5
(沙也加)
私は茜さんの計らいで、お店の奥に身を潜めて、柏木さんの様子を窺っていました。
今、柏木さんは、茜さん相手にお話をしているところです。
あの時、茜さんが口にしたのは、
「一度、柏木さんご本人からもお話を伺いたい」
という言葉でした。
どういう意味だろうと私は首を傾げて尋ねましたが、茜さんは少し難しい表情で、
「あまり詳しいことは言えないんだけど…… とりあえず、柏木さんには、何か悩みがあるんなら、このお店に相談してみたらどうですか、って勧めてくれないかな」
そう言ってカウンターから取り出したのは、小さな紙きれでした。
見れば、それは魔法百貨堂の名刺だったのです。
けれど、場所は書いてありません。
ただ店の名前と、楸(ひさぎ)真帆――このお店の店主さんの名前が印字されているだけでした。
わずかにバラの香りがする以外は、本当にただの名刺です。
「これは?」
私が訊ねると、
「この名刺には、ちょっとした魔法が掛かっていて、受け取った人は必ずうちの店に来るようになっているの。たぶん、普通に勧めたんじゃぁ、うちには来てくれないだろうから」
「……そうですね」
と言って、私はその名刺を受け取りました。
そして、その翌週。
私は柏木さんとまたお会いした際に、
「実はこの近くに、何でも魔法で解決してくれる、魔法百貨堂ってお店があるんですけど」
と、その名刺を柏木さんに手渡したのです。
その名刺を見て、柏木さんは明らかに訝しむような表情になりました。
本当にこんな紙きれにそんな力があるんだろうかと不安に思いましたが、果たして茜さんの言った通りの日時に、柏木さんはこの魔法百貨堂を訪れたのです。
「沙也加ちゃんにも、是非その場にいてほしくて」
そう言われて、私は身を隠しながら、柏木さんのお話を聞いていたのですが――
「恋」
そんな柏木さんの声が聞こえて、私は思わず目を見張りました。
「昔、まだ妻と付き合い始めた頃のあの感情を、俺は思い出したんだ」
それは、私が思いもしなかった言葉でした。
私はてっきり、柏木さんがお父さんと同じように、何か大きな病気を抱えているのだと思っていたのに。
それなのに、柏木さんはただ、私に対して、恋心を抱いていたというのです。
途端に、頭の中が真っ白になりました。
いいえ。恋そのものに年齢が関係あるなんて、私は思ってはいません。
漫画や小説にも、年の差を扱った作品なんて、山ほどあります。
けれど、それが、今まさに、自分の身に起きていたのだと思うと、なんと言って良いのかすぐには判りませんでした。
私はただ、柏木さんに父の面影を投影していただけ。
本の大好きだった父。父の部屋には今もたくさんの本が収められていて、私はそんな父と同じように、本を愛していたのです。
柏木さんも同じだと思っていました。
本当に、本のことが好きなんだと思っていました。
父と同じようなことを口にして、父のように温かい目で私を見てくれて。
けれど、その目が、実は私への恋心からきていたものだっただなんて――
そう思った途端、私は急に吐き気を催しました。
慌てて両手で口を覆い、喉元まで上がってきたものを何とか飲み込むと、私は深く呼吸をして、何とか気持ちを落ち着かせます。
ただただショックでした。
まさか、私のことを、そんなふうに見ていたなんて。
私は大きくため息を吐くと、再び耳を澄ませました。
5
(柏木)
「奥さんへの疑念を晴らして、そのあとはどうするおつもりなんですか?」
茜さんの鋭い視線とその言葉に、
「そ、それは……」
と俺は一瞬、返答に窮した。
妻の疑念を晴らしたところで、そんなものはただのその場しのぎにしかならない。そのあとどうするつもりなのか、などと問われても、俺にはどうすればいいのかなんて、最早解るはずもなかった。
「い、今書いている小説が書き終わったら、沙也加ちゃんにはすべてを打ち明けて、終わりにするつもりだ。もう二度と会わない、映画を観にも行かない。今はその小説を書ければそれでいいんだ。そもそも、そのために俺は沙也加ちゃんと会っていたんだから。この恋心だってそうだ。小説を書く上でこの上ない資料じゃないか。結婚して以来忘れ去っていた感情だが、この恋心があってこそ、今書いている小説はより現実味のある完璧な作品に仕上がるんだ!」
思わずまくしたてるように言ってから、俺は茜さんの、その射貫くような視線にはっと口をつぐんだ。
その俺を責めるような視線があまりにも痛くて、これ以上彼女に顔を向けることなんてできなかった。
茜さんはしばらく無言で俺を睨みつけていたが、やがて小さくため息を吐いてから、
「……柏木さんのお気持ちは、よくわかりました」
低い声で、呟くように口にした。
「でも、それを沙也加ちゃんが知ったら、彼女がどう思うか、考えたことはありますか?」
俺はそれに対して、視線を泳がせながら、
「さ、沙也加ちゃんも多分、俺の気持には気づいているはずなんだ。この店を教えてくれたのも沙也加ちゃんだし、先週会った時なんて、そろそろ俺たちの関係を妻にはっきり伝えろって言ってきたんだ。いつまでも隠していたって、良いことなんてある訳ない。いったいこれからどうするつもりなのか、ちゃんと先の事も考えているのか、そう問い詰められたんだ。あれはきっと、沙也加ちゃんも俺のことを好いているからこそ――」
「ち、違います!」
その聞き覚えのある声に、俺はふと我に返って口を閉ざした。
「私、そんなつもりで言ったんじゃありません!」
いったい、どこから沙也加ちゃんの声が。
そう思いながら辺りを見回すと、カウンターの脇、店の奥へと続いているのであろう暖簾をくぐって、目に涙を浮かべた沙也加ちゃんが、その姿を現したのである。