2(柏木)
俺が彼女と出会ったのは、一年前の夏のことだった。
当時、俺は次に書く小説で悩みを抱えており、そんなときに出会った彼女こそが、その答えを私に与えてくれたのである。
若い頃から小説家を目指していた俺は、この数十年の間、幾度となく小説賞に応募し、プロとして小説家デビューすることを夢見てきた。しかしながら、一次選考通過、二次選考通過、と予備選考は通りこそすれ、大賞に選ばれることなど一度として無く、夢を夢としたまま、悶々とした日々を送っていた。
夜遅くに仕事を終え、すでに眠りについている我が妻と娘に声を掛けることなく、用意されていた夕食を食べ、風呂に入り、書斎で小説を書く。
ただそれだけの毎日に、俺は嫌気がさしていたのかもしれない。
或いは、これまで書いてきた小説の中で、唯一書いたことのないジャンルの為に、どうしても彼女を必要としていたのではないか。そんな都合の良いことを考えることさえあった。
いずれにせよ、俺は仕事の後輩からの誘いで、普段なら絶対に参加しない合コンに人数合わせとして参加。そこで彼女と出会うこととなったのである。
彼女もまた俺と同様、ただの人数合わせとして、社会人である姉から参加をお願いされたのだと教えてくれた。後輩たちや彼女の姉らが楽し気に談笑している脇で、二十近くも歳の離れた我々は、ただ大人しく小説談議に花を咲かせたのだった。
彼女の名前は小野寺沙也加。近くの商業高校に通う、高校二年生だった。
沙也加ちゃんはとても可愛らしく聡明で、ぱっと見はもう少し歳がいっていそうなほど大人びた印象だった。肩まで伸びた黒い髪は僅かに内側にカールし、隙間から見える耳は小さく仄かに赤みを帯びていた。目はぱっちりと二重で、すっとした鼻の下には薄い桃色の唇が時折小さな溜息を漏らしていた。その溜息の色っぽさを思えば、大声で笑い叫ぶ後輩どもと比べて、やけに大人っぽく見えた。けれども、よくよく見れば確かにまだ幼さの残る顔立ちをしており、そのどこか小動物のような言動もまた、彼女がまだまだ未成年であることを物語っていた。
彼女はライトノベルからエンタメ小説、或いはホラーやSF、純文学など、あらゆる小説をそのジャンルの垣根無くよく読んでいることを俺に教えてくれた。当然俺も小説家を目指している以上、それなりに多くの小説を読んだという自負があった。彼女くらいの年頃ならば、きっとこういったジャンルの作品が好きに違いない。そうあたりをつけて話を振ったのが、ここ数年人気を博しているライト文芸系のミステリー小説だった。
彼女は俺の振る話に嬉々として飛びつき、最初こそボソボソと小さな声で喋っていたその口は次第に饒舌になり、早口になり、やがて私から話を振らずとも自ら俺に話を振ってくるようになっていった。
「そういえばその作品、今度映画化するんだってね」と俺は何の気なしに口にした。「映画化すると、どうしても原作とは違った感じになるんだけど、長い小説を映画という僅か二時間にどうやって押し込むのか、それが気になってついつい観に行っちゃうんだよね」
「私もです!」と沙也加ちゃんは興奮気味に言って、「それで改悪なんてされていたら、ムカついて、なんでそこをそうしたのよ! って帰りのバスの中でずっと悶々としちゃったりして」
「あぁ、あるある。変えるにしても、もっといいやり方があっただろう! って憤りを覚えちゃうんだよね。で、気になってなかなか眠れなくて、俺なんてもう一度原作を最初から読み始めて留飲を下げたりする」
「へぇ、私だったらそのまま寝て忘れちゃいます。やっぱり原作は原作、映画は映画。原作は原作で尊いけど、映画には映画なりの良さがあるんだって自分に言い聞かせて。だけどそのまま二度と観ることはなかったり。逆に上手くまとめている映画とかは何度も何度も繰り返し観ちゃうんですけどね」
そう言って、彼女は作品のタイトルをいくつも連ねていった。それらはどれも俺も認める名作であり、或いは原作以上の面白さを誇るパニック映画も含まれていた。
やがて合コンもお開きとなり、俺はこの女の子とはもう二度と会うこともないだろう、そんなことを考えながら帰宅の途に就いたのだった。
それから数日はいつも通りの日々が続いた。夜遅くに仕事を終え、すでに眠りについている我が妻と娘に声を掛けることなく、用意されていた夕食を食べ、風呂に入り、書斎で小説を書く。その翌日も夜遅くに仕事を終え、すでに眠りについている我が妻と娘に声を掛けることなく、用意されていた夕食を食べ、風呂に入り、書斎で小説を書く……
やがてそんな毎日にやる気も失せ、パソコンの前に座っても一文字も書けないという日が続いたある日、俺は気分転換だとばかりに次の休日、映画を観に行くことにした。妻も娘も誘ってみたのだが、全く興味がないから一人で行ってくれと言われ、仕方なく一人寂しく近くのショッピングモール内にある映画館を訪れた。やはり休日ともなれば人が多く、発券機の前には長蛇の列ができていた。その列に並ぶこと数分。時折蛇行するように続く列の少し先から、
「あれ? 柏木さんじゃないですか?」
とどこかで聞き覚えのある声が聞こえて、俺は思わず声のしたほうに顔を向けた。
見れば、沙也加ちゃんが笑顔で小さく手を振っているではないか。合コンの時とは違い眼鏡を掛けていたので一瞬判らなかったが、あの目元や顔立ちは見間違いようがなかった。
沙也加ちゃんはわざわざ先に並んでいたのを俺の所まで小走りに駆けてくると、
「柏木さんも、あの映画を観に来たんですか?」
「あぁ、うん」と俺は頷く。「あの時話になって、ちょっと気になってたからね」
沙也加ちゃんは「ふふっ」と笑って目を細めると、
「私と一緒ですね」
その可愛らしさに年甲斐もなくどぎまぎしつつ、けれどそれを顔に出さないよう注意しながら俺は訊ねた。
「沙也加ちゃんは、誰と観に来たの?」
「私ですか? 一人ですよ」
「え、一人?」
女子高生ともなれば、友達なんかとわいわいがやがやしながら観に来るものだとばかり思っていた俺にとって、それはあまりに意外な答えだった。
「はい。私、ぼっちなので」
ぼっち――ひとりぼっち。
その言葉に、俺は何だか胸が詰まる思いがした。
しかし、沙也加ちゃんは全くそんなことを気にするふうでもなく、俺の顔を覗き込みながら。
「どうせなら、一緒に観ませんか?」
「え、いや、でも、こんなおじさんとなんて、変に怪しまれないかな」
「大丈夫ですよ」と沙也加ちゃんはくすりと笑んで、「たぶん、親子にしか見えないと思いますから」
まぁ、それもそうか。そう思った俺は沙也加ちゃんと二人して列に並び、一緒に券を買い、そして二人並んだ席で映画を鑑賞したのだった。
「――と、まぁ、それが彼女との出会いだったわけだ」
俺はそこまで茜さんに話して聞かせると、小さく一息吐いた。
いつの間にか目の前に出されていたお茶に気づくと、茜さんは「どうぞ」と言ってそれを俺に勧めてくれた。乾いた唇を湿らせるように、俺はちびりとそのお茶を口にする。仄かに香る花の匂い。ジャスミンティーか何かだろうか。
「それで」と茜さんは口を開き、「その沙也加さんと、あなたは――」
「あぁ」と俺は頷き、「それをきっかけにして、俺たちは度々休日に会って、一緒に映画を観る仲になっていったんだ」