「――先川さん、いるよね?」
トイレの個室に入ってて、いきなり名前を呼ばれるなんてこと、考えてもいなかった。
ぐるぐると堂々巡りだった思考が固まり、体の動きも止めてしまう。
一瞬の緊張感からか、冷や汗が出た。
ここは女子トイレ。
声を掛けてきたのは男の子。
しかも、聞き覚えのある声。
「……青宮……君……?」
アタシが返事をするように問いかけると、彼の声がすぐに返って来る。
「うん。僕」
「え……」
どうして男子の青宮君が当然のように女子トイレに入って来てるのか。
それが真っ先に浮かんだ疑問なんだけど、アタシがそれを聞く前に彼は続けてきた。
「体調、大丈夫? 金曜から喉の調子悪そうだし、ずっと下向いてる気がする。風邪が長引いてるとか?」
「いや、風邪引いてるってわけじゃないんだけど……」
「姫路さんとも会話少なくなってない? 喧嘩? それでメンタルの不調が原因で体調の方もっていう感じ?」
「ち、違う。違うよ、青宮君。ちょっと待って」
さすがにこんな状態でやり取りし続けるのは良くない。
誰か他の人がトイレに入って来たりしたら、青宮君は途端に変態扱いされてしまうし、アタシもアタシで変な流れ弾を食らいかねない。
個室から出て、彼と対面しながら話すことにした。
「あ、出てきた。おはよ、元気なの?」
「元気。元気だけど、青宮君は速攻でトイレから出て? 女子トイレだからね、ここ」
「それは知ってるけどさ。どうせこの時間帯にここのトイレ使う人いないと思うんだ。だから気にせず入ったんだよ」
「気にして。まさかの状況も考えとかないと変態扱いされるよ? 嫌でしょ? そんなことなったら」
「まあ、そうなったら冷静に説明するよ。別に誰かの覗きがしたかったわけじゃなく、人がいないことを前提に先川さんと会話しようとしただけだ、って」
「いや、それアタシいるじゃん。女子のアタシがトイレ利用中に話しかけてくるって時点で変態扱いだからね?」
「そう? 僕はそういうの全然気にしない派なんだけど?」
「それは青宮君が気にしないだけじゃん。アタシは気にするし、むしろ世間一般的に気にする人の方が大多数だよ。心配になってくるよ、アタシ青宮君の将来が。捕まらないかな、とかさ」
「心配してくれてありがと」
「そこ感謝するところじゃないと思うけどね……」
本当に変わってる。
いつもこんな感じだ。青宮君って。
「……まあいいや。とりあえず心配してくれたのはありがと。アタシのことよく見てるし、ここまでついてくるって相変わらずストーカーっぽいなぁ、とは思うけど」
「実際まだ好きだしね、君のこと。多少ストーカーっぽくなるのも許して欲しい」
「困ったもんだ。こんなことなら告白断った時にストーカーするのも禁止って言っとけばよかった」
「鬼か何か?」
「かもね。好きな人に拒絶されるってかなりきついし」
何でもない苦笑いを浮かべたつもりだったけど、それが彼からすれば変に自虐的に映ったのかもしれない。
青宮君はクスッと小さく笑い、アタシに問うてきた。
「なんかそれ、すごい実感こもってる気がする。やっぱり姫路さんと何かあったんだ?」
「別に何もないよ。青宮君じゃあるまいし」
「そう? 告白とかしたわけでもない、と?」
「ないない。……あ、けど、なんか成り行きで恋人になってみようって話になったんだ。お試しだけど」
「何それ? お試し? 姫路さんが君と同じ恋愛嗜好に目覚めたってこと?」
「違います。つくしは普通に男子が好きだと思うので」
「じゃあ、どうして? なんで女子である君と姫路さんがお試しで恋人なんか? ……あ」
「何かわかった?」
アタシが問うと、手を叩いて青宮君は答えてくれる。
「わかった。姫路さんに好きな男子ができたんだ。それで、見た目男の子っぽい先川さんがデートとかの練習相手にさせられてる。これだ」
「……っ」
なるほど、と思ってしまった。
なんかそれ、妙にしっくりくる。
嫌な形で自分の中のモヤが溶けていった。
そういうこと……?
つくし、好きな男の子ができたから、アタシをデートの練習相手にしようとしてるのかな……?
さすがに急に男の子になった友達なんて、恋愛対象として見られるわけがない。
なるほど……。
なるほどなぁ……。
「……? 先川さん……?」
心配するように、青宮君から名前を呼ばれる。
アタシはハッとして首を横に振った。
「ぶ、ぶぶー。違います。それも…………たぶん違います」
「……なんか不自然な間があったね? ほんとに違ってる?」
「ち、違ってるよ。うん。違う……はず。ていうか、その辺まだちゃんと聞けてないし……」
「じゃあ違うとも断定できないね。ワンチャンスその可能性は残されてる、と」
「ねえ、やめてよ。そういう嫌なこと言うの。モテないよ、青宮君」
「いいよ、モテなくても。好きな人一人だけに好いてもらえればそれで構わないし」
「じゃあ、その好きな人にも嫌われちゃうよ?」
「それは困る。今日も先川さん、可愛いね」
「取ってつけたように褒め始めるのやめなって。自分でもノーチャンスなの知ってるくせに」
「さぁ、どうだか? 姫路さんとのことを聞いて、僕もまだまだやれるかもなって思いになってきた」
「あー、残念だねー。アタシがレズだってことすっかり忘れてらっしゃいますねー」
「じゃあ、友達として近くに置いて欲しいね。そういう関係にならなくても、僕は君のことが好きだから」
「友達としてならつくしがナンバーワンなんだなー、これが」
「それなら同率一位を目指す。とにかく今はチャンスだ」
「往生際悪いなぁ、青宮君」
気付けば、アタシは笑ってしまっていた。
青宮君は変わってる。
変わってるけど、すごく優しくて、頼りになる人だ。
考えてしまう。
アタシが女の子のままで、もしもレズじゃなくて、男の子が恋愛対象だったとしたら。
きっと、青宮君のことを好きになっていたんだろうな、って。
そもそも、あまり男の子と絡みのない地味な女子ですし。
ここまでアタシのことを好いてくれるなんて、本当に変わってる。
どうしようもない人だ。
「……ねえ、青宮君?」
「……? どうかした? 改まって」
「今日の放課後ね、アタシつくしと遊ぶんだけど、つくしに大事なことを聞こうと思うんだ」
「へぇ。大事なこと」
「それで、聞いた結果悪いことになっちゃったら、青宮君に重大な秘密を話す」
「……なるほど。重大な秘密ね。それは今言えないことなんだ?」
「言えない。アタシが好きなのはつくしだから」
「……うん。知ってる」
青宮君が頷き、小さく笑ってくれる。
それを見ていたところでチャイムが鳴った。
授業五分前だ。
アタシたちは急いで自分の教室まで並んで早歩きした。