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それぞれの悩み

 八月も何とか無事に過ぎ、九月半ばになった。

 店長は一人、閉店後の紅見喫茶店でうーんと言って悩んでいた。そして、この二人に相談したのである。

「どうしよう……ふくちゃん、才木君……どうしたら良い?」

「それは店長が決めて下さい」

 才木はそれしか店長に言わなかった。

「うーん、まあ、歌はまだ……だったから別に何か被害が出たってわけじゃないんだよ。でもさ、その歌の相談してた人が急に来なくなって連絡もできなくなっちゃうと……あれだよね……もう歌、なし。で良いか……って考えるよね」

 店長のその言葉に千色と才木はよし! と密かに思っていた。

 才木にしてみれば千色のあの時の態度が気に入らなかったからで本心からそうしたかったわけではなかった。あのジングルだってそうだ。

「もうさ、なんか歌への熱意がそれでなくなったというか……もう、良いか……歌は。ね! 歌、いっかな? なくて」

「え? まあ、店長がそう言うなら……」

 と千色と才木は同時にそう店長に返した。

(これで歌わなくて済む!)

 その気持ちは押し殺して――。

 という感じで才木の歌も千色の歌も店長のその思いでお蔵入りしたのだった。


 *


 十二月になった。僕は一人で仕事帰りに紅見喫茶店にいた。

 その方が静かにいられる。

 今回の店内ラジオ冬ツーは生放送ではなかった。

 メインはほのかさんとユズノさんでゲストはいなかった。

 何でもあの店長が言っていた『たぶん今年中には、店内ラジオに歌のコーナーが出来る予定です! いろんな人に歌ってもらいマス!』というお知らせが無効になったようだ。

(お知らせだけだったもんな、あれ。……でも、できれば聞いてみたかったなぁ……)

 という僕と同じ気持ちの人が他にもいたのは確かだ。

 その関係でまた新たな会員さん達と出会うことも出来た。

 その一人、とぉーこさんは最近よくお便りを出していてよく読まれる女性だった。

(良いなぁ……読まれて……)

 と思うと自分の読まれない率が悲しくなる。

 今、聞いていても読まれない。

『続いては……『あなたの考える配役表』!』

 とメインの二人が同時に言った。

 ちょっと元気だった。

 いつものほのかさんじゃないと僕はそれを聞いて思った。

 ユズノさんと一緒にいると元気になれるんだろうか? それとも、元気でやらなければいけないのだろうか?

 そんなことを思ってもだ。

 ……やっぱり、僕はここでも読まれない。

 がっくりだ。

 僕のお便りにはとぉーこさんにはあるのかもしれない何かが足りないのか? と本気で考え始めた頃、別のお便りコーナーで普通にほのかさんに僕のお便りが読まれた。

(何だよ! また、考え損か……はあ……)

 となったのは言うまでもなかった。


 *


 紅見喫茶店雑用係と皆から思われているが本人は全くそう思っていない……とも言い切れなくなっているアルバイトの男、迫平聡恭はもうちゃんとした就職先を決めなければならない年となった。

