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第30話 お母さんの訊きたいこと

 お母さんという存在が、アタシの中で遠い所にあると感じるようになったのは、いったいいつ頃からなんだろう。


 明確にターニングポイントがあったとか、そういうことでもない気がする。


 小さい時、いつもお母さんはアタシと手を繋いでいても、目を合わせてくれなかった。


 あまりアタシの前で笑ったこともないし、何かで褒めてもらおうとしても、淡々と冷たく「そう」と一言口にするだけ。


 愛されてないのかな、とも思ったけど、毎日仕事に行って、一人でアタシを育ててくれていたから、そんなこともない気がするし、簡単に聞けることじゃない。


 たまに他の子がお父さんとお母さんに褒められているのを見ると、少し羨ましくも思えたけど、アタシはアタシでしかないから。


 あまり人の方をジロジロ見ていると、お母さんから注意される。『人の方をあまり見ちゃダメ』と。


 だから、勝手にアタシは自分の中でお母さんの考えてることを勝手に推測し、結論付けて、お母さんもアタシが何をどう思おうと関係ないみたいな感じだった。


 アタシは大切に思われてるはずだけど、それが不安で、グラグラで。


 何か重大なことを知らせたり、迷惑を簡単にかけられない、遠い存在。


 仲が悪い、ということに勝手にしておいた。


 それで、高校入学を機に、特段喧嘩することもなく、アタシはお母さんと一緒に暮らすことをやめた。


 ……なのに。


「――たまたまこの辺りを通る用事があったの。まだ学校にいるかと思っていたけれど、ちょうどタイミングが良かったわね」


「……うん」


 アタシの住んでるアパートの部屋。


 そこでお母さんと二人きりになり、ちゃぶ台のようなテーブルを挟み、正座で向かい合っていた。


 相変わらず目は合わせてくれない。


「それで、元気にはしていたの? おおよそ半年ぶりくらいだけれど」


「……うん。大丈夫。元気」


 自分でもわかる。


 消えかかるかのような元気のない声。


 でも、お母さんと話す時はいつもこんな感じだった。


 半年ほど離れていて、声のボリュームがどんな風だったかも忘れてしまっている。


「……その割には声がおかしいように聴こえるわね。あなた、そんなに声低くなかったでしょう?」


「っ……」


「別に体調を崩したことくらいで怒ったりはしない。季節の変わり目で風邪もひきやすい時期だから」


「……」


 普通なら、とっくの昔に体のことを話してる。


 お父さんでもお母さんでもどっちでもいいけど、親に相談して、病院の先生にちゃんと診てもらって、あまりグルグルと悩み過ぎずにいられたのかもしれない。


 そう思うと、今さら何か話す気にもなれなかった。


 本当のことを言うと、きっとお母さんは半狂乱になる。


 ――どうするの。

 ――何でこんなことになったの。

 ――どうして迷惑かけるの。

 ――うちにお金は無い。

 ――あなたなんて産まなきゃよかった。


 今までに掛けられた言葉を思い返してみると、全部言われてしまいそうで呆れ笑いが出かける。


 それなら、もういっそのこと黙っておこう。


 今までもそうだった。


 つくしとはお互いの本音を打ち明け合ったばかりだ。


 急いで女子に戻ることもしなくていいし、何ならこのままでいい。


 お母さんの負担になるくらいなら。


 お母さんに色々言われてしまうなら。


 お母さんを落胆させてしまうなら。


 アタシは、自分が少しくらい損をしたって構わない。


 嫌だから。


 お母さんに嫌な顔をされるのが。


「……ありがとう。大丈夫。声は……ちょっと前に風邪をひいた影響がまだ残ってるだけだから」


「……そう。気を付けなさい」


 不自然じゃない範囲で作り笑いを浮かべるアタシ。


 珍しくお母さんは一瞬だけ目を合わせてくれた気がしたけど、それはほんの一瞬で、すぐにアタシとは別のところに焦点が合わさる。


 続く会話は当たり障りのないものばかりで、けれど不思議なことにこの日はお母さんの方から色々喋ってくれた。






●〇●〇●〇●






 アタシのアパートの部屋に来て、少し話をしたら、それでお母さんは帰る。


