特に何かしたわけじゃなかった。
どこかへ遊びに行ったわけでもなく、部屋の中でゲームをしたり、勉強を一緒にしたわけでも何でもない。
ただ、甘くも無く、旨味の無い淡白なクラッカーを食べ、延々と会話をしただけ。
それだけで時間は過ぎ、青宮君もアタシの家から帰ろうとし始める時間になった。
19時。
これ以上長居はできないとのこと。
アタシはまだ構わないけど。
「――君からそう言ってくれるのはすごく嬉しいけれど、実は僕の親、案外厳しくてさ。今日はここまでだね」
「……うん」
「……ふふっ」
「……? どうかした?」
アタシが問うと、青宮君は「いや」と軽く首を横に振った。
「あの噂は本当なんだろうな、と思って」
「あの噂……?」
「ほら、よく言うだろう? 失恋してる時の女の子に優しく接して話を聞いてあげれば、その子は自分のことを好きになっていってくれる、落としやすいって」
「……アタシ、今は女の子じゃないけどね?」
「元女の子でも一緒さ。いやぁ、いい勉強になった。のちの人生に活かして行こうと思うよ」
「サイテー……」
「はははっ。間違いない。今の発言はちょっと自分でもどうかと思うよ」
笑う青宮君を見て、アタシもクスッと笑んでしまう。
「……でも、本当に今日はありがとう。青宮君のおかげでちょっと元気出た気がする」
「……うん。先川さんにそう言ってもらえたら僕も嬉しい」
「逃げないでもっとつくしと向き合ってみる。本当のこと、アタシも言えるように」
「相手を変えようと思ったら、まずは自分からだからね」
――それは僕にも言えることだけれど。
青宮君はボソッと独り言のように呟いた。
疑問符を浮かべるアタシを見て、すぐに話を元に戻す。
「とにかく、怖がることはないよ。僕が保証する。姫路さんは、変わらず君のことが大好きだ」
「……」
「そして、僕も君のことが未だに好き。あぁ、でも勘違いはしないでくれ? それでも君たち二人の仲を裂こうとか、そんなことは思ってない。先川さんにとって何が一番幸せなのか、それは僕だって理解してるつもりだから」
「……ねえ、青宮君?」
「ん? 何?」
「……アタシ……さ」
少しうつむきめにしていた顔を上げ、青宮君の目を確かに見つめた。
「実は、男の子が恋愛対象になったんだ。つくしのこと、離したくないって思い続けてるのに」
●〇●〇●〇●
思い直ったアタシは、その日の夜、すぐにつくしへSNSのメッセージを飛ばした。
カラオケボックスの部屋を勝手に飛び出してしまったこと、呼び止めてくれていたつくしを無視したこと、カラオケの料金を払い忘れてること。
ただ、一番謝りたいのは、抱えてる本音をつくしに言えなかったことだ。
つくしは、いつだってアタシが本音を言えるような存在になりたがってた。
それができればきっと一番だから、って。
そこまで想ってもらえるアタシは、きっと幸せ者で。
だからこそ、つくしとちゃんと向き合わなきゃいけないなって思った。
病院にも行こうと思う。
診察とか、まずそこまでのことをするのは怖いから、誰かに相談できる環境に行ってみたい。
何か、できることから始めようと思った。
一つ一つ、できることからしっかり。
●〇●〇●〇●
「春」
雨の降る、秋の冷たい朝。
傘を差すアタシの後ろから声を掛けてきたのは、言うまでもなくつくし。
教室に入って、自分から声を掛けよう。
そう思ってた分、心の準備ができてなかった。
思わず肩を一瞬震わせてしまって、そこからアタシは振り返る。
「……お、おはよ、春」
挨拶と、もう一度呼んでくれたアタシの名前は、どことなくぎこちない。
つくしも気まずさを感じてる。
それがわかって、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。
ほんの少しだけど。
「お、一昨日はごめんね……。私があんな風に……春を拒絶するようなこと……して」
「……うん。ちょっと傷付いた」
