紅見市にある紅見駅南口のすぐ近くにある地下を通り、また、地上に出てから少し歩くと街が広がっている。
その一角にその喫茶店はある。その喫茶店のお客様男女比率は新天地に移った今でも比べることがない程男性客が多い。
その喫茶店の名は『紅見喫茶店』である。別名、『ローテーション喫茶』と呼ばれている。店員が日替わりでこの店限定の店内ラジオで盛り上げているからだ。
店内ラジオ三年目の十月、今日もまた僕はここに来た。ここは社会人の僕を癒してくれる所だからだ。
あの紅見駅ビルにあった頃よりも少し広くなった新装した紅見喫茶店には今日も店内ラジオの生放送を聞きにたくさんの店内ラジオ会員が集まっていた。
カラッラン! あの手動扉の音がまた聞こえた。
「よお! ハッパ! こっちだ、こっち」
店の中に入ると大きく片手を振る末広さんの姿が目に入った。
「お疲れ様です。末広さん」
「おつかれーってオレ、今日働いてないんだよなぁ」
「な、何でですか?」
「そんなに驚くことじゃないだろ? 時に社会人だって平日休んだりするじゃん」
「でも、末広。今もお前、バイトだろ?」
「いいえ。今では派遣社員になりました」
「たったの数日で何があった?」
と四十さんが末広さんを心配した。
「別に。……親がうるさかったから……」
僕と同じ理由……でも、派遣なんだ……と僕は思った。
「そんなことより、始まるぞ! ほのかさんの生放送!」
末広さんの言葉で今日の店内ラジオ生放送が始まった。
柚野さんときのみちゃんと副店長の千色さんは今日、接客みたいだ。
そして、迫平さんはいつもの雑用を店長にさせられているみたいだった。
厨房の方ではコック姿の才木さんと吉玉さんがいた。パートのおばさん達はもう帰った後のようだった。
店長はやっぱり、ダーマさんの近くでレジをしていた。
僕が落ち着いたのと同時に耳によく馴染んでいる声が聞こえてきた。
「スタートです! ほのかのホッと生ラジオ!
その声が店内に響き渡るとその店の客は一斉にリスナーになった。
(あ、そういえば今日って、新装開店して初めての生放送だっけ?)
そんなことを僕は思った。
「最初のお便りは小石さんからです。ありがとうございます」
その声に反応する一人の男がいた。
久しぶりに見る小石君だった。
他の者は冷静だ。
否、冷静ではないかもしれない。
読むか読まれるか、書いて送って泣き笑いの三十分以内の店内ラジオ生放送なのだ……云々と僕が初めてこの紅見喫茶店生放送を聞いた後の末広さんの言葉を何故か急に思い出した。
「『新装開店、おめでとうございます! 僕はまたこの店内ラジオが聞けてとても嬉しいです』」
「そうですか。それは良かったです。私はこの話よく聞くんですけど誰があんな噂流したんでしょうね? 店長に訊いたら『おらはそんなこと一言も言ってないよ!』って言ってましたけど。ま、これからもどんどん店内ラジオメインのユズノちゃん、アシスタントのきのみちゃん。それにメイン候補生の子達と頑張っていくんでよろしくお願いします」
とほのかさんは丁寧にお辞儀した。
「ああ、やっぱりこれは本当なんだ」
と誰かが言ったのが聞こえた。
「続いてのお便りは――」
ほのかさんの生放送はまだ始まったばかりだった。
*
移転したことによって、新しい店内ラジオ会員も数日の内に増えたようだった。
その日も僕はいつも通りここに来て、末広さんと一緒にコーヒーを飲みながらいつも通りのどうでも良い話をしていた。
「なあ、ハッパ」
「何ですか? 末広さん」
僕はぼーっと答えた。
「あれからどのくらい経ったかな?」
「は?」
あまりに唐突な話に僕は思わずそんな態度に出てしまった。
「あれって言ったらこれしかないだろう。ハッパ、店内ラジオドラマ」
「ああ、そうですね。それが始まってからかれこれ……どのくらい経ったんでしょうねぇ……」
思い出してみてもなかなか思い出せない。
「そんくらい経った……ってことだよな」
「そうですね」
そう言って僕達はこのゆっくりな時間を淡々と楽しんでいた。今日はそんなにお客さんがいない。
だから、店員さん達もうろうろしていない。店長だけはにっこりと誰彼構わず何かしらの話をしていたけれど、それはやっぱりいつものことだから気にしてはいけない。
「そこでだな、ハッパ。今の現状を把握しておこう。と思う」
「どうしたんですか? いきなり」
さっきまでの末広さんはそこにはいなかった。
気分でもいきなり変わったのだろうか?
