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第6話

   6


 私の目の前には、おどおどした様子の柏木さんが、まるで小さな子供のように、ちょこんと腰を下ろして座っていました。しきりにあちらこちらに視線をさまよわせており、全く落ち着きがありません。


 夕闇迫る空の下、私と柏木さんは、バラの咲き乱れる庭の一画にある東屋で、テーブルを挟んで向かい合っていました。


「二人で話がしたい」

 そう口にしたのは、柏木さんでした。


 茜さんは少し考えてから、

「あの子が傍に居て構わないのであれば」

 と、キコという名のインコを見ながら、私の代わりに答えました。


 キコはテーブルの端で、じっと柏木さんを見つめたまま、微動だにしません。柏木さんの動向を厳しく監視している、そのように私には見えました。


「……」

「……」


 私も柏木さんも、一言も言葉を発しないまま、もう十分近くが経過していました。


 茜さんは私たちを東屋まで案内すると、

「お店の方で待っているから、何かあったらすぐに呼んでね」

 と私に声を掛けて戻っていきました。

 多分、今頃は、お店の中から私たちの様子を窺っているのではないでしょうか。


 長い長い沈黙を経て、ようやく柏木さんは、恐る恐るといった様子で、口を開きました。


「その、なんというか……本当に、すまなかった」

 そう言って、テーブルに両手をついて、深々と頭を下げます。


「……それは、何に対しての謝罪ですか?」

 私はその後頭部を見つめながら、柏木さんに問いました。


 柏木さんはゆっくりと頭を起こすと、けれどその視線はテーブルの上に向けられたまま、

「君との関係を、今書いている小説のネタにしようとしたことだ。俺は、君と映画を観に行くうちに、君に対して恋心を抱くようになっていった。その気持ちを参考にして、俺は小説を一本書き上げて、文芸賞に応募しようと思っていたんだ」


 私は、柏木さんが小説を書いていたということを、今日の今日まで知りませんでした。

 最初からそのことを教えてくれていれば、もしかしたら私も、そのお手伝いをしていたかもしれません。変に隠して利用しようなんて考えずに、正直にその事実を私に明かしてくれさえすれば、こんなことにはならなかったでしょう。


 私だって、私自身が小説の登場人物のモデルになるのであれば、それはそれで光栄ですし、協力は惜しまないつもりでした。私は作家という職業を尊敬しています。だから、そんな人たちの創作の糧になるのであれば、参考や資料にされること自体、別に構わなかったのです。


 けれど柏木さんは、私にそんなことを一言も告げずに、私の気持ちなんて全く考えないで、ただ自分の気持ちだけ優先して――私は、それがとても許せませんでした。


 それに、そればかりか、私に対して恋心を抱くだなんて……


「柏木さんは、私を馬鹿にしているんですか?」

 口を衝いて出た言葉に、柏木さんは目を丸くして、

「え?」

 と私に視線を向けます。


 私はそんな柏木さんをじっと睨みながら、

「それって、自分のために私を利用しようとしたってことですよね? 私の気持ちなんて考えずに」


「いや、違う、そういうつもりじゃなくて」


「じゃぁ、いったい、どういうつもりだったんですか? そもそも、なんで最初から言ってくれなかったんですか? そうすれば、私だって協力したかもしれません。それなのに、勝手に私をモデルにしようとするなんて、私はそれが許せません!」


 柏木さんは肩を落としながら、

「……後ろめたさがあったんだ。俺と君は、親子ほども歳の差がある。おまけに俺には妻も娘も居るのに、まさか今から書く小説の為に恋人ごっこに付き合ってほしい、なんて言えるわけないじゃないか。だから俺は、何も言わずいることにしたんだ。映画を一緒に観るのを口実にして、君と会って、食事をして、時々お店に立ち寄って。俺が何を言えば君はどんなふうに答え、どんな反応をするのか。それらを全部覚えておいて、次の作品…….今書いている小説の資料にしようと思ったんだ。けれど、そのうちに君に対する恋心が生まれて、俺は……そう、いわゆる恋の病を患ってしまったんだ。そのうち俺は、恋を優先しているのか、執筆を優先しているのか、それすら判らなくなっていったんだ。気の迷い、と言えばそうかも知れない。それに君を巻き込んで、本当にすまなかったと思っている」


