本当に好きな人とするキスは、きっと幸せに満ち溢れていて、悲しいことも辛いことも、すべてを吹き飛ばしてくれる。
少女漫画や映画で見たそれは、何も経験したことがないアタシにもわかるくらい尊くて、同時に胸を締め付けられる。
自分にはこんな思い、たぶんできない。
希望と現実の差を思い知って、下を向くしかなかった。
「――……んっ……んんっ……」
「……はる……ごめんね……はる……」
「……っふ……はぁ……つ、つく――んっ……」
――なのに。
カーペットの上。
アタシは気付けばそこに押し倒されて、つくしとキスしていた。
最初は何が起こったのかわからなかった。
身を寄せて来るつくしに戸惑いながら、それでも流れるように体重を感じる。
何かを考えている暇なんてない。
アタシがつくしの名前を呼ぶ前に、つくしはアタシの唇に自分の唇を重ねていた。
頭の中がキュッとなる感覚。
呼吸の権利をつくしに奪われ、どうしようもないくらいにアタシは支配された。
「っは……んんぅ……んっ……つく……ひっ…………」
「っふぁ……はぁ……んっ……はる……はる……はるっ……」
唇だけじゃない。
次第につくしは舌を絡ませ、本当にアタシの全部を自分のものにしようとする。
戸惑いでいっぱいだった気持ちが、真っ直ぐつくしへ向き始める。
……嬉しい。
なんでこうなっているのかは全然わからないけど。
真っ黒に塗りつぶし続けていた自分の想いが、つくしのキスで透明になっていく。
そうだ。
これも何もかも、男の子になれたからだ。
女の子のままだったら、きっとつくしもアタシへこんなことしてくれなかった。
戸惑いながら、変わってしまったアタシにショックを受けても、こうしてまた受け入れてくれた。
前向きに捉えてくれた。
友達から恋人になれるのかもしれない。
つくしの『好き』が、アタシの欲しかった『好き』に変わったんだ。
……けど、それでもアタシは……。
「…………はる…………?」
キスをそっと止め、つくしが少し顔を上げる。
「どう……したの……?」
アタシのことを心配してくれながら、首を傾げていた。
頬に手を添えられる。
「…………泣いてる…………嫌……だった……?」
指摘されたアタシは、小さく笑ってしまう。
同じだ。
目元を拭い、つくしにも言った。
「ううん……嫌じゃない…………嫌じゃないけど…………つくしもだよ…………?」
「…………え…………?」
アタシは、仰向けの状態で軽く首を傾げて、
「…………泣いてる…………」
頬に添えられたつくしの手に触れ、上から落ちてくる涙をそのままにして呟いた。
●〇●〇●〇●
今は、なんとなく窓から入って来る陽の光が嫌だった。
カーテンを閉め切り、薄暗い中でつくしを認識する。
つくしは、アタシと一緒にベッドの上で横になってた。
着て来てた服がしわになるのだけはダメだから、アタシのスウェットを貸してあげてる。
二人で同じような恰好をし、ただ一言二言、ぽつりぽつりと横たわった状態で会話していた。
つくしの持って来てくれたケーキは、テーブルの上でタッパーに入ったまま。
冷蔵庫に入れようとしたけど、腐ったりしないから、と傍にいるよう言われてしまった。
本当かな、と思ったけど、小っちゃい子みたいにねだるつくしが可愛くて、結局言われた通りそのままだ。
生クリームは使ってないし、たぶん大丈夫。
「……春……?」
「……?」
「……やっぱり、気持ち悪い? 私が……いきなり『好き』って言うの……」
「ううん。全然だよ。……むしろ……アタシも不安。つくしのこと……『好き』って言って気持ち悪いと思われないか……」
アタシがそう返すと、つくしはクスッと笑った。
同じことを考えて不安になってる。
それが少し面白かったらしい。
「……けど、不思議だね。春、突然男の子になっちゃうなんて」
「……たぶん、普通だったらこういうの、すぐ病院に行かなきゃだと思う」
「……やっぱりお母さん? 知られたくないからってこと?」
「…………うん。もうあんまり……迷惑掛けたくないんだ……」
やり取りが途切れる。
でも、その途切れた会話の合間を縫うようにして、つくしはアタシの指に自分の指を絡めてきた。
「……大丈夫。春には私がいるからね……?」
「……っ……」
「声が低くなっても……男の子になっても……どうなろうと……私は春の傍にいる……」
「…………つくし…………」
「だって私と春は………………」
「………………」
「……友達だもん。大切な……友達」
「…………うん」
「友達だけど……ね? さっき言った通り。関係……変えてこ?」
「……恋人……みたいに?」
アタシがぎこちなく問うと、つくしは「うん」とか細い声で返してくれる。
「せっかく男の子と女の子なんだもん……。私は……春とだったら……ううん。春のことが好きだから……恋人になりたい……」
「…………アタシも」
「……好きって言葉……友達仕様から……恋人仕様に変えていくね……?」
「……うん」
「好きだよ……春……」
「アタシも……好き。つくしのこと……大好き……」
きっとこんなやり取りは、本来ならもっとドキドキで、果てしないくらいに輝いていて。
赤裸々にした『好き』を、アタシは心の底から喜んでいたはずだった。
「……カーテン……開けなくてよかった」
陽の光を部屋の中に入れたくなかった理由も、自分の中ではっきりわかった。
恥ずかしくてつくしのことを鮮明に見ていられない。
それもあったのかもしれないけど、本当のところは違う。
本当は、変わってしまったアタシの気持ちを照らされたくなかったからだ。
薄暗い中で、つくしに嘘をつく。
今のアタシには、恋人用の『好き』をつくしに与えられない。
与えられるのは、どうしたって友達用の『好き』で。
関係を繋ぎ止めておきたいだけの『好き』だった。
「……あれ……?」
「……あっ……」
「春……また泣いてる……。どうして……? また目にゴミが入った……?」
「…………つくしもだよ。どうして泣くの……?」
「…………わかんない。……わかんないや。なんでだろ……?」
「…………なんでだろうね…………?」
アタシは、悲しそうに涙を浮かべているつくしの体を抱き寄せて、シーツに一粒、水滴を落とすのだった。