 が、いくらたくさんの会社の面接に行っても落ちる。

 何故だ? 分からない。自分でも。

 だからと言ってこの紅見喫茶店のアルバイトを辞めて就職活動に専念しても良いのだろうか? と思う。

 辞めるならやっぱり、ちゃんと就職先決まってからだよな……とも考えていた――。


「はあ……」

 迫平は今日も溜め息をついた。

 仕事中なのに……という店長の目は無視して。

 それが今月も続いている。

 もう一月だ。

「そろそろマジでヤバイかも……」

 そんな迫平をほのかと柚野は休憩に行く前に見ていた。

 ちなみにこの二人はフリーターと堂々と言っている。

 女の子はいずれ結婚すれば良い! それまではフリーターで良いか……という考えがあるからだ。

 それはそれでいけないんじゃ……と千色は思っているが、でも、そういう考えもあるのは確かだ。今、付き合っているひとがいればだが。

 そんな二人は休憩中、のほほんとお茶を飲みながら迫平について話をしていた。

 柚野は今日の迫平を思い出しながら言った。

「迫平さん、今日もスーツで来てたね」

「うん」

「いつか、迫平さんここ辞めるのかな?」

「さあ? それは知らないけど」

「そしたら、誰が店長の雑用やるんだろうね? 吉玉さんかな」

「だと良いけど」

 ほのかはそう言ってずずーっとお茶を飲んだ。

 その話をこの場にはいなかったあの人が今日出来たばかりの休憩室近くの物陰でこっそりと聞いていた。

 それは言うまでもなく店長だ。

(吉玉くんね……)

 店長はそう思ったその日、店を閉めるとすぐにどこかに行ってしまった――。

 その数日後、迫平は店長に『後で休憩室来て』と言われた。

(何だろう……嫌だな……やっぱり、最近、溜め息多くてダメだよ。って言われるのかな……)

 などとかなりネガティブになって店長一人が待つ休憩室に向かった――。

 そして、店長に言われた。

「迫平君、君、ここの正社員にならない?」

「へ? ……」

 店長の言葉に意味不明になった。

「いやーね。ここのところの迫平君、見てて、思うところあって千色さんに進言してみたらこの紅見喫茶店の正社員になれば良いじゃないっていう話になったんだよ」

「あの……『千色さん』って副店長のお父さんのこと、ですか?」

「そう、この紅見喫茶店で一番偉い人」

「え……でも、俺、やっぱ、会社頑張りたいって……」

「迫平君、もう君にはそういう運命は似合わない。君の天職はここで働く事だ!」

 ビシッと店長に言われた。

「え……でも、いや、頑張ってる最中の人間にそういうこと言うのってダメだと思うんです……」

「でも、迫平君、君、今までどのくらい受けた? 受けたら受けただけ落ちてるじゃない。君には会社が似合わないんだよ。それに今、着てるその紺のスーツも似合わない。ってか、『紺』はないよ。リクルートスーツなら『黒』じゃない?」

「じゃ、どうすれば良いんですかっ!」

 紺はありだと思う! その気持ちが強かった。

「だから、ここの正社員になってほしいって言ってるんだ」

 店長に熱く言われた。

「君には何て言うのかな……ここにいてほしい! って思う所がたくさんあるんだよ!」

「でも、それ言ったら露木さん達だって一緒じゃないですか」

 店長の適当な言葉にはうんざりだ。

「だ! ……けど、まあ、それでも頑張りたいって言うならこの話はなかったことにしよう……か?」

(うーん……)

 店長の曖昧な言葉にこれは良い話なのか悪い話なのか……分からない。

「店長、考える時間ください」

「うん、いいよ」

 軽く言われた。

 こうして迫平は店長に言われた期限まで深く考えることになったのだった。

 その間も就職活動をしたが全てダメだった。

 だから、もうこれしかなくなった――。

「店長、俺、いや、僕はここの正社員になりたいと思います。今からでも大丈夫ですか?」

 それを聞いた店長はにこやかに明るく迫平に言った。

「そうか! それじゃ、今後は週何だっけ? ……あれ、なくなるから。そのつもりでいて。千色さんには俺から言っとくから。いやー、よかった、よかったね!」

「はあ……」

 こうして迫平は正直、就職浪人にはなりたくなかったので紅見喫茶店の正社員になる道を選んだのだった。


 *


 今、ほのかは一人で休憩している。

 一人はつまらない。

 この休憩室にはテレビがない。あったにはあったがあの地デジとかいうので見れなくなった。それが今でもある。見れない物がある。もう、ゴミ以外の何物でもない。

(地デジに買い直してくれれば良いのに……)

 そう思ってもアルバイトのほのかにはそれで終わりだ。時にふと、この紅見喫茶店で一番偉いのは……? とほのかは考えた。

 そして、もしかしなくても、店長じゃなくて副店長かもしれない。と気付いた。

(あの店長が千色さんのお父さんによく大事な相談してるって言うし……千色さんはその『お父さん』の子供だし……)

