に間違いはありません。きれいさっぱり沙也加さんとの事を忘れちゃいました。今頃はたぶん、合コンで出会ったただの女の子程度だと思いますよ。自分がどうしてこんなところで寝ていたのか、しきりに首を傾げていましたしね」
その時の様子を思い出したのか、真帆さんは意地悪くぷぷっと噴き出して小さく笑った。
本当に、この人は性格が悪い。
けれど。
「真帆さんのお陰で、今日は助かりました。ごめんなさい」
私は素直に謝り、そして頭を下げて礼を述べた。
まさか柏木さんがあそこまで必死に沙也加ちゃんを引き留めようとするなんて、思いもしなかった。奥さんも娘さんもいるようないい大人が、あんな見苦しいことをするだなんて、私は思っていなかったのだ。
そんな私の浅はかさに、私は恥じ入るしかなかった。
「気にしないでください」
と真帆さんは二枚目のうなぎパイに手を伸ばしながら、
「どのみち、ああいう人はサクッと記憶を消しちゃった方が手っ取り早いですから」
そりゃぁ、真帆さんは、あの魔法薬で自分に近づいてくる男どもの記憶を悉く消し去ってきた過去があるから、何の罪悪感もないんだろうけれど。
(この際、普段真帆さんが「薬で人の気持ちを変えるべきじゃない」って言っていることは無視する。その信条も時と場合によるみたいなので)
「そもそも、柏木さんの依頼は奥さんからの疑惑を晴らすことだったんでしょう? なら、沙也加さんとの記憶を消したうえで、二度と会わないようにしてしまえば簡単じゃないですか。ちょっと時間はかかるかもしれませんが、奥さんから不貞を疑われることもなくなって万事解決!」
う~ん、そんなもの? 本当にそれでよかったのかなぁ……?
首を傾げる私に、真帆さんはパリッとパイをかじりつつ、
「そもそもですね、人と人の思いがすれ違うことなく綺麗に合致することなんて、そうそうないと私は思ってます。人はそれぞれが自分の思いや気持ち、欲望に従って生きていて、相手が何を考えて、どう思っているかなんてのは、想像することはできても、理解することなんて一生できないんじゃないですかね?」
人生なんて、そういうことに折り合いをつけていくしかないんですよ、と言って真帆さんはうなぎパイの残りを口の中に放り込んだ。
もぐもぐもぐ、ごっくん、ずるずるずる……
「それにしても、愛と恋が別物って、どういうことなんだろう」
「はい?」
「柏木さんが言ってたんだ。愛と恋は別物って。私には、浮気の言い訳にしか聞こえなかったんだよね」
ふぅん、と真帆さんは小首を傾げ、
「私も、愛と恋は別物だと思いますよ」
「えっ!」
と私は思わず目を見張る。
「どういうこと?」
「恋は愛に至る経緯です。恋が愛になってしまえば、それはもう恋ではありません」
「んん?」
「そうですね、恋が病なら、愛は執着ですかね」
「もっとよくわかんない」
首を傾げる私に、けれど真帆さんはそれ以上説明はしてくれなかった。
ただずるずると残りのお茶を啜るばかり。
その時、廊下の向こうからがちゃりと扉の開く音が聞こえてきた。
きしきしと廊下の床板がきしむ音がして、居間にお風呂上がりの翔くんが入ってきて、
「お風呂、どうぞ」
と私たちに声を掛けてきた。
翔くんは真帆さんのいとこの息子さんで、今年十六歳、高校一年生の男の子だ。
彼は昔から真帆さんの事が大好きで、昨年真帆さんのおじいさんが亡くなったのを機に、それまで住んでいた田舎町を出て、楸家に居候するようになった。
とはいえ、こっちの母屋には私も居るし、女二人に若い男一人ってのもどこかアレなので、彼は一人、表通りに面した店舗の二階に自室を作り、普段はそこで暮らしている。こちらの母屋に来るのは、食事とお風呂の時くらいだ。
私は翔くんに顔を向け、
「翔くんはどう思う?」
「え、何が?」
眉間に皺を寄せる思春期真っただ中のその少年に、私は意見を仰いだ。
「恋と愛は別物だと思う? 一緒だと思う?」
「な、なに? 何の話?」
戸惑う翔くんに、私はさらに尋ねる。
「例えばさ、翔くんは真帆さんのこと好きじゃん? 愛してるでしょ?」
「な、何を突然――!」
顔を真っ赤にして慌てふためく翔くん。
初々しくて可愛いじゃないか、この野郎。
そんな翔くんに、私はさらに畳みかける。
「じゃぁさ、沙也加ちゃんはどうだった? あの子、結構可愛かったよね? あの子に恋とかしちゃわなかった?」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何の話なのか、全然分かんないから!」
「でもさっき彼女を家まで送ってあげたでしょ? 何もなかったの?」
翔くんは口をもごもごさせながら、
「……また、古本屋の方に来ていいかとは、訊かれたけど」
――何ですと? それは聞き捨てならない。
「そ、それで、なんて答えたの?」
翔くんは視線を彷徨わせながら、
「いつでも、どうぞって――」
私は思わず両手をぱちぱち叩きながら、
「ほらほらぁ、やっぱり沙也加ちゃんのこと!」
「だ、だから、なんでそうなるんだよ!」
必死に両手を振って否定する翔くんの様子が、本当におかしくて。
「ひ、ひどい!」
と真帆さんも口元を笑みで歪めながら、およおよと泣くふりをしつつ、
「私というものがありながら、翔くんは沙也加さんを選ぶんですね!」
「え、えぇっ?」
私と真帆さんは、にやにやしながらそんな翔くんの答えを待った。
けれど翔くんは、私たちがからかっているのだということに気が付くと、
「も、もうやめてくれよ! 僕、もう寝るから! おやすみ!」
吐き捨てるようにそう言い残して居間から出て行き、母屋の扉をガラリと開けると、自室のある店舗へと逃げ去るように駆けていった。
私と真帆さんはそんな翔くんを見て、思わず声を大にして笑いあったのだった。
……ふたりめ 了