 てっきりそうだとばかり思っていたから、夕食にファミレスへ行こうと誘われた時はびっくりした。


「何でも好きなものを注文しなさい」


 別に二人でファミレスに行ったことがないわけじゃない。


 行ったことがないわけじゃないけど、それにしても今日のお母さんは変だ。


 そもそも、アタシのアパートまで来てくれたっていう事実にも疑問符を浮かべたくなる。


 何かあったのかもしれない。


 気になるけど、なかなかそれも簡単に聞き出せない。


 お母さんの方から話してくれないかな。


 メニューを眺めるふりをして、アタシはそんなことばかり考えていた。


「……春」


「……! う、うん? 何?」


 まただ。


 また、お母さんの方から話しかけてくれた。


 やっぱり、自分で色々聞き出そうとするのは良くないかもしれない。


「注文するもの、そんなに悩むかしら? あなた、ハンバーグが好きだったわよね?」


「……え」


「ハンバーグを注文したらどう? 別にそんなに高いわけでもないんだし」


 自分の前で控えめに広げているメニューを見つめながら、事務的に言ってくるお母さん。


 アタシは、三秒ほどそんなお母さんの顔をジッと眺めてしまい、やがてハッとして持っているメニューの方へ改めて目を落とす。


 メニュー表はちょうど大きい。


 それを使って顔を隠してしまいたかった。


 お母さんからの簡単な問いかけがアタシは嬉しくてたまらなくて、頬を緩ませるどころか、軽く目を潤ませてしまっていたから。


「……じゃ、じゃあ……アタシはハンバーグにする。ライスも付けて」


「ええ。なら、もう呼び鈴押すわね」


 メニュー表を離すことができないまま、アタシはお母さんの押した呼び鈴の音を耳で聴く。


 軽快でシンプルな音は、店員さんの反応してくれる声と共に静かになった。


「失礼します。ご注文はいかがなさいますか?」


 と、思ったらすぐに店員さんの声がする。


 メニューから目を離してそっちの方をチラッと見ると、40代くらいの女性店員さんが笑顔でお母さんの方を見つめていた。


 アタシは持っていたメニューをそっとテーブルの上に置き、視線を足元へやる。


 お母さんは、流暢に注文内容を言っていた。


「以上ですね。少々お待ちください」


 注文を受け、店員さんはアタシたちの元から去って行く。


 一瞬の賑やかさが消え失せ、何となく気まずくなったアタシは、セルフの水を取ってくる、とお母さんに告げて立ち上がろうとした。


 ……が。


「いいわ。あなた、今あまり体調が良くないんでしょう? 私が取ってくるから、ここで待ってなさい」


「え……。で、でも――」


「でもも何もないわ。いいからここにいなさい」


 無表情のまま、お母さんはアタシを置いて席を立ち、向こうの方へ歩いて行く。


 しばらく眺め続けていた。


 お母さんがアタシの知るお母さんじゃないような気がして。


「はい。水も大事よ。喉が悪いのならしっかり水分も取っておきなさい」


 戻って来たお母さんから、水の入ったコップを受け取る。


 中に氷は入ってなかった。


 昔からそうだ。


 お母さんは、過度に体を冷やすことを嫌ってる。


「……ありがとう」


「……ええ。というか、今日はやけに私の顔を見つめてくるけれど、お母さんの顔に何か付いてるの?」


「へ……!?」


 少し焦った。


 そんなに見てたかな。いや、見てたか。


 実際、さっき水を取りに行ってるお母さんのことをジッと見つめてたわけだし。


「う、ううん……! 何も付いてないよ……! ……ただ、その……お母さんと会うの……久しぶりだから」


「……そうね。久しぶり」


「う、うん……」


 アタシが頷いたところで、お母さんは一口水を飲んだ。


 やり場のない気まずさを少しでも解消させるため、アタシも水を飲む。


「ねえ、春?」


「……んっ。……何?」


 水を飲み込み、アタシは疑問符を浮かべる。


「単刀直入に訊くけれど、あなたどうしてこの町の高校に入ったのかしら?」


 投げられた質問。


 それは、アタシの想像していないものだった。


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