「……! あ、う、うん……本当にごめん……」
少しうろたえるつくしだけど、アタシはこの一言を発するのにすごく勇気を振り絞った。
自分が女子の時も、こうして赤裸々に明かすことは無かったかもしれない。
心臓がバクバク言ってる。
自分の気持ちをちゃんと口にするのは難しい。
「……だって……アタシたちのキスはあれで三回目だったけど……そのうちの二回は全部つくしからだった。だから、アタシもして大丈夫かなって思った……」
「……ごめん……」
「ううん……謝らないといけないのはアタシも。こっちからするの、つくしが嫌だったならなおさらで……」
「っ……」
「アタシのこと……もしも本当は好きじゃなかったら……それは――」
「ち、違う! 違うよ、春!? それは違う!」
雨を切り裂くようなつくしの大きい声。
アタシたちと同じように傘を差してる大津田生が、傍を通り過ぎていくタイミングでこっちを見ていた。
それでも、つくしは構わずに続けてくる。
「私は春のこと好き! 何があっても、どんなことが起こっても、春が一番! そこに嘘偽りなんてない! ほんとだよ?」
「つ、つくし……」
さすがに声が大き過ぎる。
つくしの訴えが本気だってことは充分に伝わって来てるし、アタシも続く言葉を聞きたい気持ちでいっぱいだけど、これ以上はどうしても目立ってしまう。
「もちろん、それは男の子になっても関係ない! 私にとって春は唯一で、大切で、ずっと、ずっと傍にいて欲しい人! だから春、好きじゃないなんてこと私は――」
「ごめんつくし、こっち……!」
傘を持っていないもう片方の手。
それを使って、アタシはつくしの空いている手を引っ張った。
遠くへ行くわけじゃない。
学校の敷地内で、なるべく人のいない場所。
それは中庭の片隅。
そこで、アタシは引っ張っていたつくしの手を離した。
歩いてる最中にも、後ろで鼻をすする音がしてたからなんとなくわかってたけど、つくしは泣いてる。
いつもなら自分のハンカチを使ってその涙を拭いてあげてたかもしれない。
でも、今はその行為も正しいのかわからない。
つくしの言葉を信じないわけじゃないけど、アタシは少し臆病になってた。
これ以上拒絶されるのは嫌だ。
その気持ちが、つくしへの接触を恐れさせる。
好きなのに触れられない。
こんなに辛いこと、これ以上無いと思う。
アタシも泣いてしまいそうだった。
胸の痛みが強くなる。
手は握れたのに、どうしてこんなことができなくなってしまったんだろう。
早く話さないと。
アタシの底の底。
本当のことを。
それでたぶん、つくしも打ち明けてくれるから。
「……なんか……ね? アタシ、読んだことあるんだ。何かの本で」
「………………?」
ぽつり、ぽつり、と短い言葉を紡ぐ。
つくしは、涙に暮れる顔を上げて、悲しそうなままアタシのことを見つめてくれた。
「男の子なら男の子同士、女の子なら女の子同士。同じ性別で恋をするのは、宗教によってはやっちゃダメなことなんだって。神様から罰を与えられる行為だ、って書いてあった」
「…………でも」
「うん。アタシたちはたぶんその宗教と何の関係も無い。神様だって、アタシたちに罰を与える権利なんて無いと思う」
「………………」
「……けど……だけど、さ。もしかしたら、その神様が間違ってアタシたちに目を付けちゃったのかも」
「…………へ?」
雨に濡れてしまいたかった。
その涙を隠すために。
「だからアタシは男の子になったのかな、って。そう思っちゃう。間違った神様が、アタシたちに男の子と女の子の恋をさせるように」
「……っ」
「ただ、それにしてももう少しちゃんとして欲しいよね」
流れる涙をそのままに、アタシはつくしに笑みを向ける。
「聞いてないよ。男の子になったからって、恋の対象が男の子になるなんて」
目元を腫らしたつくしが疑問符を浮かべる。
降りしきる雨は、残酷できまぐれな神様と同じように、ただ降りたいから降ってるような。
そんな風に見えた。