「アタシが変わってなかったこと、気付かせてくれたのはつくし……。つくしだよ。……たぶん」
外は微かに暗くなり始めていた。
そろそろ図書室から出た方がいいのかもしれない。
そんなことを思いつつ、向こうの壁に掛けてある時計を見やりながらアタシは言った。
「……私……なの? 春にその気付きを与えたの」
目の前にいるつくしは、静かに、そして真実を確かめるかのように、恐る恐る私へ問いかけてくる。
アタシは頷いて、そっとつくしの手に触れた。
指先が二人そろって冷たい。
触れ合っていたら、いつか温かくなるのかな。
「……教えて、春? 私、いつ春に変わってないって思わせたのかな?」
「いつ……」
「全然無意識だった。もしかして今とか? ほら、キスしてたし」
言いながら、つくしがアタシの唇にそっと指を重ねてくる。
からかってるわけでもなければ、ふざけてるわけでもなかった。
真剣な表情で、一生懸命に答えを探そうとしている感じ。
アタシの唇に触れてるのも、その『答え』が欲しいからだと思う。
思いが行動に現れてた。
「……今……もあると思う」
アタシの言葉を受けて、つくしの目が軽く見開かれる。
でも、それだけじゃなかったから、アタシはさらに続けた。
「だけど、これは何も『今』だけじゃないよ。キス、もう何回かしてるし、段階段階でアタシの中で疑惑になって、薄っすら確信に変わっていったような気がする」
「じゃあ、共通点はキス……なのかな?」
それも違った。
アタシは首を横に振る。
「キスは共通してるけど、何もそれだけじゃないんだ。本当に、色々。つくしが言ってくれたこと、やってくれたこと、お母さんとのこと、青宮君とのこと、松島さんたち。たくさんの人と交流して、木下君の一件みたいな話を乗り越えて、それで薄っすらと思ったの」
「……自分が変わってなかったって?」
頷きつつ、
「完全な確信を持ったわけじゃないんだけどね。ほんと、薄っすら。これが事実なのかも怪しい。もしかしたら勘違いかもしれないし」
けど。だけど。
アタシは、体が変わり、心が変わったと思った時に比べれば、つくしへ確かな恋愛的好意を抱いてしまってる。
これは、変わってなかった、いや、恋愛嗜好が元に戻りつつあると言っていい気がした。
女子でありながら、女子が好きな、元々のアタシに。
「……勘違いではないんじゃない? 春が実際に元に戻ってるって言うんなら、それは絶対に事実だと思うから」
「……かな?」
自虐っぽい笑みを浮かべながら小首を傾げると、つくしは頷いてくれた。アタシが、先川春の言うことが正しいんだ、って。
「けど、何がきっかけだったんだろうね? 変わり果てたものが元に戻るって、それよっぽどのことだと思う。体はまだ全然男子なのに」
言って、すぐに「あ!」と何かに気付いた様子のつくし。
テンション高めだからか、声も普通に会話する程度の大きさに戻ってた。
「もしかして、体の方も近々女子に戻ったり……!? その前兆として恋愛嗜好が先に戻ってくれたとか!」
「あははっ。つくし、はしゃぎすぎだよ。そんなに物事上手くいかないと思う」
「いく時はいくって! こういうのは勢いが大切なんだから!」
表向き、アタシは喜びを軽いものに抑えて冷静な風を装っていたけど、実際のところ内心かなり動揺していたし、心と体が本当に元に戻りつつあるのなら、それは泣いてしまうくらいに嬉しいことだった。
ずっと怖かった。
このまま自分が男子として生きるしかなくなったら、いったいどうしていけばいいんだろうって、不安で不安で仕方なかったから。
終わりが見えたような気がする。
肩の荷が半分下りて、思わず座り込みたくもなった。
「……ねえ、つくし?」
安堵し、脱力したように息を吐きながらつくしの名前を呼ぶと、アタシの好きな彼女はどことなく目を輝かせて小首を傾げてくれる。
どうかした?