 だからと言って副店長に相談したところでどうにもならない。

(テレビ、諦めるしかないか……)

 ほのかはその考えを何回も考えては消している。つまらない。他の事を考えよう。……何を考えよう……そういえば、ここって……いや、これは考えると柚野じゃなくても難しい。曖昧が良い。曖昧な方が……それじゃ、何、考えよう? ……。

 まだ、時間はあと五分もあった。

(はあ……本、持ってくればよかった。そうすれば読み終わったのに……もう、他の事……何かあったかな?)

 うーん……と考えた。

(あ、そういえばこの前の事前収録の時に『この喫茶店のメガネ率は少ない!』っていうのがお便りできてたな……)

 確かにその通りだ。眼鏡している人といえば――店長が時々している老眼鏡くらいだろう。

(あの老眼鏡も意味あってしてるんだろうけど私にはどうしても必要じゃないって思っちゃうんだよなー。それにしても私もだけど皆、視力は良いんだなー)

 とほのは思った。

 あと、一つくらいなら考えられそうだ。

(あとは……才木さん達はその辺にありそうな白一色のコック姿でつまらないし……頭、何も被ってないし、首にも何もないし……つまらないな……あ、でも、ズボンは黒だ、靴も。あと……髪、染めてるのも千色さんだけだし。その千色さんだって最近は髪、落ち着いててあの茶色のままだし。不良もチャラいのも一人もいないし。そもそも見た目、派手な人がいないんだよなぁ……あ、でも、町ちゃんは……『お嬢……』だ、から、置いといて……うーん……店長の健康のために皆、従業員は禁煙だし、お酒は千色さんがダメだし。柚野はいつも通りの漢字、レジ詰まりだし、きのみはなかなか来ないし……)

 そんなどうでも良い事を考えているとほのかの後に休憩となるメイン候補者の二人、森市咲絢もりいちさあや町山まちやまわかこが休憩室にやって来た。ちなみにこの二人は高校生だ。

「あ、もう、終わりかぁ……」

 二人を見てそれを把握したほのかはさっさと今日の仕事、終わって! と思いながら仕事に戻って行ったのだった。


 *


 最近、千色の父は家にいる時も散歩をしている時もある事について考える。

(そろそろか……もう、十分だろう……)

 今日もその結論に至った。ので、散歩から帰り、夕飯を食べ終わった頃、娘が帰って来たのでちょうど良いと思って娘に声を掛けた。

「涼菜、そこに座りなさい。ちょっと話がある」

 そう言われた娘、紅見喫茶店の副店長、千色は、

(いつもは『スズ』って言うくせに、何なの?)

 と思いながらも父の言う通りにしたのだった。

 そして、言われた。

 とても驚く事を――。



 千色はその話を聞き終わり、自分の部屋に戻り、今の気持ちを落ち着かせ、誰かに今すぐ相談したくなった。でも、店長にはまだ言うなと父に言われたのでどんどんどうしよう……という気持ちが強くなっていった。

 この思いを受け止めてくれるのは……もう、彼しかいない! じゃないか! という結論になった。

 ので、携帯電話をパッと開き、その彼にメールをしたところ……『じゃ、明日、もう一度詳しく話せ。もう、寝る』という返信メールがきたので翌日、その彼のメールの通りに自分も今、休憩中だし……と思い、相談するために休憩室に向かったのだった――。

「どうしよう、才木くん」

「何? 千色。店長みたいに」

「驚かないで聞いてね……」

「ああ……」

 その時の才木はとてもどうでも良いという感じだったが千色は話した。昨日、父に言われた事をそのまま……。

 それを聞き終わった才木は言った。

「まあ、なんだ……おじさんがそういう考えなら仕方ないんじゃないか」

「さいきくぅんっ!」

「なに? 俺の返答が不満だとでも言いたいわけ? 俺はおじさんの言う通りに動くだけだし……それは千色も同じだろ?」

「う……ん……」

 千色のその困った顔に才木はさらっと言った。

「別にどうってことないだろ。『結婚』の『け』の字も出なかっただけ良かったじゃん。あ、それでじゃないけどさ、お前いつ一人暮らしすんの? このまま親の所にいる、か。そうだよな、相手いないもんな。まあ、それもそれで結構だよね」