「じゃあ。最初は料理補佐の男、『吉玉さん』な!」
「なんか違くないですか? それ」
「細かい所は気にすんな! もう、彼はここにいないのだから。しくしく……」
(うわ。涙の演技、下手……)
そんな末広さんに本当のことなど言えなくて、僕はその理由を答えることにした。
「そう言わないで下さいよ。末広さん。吉玉さんは確か……旅に出たんじゃなかったでしたっけ?」
うろ覚えだった。
「はあ……。料理の旅な……。修行ってやつだよ」
「別名で行きましたね」
「で、吉玉さんいなくてもスムーズなのが嬉しいと……。こっちの方がより悲しいよな」
末広さんと一緒になってしくしく……なんて考えられないので僕は何もしないことにした。
「じゃあ、次……そうだな、副店長にしとく?」
「さらっと行きますね。才木さんの話ですよね。さっきの」
「ああ、ユズノさんがさらっとそう言ってたから、オレもさらっと言ってみた」
「そうですか。結構、最近の店内ラジオ話になって来ましたね」
「そうだろう。もう、ここに来てかれこれ……ハッパに出会ったのが随分昔のことに思える」
「そうですよね。僕も最初に末広さんに出会ったの……あの駅ビルの頃ですからね」
「そうだよな……。それからずっと……『ハッパ』だもんな……。ここに来てる会員の連中……本名知らない奴ばっかだな。今更だけど」
「そうですね。そう言えば僕も末広さんの本名未だに知りませんね」
「まあ、そんなの必要なしってことだよ。今もこの先も」
「そうですね」
「まあ、お前の場合。とぉーこさんのは必要となるだろうけど」
さらっと言って来た末広さんの言葉に僕はギクッとなった。
「そ、それは……! どう、どうしてそんなこと言うんですか!」
「なに? お前、オレが知らないとでも思っていたのか? あの『才木さんと千色さんの関係』を大予言したこのオレだぞ? そのくらい、ランチ前だ」
意味不明な言葉が出て来た。末広さんの店長化が始まってしまった! と思ってしまった瞬間でもあった。
「まあ、それはとてもよく当たってましたけどね。結局それはダーマさんからの情報でしたよね? 結婚前提のお付き合いが暴露される前」
「そのせいで新しく入ってメイン候補になった
「あれ、それ関係ないって話ですよ。やっぱ。大学だかの受験だか……って話です」
「そういう話の方が楽しいじゃん?」
「そういう人がいるから辞めてしまうんじゃないですかね? ここの人達」
「それでもずっといる人はいるだろ? メインのほのかさんとかユズノさんとか『応援コック』という新たな分野を築いた新入りのアルバイトコックの
「バイトさん達ですか……そういえば、わかこさんって、森市さんと同じ時期にメイン候補になりましたよね?」
こくんと末広さんは頷いた。そして、口を開く。
「そういうのを知り得るのもこの店内ラジオがあってこそ!」
そう末広さんに言われて僕は改めてこの店内ラジオを聞いた。
今もこの店内ラジオは流れている。
楽しくお喋りする彼女達……。
ここで働く人とここに来る人達とで作られるこの『店内ラジオ』。
決して、そんなに長い歴史はない。
だが、着実にこの店内ラジオでいろんな人がいろんな思いをして、いろんな歴史を作っている。
決して、その内容は良い物ばかりではない。
それでも、楽しいのはそういうのを皆が求めているからだろう。
そんな話をしていたらカラッラン! というあの手動扉の音がまた聞こえた。
今日もまた新たなお客さんが来たようだ。
「さあ、あの人はどっちに行くか」
「え?」
急にそう言って来たのは店長だった。
迫平さんがその人に何か言われて少し困りながらも説明をしていた。
きっとこの変なビージーエムの説明だろう。
僕も最初の頃はそう思ったものだ。
「あのさ、今度ここ、テレビだか雑誌のインタビューされちゃうことになったんだよね」
店長のいきなりの話に僕は驚いた。
「え? この紅見喫茶店がですか?」
「そう、そうなんだよ! ハッパ君! どうしよう! 何、言おう……。聞いてよ! 他の皆に言ったら皆が皆、『店長の言いたいことを言えば良いじゃないですか』って言うんだよ。ひどい話だよね」
そう言う店長に僕は訊いてみた。
「ちなみにもうどんなこと言うか決めてあるんですか?」
「ばか、それは向こうさんの出方次第だろ」
末広さんのその言葉に僕は同意しながらも言い続けた。
「そうですけど。何か用意はしてあるのかと気になりまして」
「そうだな……強いて言えば『ここの店員は公私がないと思え!』と常日頃から言い聞かせていまして……だから、大丈夫なんですよ。このビージーエンム! とか……。最近、その店内ラジオから生まれた店長の名言として『この癒しの『温もり』を十分満喫してください!』があります! とか、かな……。これじゃ、ダメかな?」
「……うーん……」
僕と末広さんは一緒に考え込んでしまった。
*
後日、そのインタビュー効果でたくさんの人がここを訪れた。
最近、来ていなかった店内ラジオ会員の人達もぞろぞろとやって来た。
そして、今日もまたいろんな思いを抱えた人がこの紅見喫茶店にやって来る。
カラッラン! という音と共に紅見喫茶店での時間が始まる。
それはまるでこの店内ラジオのようにおもしろおかしくて、ずっと居たくなるような温かい時間だ。