5
放課後。僕はまた一人、教室に残っていた。
窓の外に目を向ければ、沙綾たち陸上部の面々が先日と同じように、グラウンドの片隅で練習に励んでいた。
僕はその様子を眺めながら、鞄からヨツバチョウのキーホルダーを取り出す。
窓から差し込む陽の光を反射して、キラキラと虹色に輝く奇麗な翅。
何だか今にも飛んで行ってしまいそうな錯覚が起こり、僕は思わずそれを握り締めた。
早くこのキーホルダーを渡さないと、沙綾もまたどこかへ飛んで行ってしまうんじゃないか。
そんな焦燥感に駆られて、僕はたまらず鞄をひっつかみ、教室を飛び出す。
小走りにグラウンドを駆け抜け、隅の陸上部たちの方へ向かった。
『また来たよ、アイツ』
そんな眼で見られながら、僕は辺りを見回して、沙綾の姿を探した。
どこだろう、どこに居るんだろう。
焦れば焦るほど、人がただのマッチ棒か何かに見えて、焦点が定まらない。
やがてクラブ棟の片隅、手洗い場に沙綾の後ろ姿を見つけて、僕はほっと胸を撫でおろした。
「……いた」
小さく、声が漏れる。
だけど。
その隣。
沙綾と並んで。
中島くんの。
後ろ姿が。
そこにはあって。
その途端、グサリとあの突き刺すような痛みが再び胸を襲った。
僕は胸を強く押さえ、立ち尽くす。
次第に荒くなっていく呼吸。
背中ににじむ汗。
手足が震え、二人の背中を凝視する。
二人は楽しそうに何か会話を交わして――まるでじゃれあうように――笑いあって――
そうして僕が動けないでいるうちに、中島くんの方が先にこちらに戻ってきた。
僕の脇を通り抜けて、男子たちの方へ合流する。
目は合わなかった。
声もかけられなかった。
まるで僕のことなど、はなから眼中にないように。
やがて沙綾も遅れてこちらに体を向け、「あっ」と口にして、僕の方へ駆けてくる。
「今日も来てくれたんだ?」
「あ、あぁ――」
声が、まともに出てこない。
「どうしたの? 大丈夫? もしかして、またおなか痛くなった?」
心配そうに訊ねてくる沙綾に、僕は首を横に振りながら、
「う、ううん。だ、だいじょう、ぶ」
何とか声を絞り出す。
「あんまり無理しちゃだめだよ? 体調悪いなら、早く帰って休まなきゃ」
「ほ、ほんとに、だい、じょうぶ、だから……」
そう? と首を傾げる沙綾。
それから昨日と同じように、僕は邪魔にならない隅の方で、沙綾たちの練習を眺めていた。
沙綾はその練習中も、事あるごとに、中島くんの方に顔を向けていた。
その度に、僕の胸は激しく痛んだ。
『もしかして』と思っていたことが、『きっとそうだ』とだんだん確証になっていく。
心臓がどくどくと激しく音を立て、手足がかくかくと小刻みに震えた。
僕は何とか平常心を取り戻そうと、深く深く呼吸をして、何とかそれらを押さえ込む。
しばらくして、沙綾はタオルで汗を拭きながら、僕の立つ隣に、すっと腰掛けた。
「ちょっと休憩」
そう、言いながら。
けれどその視線の先にはやっぱり中島くんの姿があって、僕は居ても立っても居られなかった。
深呼吸を一つしてから、意を決して、
「さ、沙綾、もしかして中島くんのこと――」
だけど、それ以上言葉は出てこなかった。
金魚のように口をパクパクさせる僕を、驚いたような表情で沙綾は見ながら、だけどその先に言おうとしていることを理解したのだろう、
「――うん。好き」
はっきりと、そう口にした。
――あぁ、やっぱり。
全身の血の気が引いていき、僕もすとんと腰を落とす。
そんな僕に、沙綾は続けた。
「でも、まだ告白はしてない。もうすぐ大会だから、何か影響があったら嫌だし。でも、この大会でいい結果が出たら、告白してみようかなって思ってるんだ」
それからくすりと笑い、
「実はさ、自由参加の朝練に参加してるのも、中島くんに会うためだったんだ。今日はたまたま中島くんに用事があるのを知っていたから、朝練に出なかっただけ」
「そ、そうなんだ……」
僕は力なく口にする。
沙綾は小さく息を吐き、
「中島くんのことを思うと、私、胸が苦しくなるんだ。夜になると、会いたくて会いたくて仕方なくなる。その気持ち、トモにも解るかな?」
僕は全身が熱くなって、けれど中島くんを愛おしそうに見つめる沙綾の顔を見ていると、居ても立っても居られなかった。
僕が見たいのは、沙綾のそんな寂しそうな顔じゃない。
いつもの、あの笑顔が見ていたいのだ。
僕は自分の鞄からキーホルダーを取り外し、そしてポケットに収めていたもう一つのキーホルダーと合わせて沙綾に見せる。
「こ、これ、その……」
ん? と首を傾げる沙綾。
僕はそれを傾いた陽の光にかざしながら、
「ひ、必勝祈願の、キーホルダー。ふ、二つあるから、一つは中島くんに渡しなよ。これ、二つ重ねると、クローバーになるんだ。お揃いみたいで、良いでしょ?」
「え、でも、良いの?」
驚いたように、沙綾は言う。
「うん。だって、その為に持ってきたんだから、受け取ってよ」
沙綾はすっとキーホルダーに手を伸ばし、僕がそうしたように、陽の光にゆらゆら揺らす。
虹色に輝く翅の影が、沙綾の可愛い顔に落ちて。
「きれい――」
感嘆の息を漏らし、
「ありがとう、トモ!」
僕の大好きな、輝くような笑顔で、そう言った。