「何が結構よ! わたしだってそう、そのうち才木くんみたいに一人暮らしして婚活するもんっ!」

「ああ、結構、結構。よかったね、これですっきり仕事が出来る。また、なんか決まったらいつでも俺に言ってちょうだい。だけど、俺、婚活はしてないから」

「なに! ふざけてる場合じゃないんだからね?」

 と千色は怒ったが才木はとてもあっさりと、

「それも結構」

 と言って仕事に戻って行った。

(もう! ……だから、嫌なのよ! 才木くん! むぅー……)

 と思う千色だった。



 三月、店内ラジオ春ツーがあった。

 今回は生放送でメインはほのさんとユズノさんだった。

 ゲストは待てども来なかった。

 そして、お便りがあまり集まらなかったのかメイン達の日々の店内ラジオの感想を聞くだけの時もあった。

 少し、僕的にはつまらなかった。

 が、その数少ないお便りの最後の一通でメイン達は盛り上がった。

 それはヨイ君のお便りだった――。

「最後のお便りはヨイさんからです。『僕の弟は中学生です。もう、春休みです。僕も春休みが欲しいです。そんな春休みは夏休みに比べて宿題も少ないと思いますが』そうだよねー」

「ゆの! いや、ゆずの!」

「なぁに?」

「『なぁに』? じゃなくて最後まで読んで。そうしないと進まない。絶対! ユズノのペースじゃ無理。時間的に」

「えー、そんなことないのにぃ……」

 この時のユズノさんは少し不満気だったが続きを読み始めた。

「『僕の弟の学校は結構ある方だと思います。中でもどうして春に『短歌を五首も考える』なんてのがあるのでしょうか? 僕のイメージだとそれは冬です。それで、メインさん達が考えた短歌が聞きたいです』」

「だって!」

「うーん、短歌ね……」

「短歌……ってごーしちごー、しちしちのやつ?」

「そうだよ。『ごしゅ』って読めたんだから。分かるでしょ」

 ほのかさんはユズノさんの発言に呆れたようだった。

「それで短歌ユズノは出来る?」

「うーん、出来ない」

「私もできない……それじゃ、ダメだからどうしよ……」

 ほのかさんは店長の方をちらっと見たがまたユズノさんを見た。

 店長はダメだ……と判断したのだろうか?