と。
アタシはそんな彼女の目をちゃんと見つめて、こぼれそうになる思いを抑えながら、一つ一つを大切に伝えた。
「ありがとう。何もかもつくしのおかげ」
「……へ?」
唐突過ぎたのかもしれない。
つくしはきょとんとして、アタシのことをさっきよりも強く見つめ返してくれる。
「色々あったのは確かだけど、ずっと変わらずにつくしがアタシの傍にい続けてくれたから、こうして戻れつつあるんだと思う。つくしのおかげ。絶対に……絶対に……」
こぼれた思いは、涙になって変わった。
ちょっとした進歩が今はとにかく嬉しい。
理由なんてわからなかった。
でも、今交わしていたキスを境に、アタシは取り戻すことができた。
自分の元々の感覚。
つくしのことが本当の意味で好きだっていう想いを。
「…………ありがとう、なんて……そんなの私もだよ? 春?」
「……え?」
こぼれた涙を袖で拭っていると、つくしが自分のハンカチをアタシの目元にあてがってくれる。
つくしも泣いていた。
でも、ハンカチは自分のためじゃなくて、アタシだけに使ってくれる。
それを指摘したら、つくしは笑って、
「いいの。気にしないで。私は、いつだって春のために生きていたいし」
「……アタシのためって……そんなのダメだよ……もっと自分にも――」
「知ってる、春?」
喋っていたところを遮られた。
つくしはアタシの右頬に手を添えて、自分の話を続ける。
「つくしってね、春を彩るものなの」
「……へ?」
「春に咲いて、春の到来を伝えて、季節の立役者になる。それが私。姫路つくしなんだよ?」
また、だった。
話しながら、つくしはハンカチでアタシの顔を綺麗にしてくれる。
「だから春は何も言わず、私がすることをそのまま何も言わずに受け入れていい。それはもちろん、たまには感謝だってされたいけど、基本的に私はあなたのことが好きなので。申し訳ないとか、そういうのはいらない。全部受け入れて欲しい」
――それが、私のお願い。
嘘偽りない言葉で、つくしは確かにそう言った。
「でも」と。
アタシが言いかけたところで、唇につくしの指が押し当てられる。
「……ね? 今だけは、春のその優しさも封印」
思わずつくしの名前を呟いてしまった。
人の厚意を堂々と受け入れることなんて慣れていないけど、今だけはただ何も言わないでいて欲しい。
そうつくしに言われて、むず痒いような、何とも言えない気持ちになる。
でも、それが彼女の、好きな人の願いなら。
今は受け入れようと思った。
春だって、つくしを咲かせるのに必要な『立役者』だから。
●〇●〇●〇●
結局、具体的に何が原因でアタシの恋愛嗜好は元に戻ったのか、よくわからなかった。
そもそも、言った通りちゃんと100%戻ってるのかも怪しいのは怪しいけど、それでも感覚的に言えば戻ってる気がするから。
こういう時は、素直に自分の直感を信じるのが一番だし、それを信じる以外に無い。
不思議な気持ちになる。
恋愛嗜好の変遷なんて普通の人は体験しないことで、アタシ自身感覚の移り変わりに戸惑っていたから。
というか、普通の人って言ってるけど、その普通の人は大抵性別も変わったりしない。
アタシがちょっと特殊なんだ。
思わず笑いそうになりながら、スマホに文字を打ち込む。
つくしとやり取りしてた。
『またすぐにお泊り会しようね。なんか春が元に戻って緊張するけど』
送られてきたメッセージを見て、笑いそうになっていたところを、本当に笑ってしまう。
クスッと声に出して、返信メッセをすぐに打ち込んで送信した。
『アタシ、まだ体は男子のままだけどね』と。
既読はすぐに付き、アタシたちはやり取りを長い間重ねていくのだった。
0時を回ったアパートの部屋の中。
一人、窓の外から見える夜空を見つめながら。