 そんな説明に、私は納得できませんでした。

「それって結局、柏木さんは自分の事しか考えていなかったってことですよね? 私に対して恋心を抱いて、その気持ちすら自分の書く小説に利用しようとして……」


 この人はいったい何がしたかったのか、もう、全然解りません。


「正直なところ、今、俺は俺の気持ちもよく解らないんだ……」


 私は柏木さんのその言葉にひどく落胆してしまいました。

 そしてこれ以上何を話しても、無駄なように思えたのです。


「……もういいです。私、帰ります」

 そう言って立ち上がった私の腕を、

「ま、待ってくれ!」

 柏木さんは叫んで、力いっぱい掴みました。


「は、離して!」

 私は叫び、助けを求めてキコに顔を向けました。

 けれどどこへ行ってしまったのか、そこにはキコの姿はありませんでした。

 辺りを見回せば、魔法堂の方へ飛んでいくキコの後ろ姿が見えました。


 必死に腕を振る私に、柏木さんは大きく目を見開きながら、

「頼むから、もう少し話を聞いてくれ! どうしても、俺はあの小説を完成させたいんだ! 小説家になるのが昔からの夢で、でもこの歳になっても全然なれなくて! 今度こそいけそうな気がするんだ! 君へのこの気持ちがあれば、素晴らしい小説が書きあがるはずなんだよ! 沙也加ちゃんだって、今言ってたじゃないか! ちゃんと話せば協力してくれるって! そうだ、俺は全部話す! だから、協力してくれ! もう一度俺に機会をくれ! 頼む!」


 ギリギリと私の腕を掴む手に力を込めてくる柏木さんの、その鬼気迫る形相があまりにも恐ろしくて、私は必死にそれを振り解こうと激しく身を捩りながら、

「い、嫌! やめてください! これ以上は奥さんに――!」


「はいはーい、お待たせしましたぁ!」

 突然そんな声が聞こえたかと思うと、誰かが私と柏木さんの間に割って入ってきました。

 その人は柏木さんの腕にそっと左手を添えながら、

「まぁまぁ、二人とも、そんなに興奮しないでください! ちょっとお茶でも飲んで落ち着きませんか?」

 満面の笑みでそう言ったのです。


 流れるような長い黒髪はとても美しく、小柄な体はどこかお人形さんのようでした。ピンク色のニットにふわりとした白いロングスカートをはき、よくよく見れば高く掲げられた右手の上には丸いトレーが乗っています。


 柏木さんはそんな女性の笑みに戸惑うように、

「あ、あぁ……」

 と小さく呻いて、ゆっくりと私の腕から手を離しました。


 私は掴まれていた腕を擦りながら、その女性に促されるように椅子に座ります。


「はい、どうぞ」

 言って女性は私たちの前にそれぞれお茶の注がれたカップを置き、

「ささ、どうぞどうぞ!」

 と、トレーを胸に抱きながら、一歩後ろに下がりました。


 私と柏木さんは何とも言えない表情で互いに視線を交わし、やがてどちらからともなくカップに手を伸ばしました。


 そのカップを口に運んだ刹那、

「ぷぷっ」

 脇に立つその女性が、僅かに噴き出すように笑ったように見えたのです。


 それは、ほんのりとバラの香りがする、不思議な味の紅茶でした。

 鼻を抜ける香りは柔らかく、甘く、けれど――次の瞬間、



 ドガンッ!



 そんな鈍い音と共に、柏木さんがテーブルの上に突っ伏して、私は驚きのあまり固まってしまいました。


「……え、なに? 柏木さん? 柏木さん!」

 思わず手を伸ばし体をゆすれば、

「ぐごごごご、ぐごごごご」

 柏木さんは大きないびきをかきながら、寝ているではありませんか。


「な、何なんですか? 何をしたんですか?」

 慌てて女性に顔を向けると、

「翔(かける)くーん! かーけーるーくーん!」

 女性は私の質問を無視するように、古本屋さんの方に大きな声で叫びました。


 すると開けっ放しのドアの向こうから、

「……なに、真帆ねぇ」

 と、私と同い年くらいの男の子が顔を覗かせたのです。

 彼は表通りに面した古本屋の、店員さんでした。


 真帆ねぇ……ということは、この女性が魔法百貨堂の店主、楸(ひさぎ)真帆さん?

 なんて綺麗な人なんだろう、何て可愛らしい人なんだろう。

 私は思わず見惚れていました。


 真帆ねぇと呼ばれてるってことは、この男の子――翔さんは、真帆さんの弟さんなのでしょうか。


 真帆さんは、テーブルの上に突っ伏していびきをかいている柏木さんを指さし、

「この方を表に運ぶの、手伝ってもらえますか?」


 翔さんは柏木さんの後頭部を困ったように横目で見ながら、

「……また、何をしたの、真帆ねぇ」

 と呆れたように口にします。


 そんな翔さんに、真帆さんはぷぷっと噴き出すように笑いながら、

「ちょっと記憶を操作しました」

 楽しそうに、そう答えたのです。


 記憶を、操作した?

 それはいったい、どういうことでしょうか?


 疑問に思っていると、真帆さんは私に顔を向けて、

「これで柏木さんは、沙也加さんとの今までの関係や気持ちを、きれいさっぱり忘れ去りました。もう心配いりませんよ」


 そう言い残して、真帆さんは翔さんと二人、柏木さんの体を担いで、古本屋の方へと去っていったのでした。


 私は東屋に一人取り残され、ただただ茫然としていました。

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