「じゃ、俳句にする? 俳句なら五、七、五だけだし。季語は絶対だからね……あ、ここの店の人を入れて考えてみるとか?」

「良いかもー」

「え、じゃあ……」

 ほのかさんは指を折りながら言った。

「春休み、バイトの私、それしかね」

「え、どういう意味?」

「高校時代の私の春休みの思い出はバイトしかない。って意味」

「ふーん、そういうので良いんだ……あ、私出来た!」

「はい、ユズノ!」

「夏からね、働き出した、魚屋さん」

「字余り!」

「えー、だって入らない」

「それを入れるんだよ」

「どうやって?」

「それは自分で考えなよ」

「ぶー、無理っぽい」

 そのユズノさんの言葉をほのかさんは聞き逃してはいないと思うが聞き流した。

「意味は?」

「え? 意味?」

「そう。ユズノが言った俳句の」

「えっとね、意味はこの店で働く前にちょろっと働いてた魚屋さんのことを思い出したから言ってみた」

「へー、柚野が魚屋さんねぇ……」

 この時ばかりはほのかは素に戻った。それだけ柚野の『魚屋さん』話が気になったからだ。

「じゃ、ユズノ、その『魚屋さん』で俳句でも短歌でもどうぞ!」

「えっと、ね……まって! 今、思い出してるから……はい、出来ました!」

 ユズノさんは大きく手を上げた。

「はい、ユズノ」

 ほのかさんがユズノさんを指した。

「冬場はね、めっちゃ寒い、冷え冷えだ」

「他には?」

「他に? ……秋は鮭、土用はうなぎ、開きはいつも」

「もっとないの?」

「売り場がね、ころころ変わる、意味不明」

「そうか、それで勉強ができなくて……」

「いや、勉強はそれなりにしてたよ」

「そう。で、私考えました!」

「え?」

 唐突にほのかさんは自信たっぷりにこう言った。

「ユズノもね、春からメイン、もっとやろう!」

 字余りだと思った。

「えー。じゃ、才木さん、吉玉さんに、まかないを」

「季語がないじゃん。あ、それにもう、終わりの時間だ」

 ――こうして、僕にはあまり……な感じだった店内ラジオ春ツーが終わったのだった。

 ちなみにその店内ラジオ春ツーが終わった後、ダーマさんが何故か末広さんと親しく話していたので何だ? と思えば、

「もうすぐこの寒さともお別れだよ!」

 とモコモコ状態で元気に言っているのが聞こえ、ああ……と僕はなった。



 店内ラジオ春ツーが終わった数日後、店内ラジオ会員達の間ではこんな噂で持ち切りになった。

『この店内ラジオが終わるんだって!』

『知ってるか? ここなくなるんだって』

『この店、店長がやってるから良かったんだよな』

『普通の喫茶店に戻るらしいよ』

 等々、全て今のこの店を否定するものだった。

 だからと言って信じない方が良い。大体がでっち上げ、デマだ。

 こういう噂や店の人達の裏話的なものはよくある。例えば先日の店内ラジオ春ツーでユズノさんが言った『才木さん、吉玉さんに、まかないを』の後に続く七、七をメイン候補者のわかこさんがその日のうちに言ったらしくそれが……『才木さん、吉玉さんに、まかないを、作らせるのは、およしになって』だったということでどれだけ吉玉さんは……という話もあったがそれよりも遥かにこの噂はひどいものだった。

 そんな中で一番有力なのは『この店がここからなくなる』だと末広さんが真面目に言ってきた。

「なに、言ってんですか! 末広さん!」

 僕は信じたくなかった。

「だって、オレ、聞いちまったんだよ。この店、もうすぐ喫茶店じゃなくて中華料理屋になるって」

 末広さんは何を言っているのだろう……と僕は本気で思った。

 前々から変……だとは思っていたが最近の噂話に感化されていつもの妄想が始まったのかと思った。が、そんなことを末広さんに直に言う事など僕はできない。ので、

「またまたぁ、それも噂の一つですよ」

 と言うしかなかった。

「いや、だって、その中華料理屋で働いてる奴が言ってたって聞いた。『そのうち、そうなる』って」

「末広さん、もし、そうなってしまったら末広さんは嬉しいんですか? それにその話、やっぱり、末広さんが直に聞いたものじゃない。これはよくある噂の一つですね」

「そうかな……」

 末広さんが珍しく悩んでいた。

 でも、末広さんが悩んでも別にどうってことはなかった。

 何故なら、その噂話はあくまで『噂』だからだ。

 それに店の人達はそういう『噂』について何も言わない。まるでそんな噂は根も葉もない感じに働いていた。

 だから、忘れたところで何も支障がないと僕は考え、そんな噂を忘れてしまったのだった――。



 四月中旬、アルバイトのきのみが無事、短大に合格し、紅見喫茶店に戻って来た。ちなみにハッパは社会人三年目になり、また後輩が入って来た――。



「おはようございます! 今日からまた、三浦好実みうらこのみ、ここでバイトします! よろしくお願いします!」

 と少し大人になって戻って来た彼女は女子更衣室でそう言った。

「あれ? きのみって本名、『このみちゃん』だっけ?」

 ほのかはそうだったかな? と思いながらもいつもの姿になって言った。

「はい! そうです。私、店長に『あれ、きのみじゃなかったっけ? きのみちゃんだよね?』って言われるまではずっと好実でした」

 そうきのみに訴えられてほのかは思い出した。

(そういえば、そう店長に初めて言われた日、きのみ泣いて『店長がひどいんですぅー!』って私達に言って来たっけ……)

 今になっては懐かしい思い出だ。

「じゃ、きのみ! 今日からまたバイトと店内ラジオ、頑張ろうね!」

「はい!」

 もう、『きのみ』でも良いと今のきのみは思う。

 そんな時は自分も随分大人になったなぁ……と思うきのみだった。

 今まで休んでいた分、店内ラジオも大きく変わって……ということもなかった。

 それに店内ラジオが始まった頃に店長が言っていたあの『友達以上恋人未満! が理想かな』が心のどこかにあって不安だったが今は全然そんな感じもしない。

(あの後、この女子更衣室で女子会議を開いたんだっけ……よくやったな……)

 という思い出となっている。

 新生活がやっとスタートしたという気分の方が今のきのみは勝っていた。

「あの、他の方はお休みですか?」

 きのみもバイト服に着替えるとほのかに訊いた。

「ああ、そうそう。柚野は今日、休みで千色さんもなんか知らないけど休みらしいの。店長がさっき、言ってたから本当だと思う」

「何でですかね? 千色さん……は! もしかして、何か変な物でも食べて腹痛ですかね」

「まさかー。ゆのじゃないんだしー」

(柚野さんって可哀想な扱いされてるんだな……)

 そう思うきのみだった。

「あ、まだ、迫平さんが正社員になったってきのみ知らないっけ?」

「え! 薄々は気付いてたんですけどやっぱり、正社員になったんですね」

 きのみは驚きを隠せなかった。

「あとは……うーん、何かあったかな……吉玉さんは相変わらずだしなぁ……才木さんは口が悪いっていうか何て言うか……店長なんて全然変わらないし!」

「そうなんですね。とにかく、私、仕事前に他の方にも挨拶行って来ます!」

 と言ってきのみは女子更衣室を出、今、紅見喫茶店にいる全従業員にほのかにしたような挨拶を済ませ、また、働き出したのだった。

 やはり、ほのかのようにきのみの本名は皆、忘れていた。がっかりだ――。

 そして、末広さんがきのみをすぐに店内で発見して喜んで一人で騒いでいたのは言うまでもない。

 その様子を見てハッパや他の客、紅見喫茶店従業員達はちょっとっていうかかなり店長並みに鬱陶しいと思った。ちなみにこの時、店長は休憩中で店におらず、後で知って大変だったね……と言っただけだった。

 そのため、末広さんのことを止める者がいなかったのでハッパは仕方なく末広さんに言ってみた。

「あの、他のお客さんの迷惑になるので静かにしましょう。末広さん」

「そうだな、ハッパ!」

 一応、静かになった末広さんだがまだまだという感じでハッパは困った。

 そんな末広さんを見てきのみは本当に戻って来たんだ……と思ったのだった。


 *


 今日もあと数時間で無事終わりそうな時間だったのに副店長の千色はレジ近くにある電話の周辺でそわそわ、うろうろしていた。

 いつもはそんな事など一切せず、堂々と働いているのに……それが厨房から見えた才木は気になってしょうがなかった。

(とても鬱陶しい)

 そんな才木は吉玉の作ったまかないを今日は誰に食べさせるかと考えていた。

 一番近くにいたのが千色だったから見ていたのだが……これは食べさせるタイミングが大切だ。

 才木は吉玉のオムライスを見せないようにして千色に話し掛けた。

「おい、千色。お前そんなうろちょろしてどうした? 暇か」

「ひ! 暇じゃないよ! 才木君!」

 なんか怒られた。才木は少しムッとした。

「じゃ、何してんだ?」

「店長、探してるの」

「は? 店長?」

 千色は理解不能という顔の才木に向かって真剣に言ってきた。

「店長、絶対逃げたんだよ! まかない食べたくないから」

「そんなはっきり言うな。吉玉が今、いないからって」

 その吉玉はドキドキすると言って休憩中だ。

「だって、私だって出来るなら食べたくないもん」

(チッ……)

 才木は心の中で舌打ちした。こうなったら迫平に頼もう。もう、休憩から帰って来る頃だ。『空いただろ、腹』と言えば食べる。どんな物でも。さすが、断れない男、迫平。と何気にそこだけは高評価な才木だった。

 才木がそんなことを思っているとは思わない千色は才木との話で忘れそうになった事をまた才木に言った。

「そんなことより! 店長! なの、才木くん!」

「何でそんなに『店長』探してんの?」

「実は今日のお昼頃に店長、休憩に入って今みたいに消えたでしょ?」

「あ、そうなの」

 才木はそんな事知らないで今まで働いていた。

「そうなの! だから、電話が鳴って私、出たの。そうしたら、その電話の相手、『店長はいます?』って」

「へー、男? 女?」

「男の人。たぶん、店長の知り合いか何かだと思うんだけど」

「それで何て言ってたの? その人」

「えっと……『店長、今、手が離せません』って言ってみたらその人、『じゃ、また……そうだな、今日の午後にもう一度電話します』って言って切って……。でも、まだその午後の電話その人からきてなくて……。どうしよう……」

「別に千色が悩まなくても良いだろ。メモしといたんだろ? 店長に分かるように」

「うん。その紙、さっき見たら店長の所からなくなってたから大丈夫だとは思うけど」

 そんな話をしていたら電話がぷるる……と鳴った。

「はい、紅見喫茶店でございます」

 と千色が言うと電話の相手は『あの、お昼ぐらいにそちらに一回電話した者ですが……』と言ってきた。

「あ、お世話になります。今、店長とかわりますので少々、お待ちください」と言って千色は電話を保留にした。そして、才木に訴えた。

「どうしよう! 才木くん、あの店長の知り合いの人からだよ!」

「どうしようも何も……店長、戻ってませんって言うしかないだろ」

「でもぉ……」

 千色が困った顔した時だった。

 店長が休憩からちょうど戻って来た。

 迫平も一緒だった。

「あ! 店長! あの、えっと……電話です」

「電話? 誰から?」

 千色はそう言う店長に保留中の電話を渡した。

「え、あ! メモに書いてあった人からです」

「ああ、出垣でがきさんね」

 と言って店長はその電話に出た――。

「もしもし、ああ、お久しぶりです。え、いやいや、そんな事ないですよ。……ははは、そうなんですか。それでこっちに戻って来てるんですねぇ。……あはは! へー……。本当ですか? ……へ、何を突然……それは……そうですが……千色さんにそれは訊いてみないと……はい、言ってみて……ですよ……はい――」

 店長の電話はまだ続きそうだったのでその間にと才木は迫平に言った。

「迫平君、空いてるだろ? 腹」

「え?」

 迫平はきょとんとなってからすぐに覚悟した。

「ほら、ここにまかないがある。残さず、食べろ。遠慮すんな」

 才木は迫平の前に『吉玉のオムライス』を出した。

「明日、倒れたって定休日で大丈夫だ。食え」

「才木さんはどうなんですか」

「俺はもう食った」

(ずるい!)

 と千色と迫平は同時に思った。

 迫平がやはり、今回のオムライスを食べることになり、千色のそわそわもなくなり、才木は片付けを始め、吉玉はまだ休憩から帰って来なかった。

 迫平がオムライスを頑張って完食する頃、やっと店長の長電話が終わったのだった。

 そして、店長はぼそっと言った。

「また、あそことか行かないとな……はあ……」

 珍しい店長だったがそれは聞かなかったことにしよう。そう思う三人の正社員だった。

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