目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第5話 やくそく

 土曜日は、本当に朝から晩までほとんど何もしなかった。


 したことといえば、ひたすらに百合小説や漫画を読み、自分の喪失感を重ねただけ。


 本当に、本当に、それ以外は何もせず、深い沼にはまっていくようにして、アタシは眠りについた。


 このまま起きなかったらいいのに。


 そう思ったけれど、残念ながらアタシは生きている。


 日曜日の朝。


 目を覚ますと、体全体が重くて、力が入らない。手足が震える。


 きっと空腹のせいだ。


 昨日は、朝も、昼も、夜も、一切何も食べなかった。


 さすがに限界らしい。


 起き上がろうと思い、ベッドに手を突いてみるも、そこからすぐに動けず、よろけ倒れてしまう。


 重症だ。


 たった一日何も食べなかっただけでこんなことになるなんて。


 どこまで食の必要な人間なのか。


 嫌気がさしてくる。


 今はご飯なんか食べず、ただ……。


「……何がしたいんだろ。アタシ……」


 特にしたいことなんてなかった。


 ため息をつく。


 だったら体の中の悲鳴に応えてあげてもいいんじゃないか。


 もう一度腕に力を込め、今度はなんとか上体を起こすことに成功する。


 呼吸が浅くて、早い。


 これだけの行為で息が上がる。


 本格的に自分の体の状態がマズくなっていることを悟った。


 冷蔵庫にはパンと野菜ジュースがある。


 それだけでも食べよう。


 重く、一歩、また一歩と歩く。


 その動作だけでも嫌悪感がした。


 前まではなかった股間の感触が、ズボン越しにありありと伝わってくる。


 立ち止まり、頭を抱えたくなったけど、今はもうそれどころじゃない。


 冷蔵庫の扉を開け、パンの袋と野菜ジュースを掴み、焼いたり、コップに移すことなく胃の中に入れた。


 悔しい。


 こんな時なのに、涙が出そうなほど美味しい。


 体が変わって、つくしにもドキドキしなくなっているくせに、空腹感を満たした時の幸せは前と何も変わっていなかった。


 そこに対してもまた苛立ちを覚えるけど、飲んでいる野菜ジュースがすべてを洗い流していく。


 気付けば、一リットルはあったであろうジュースを全部飲み干していた。


 袋に入っていた四つほどのロールパンも全部食べてしまう。


 少しは空腹が和らいだ。


 震えも収まり、さっきよりかは歩きやすくなる。


 空になった野菜ジュースのパックとロールパンの袋を、広げているゴミ収集袋へ入れ、もう一度ベッドの方へ歩き、座り込む。


 そんな折だ。


 狙いすましたかのようにスマホのメッセージ通知音が鳴った。


 もう、しばらくは鳴らない。


 メッセージを送って来るのなんて、つくし以外にいないから。

 そう思っていたのに、予想はわずか一日足らずで崩される。


 慌ててスマホを手に取り、画面をタップすると、そこには確かにつくしからのLIMEメッセージが届いていた。


 内容は簡単だ。


 一言。




『今から家に行ってもいい?』




 ――いい。


 頭の中で何かが弾けるように、反射的に大丈夫だという旨の返信をしかけるものの、冷静な自分が肩を叩いて来た。


 そうだ。


 今のアタシは、前のアタシと違う。


 男の子になったことはつくしにも言ってるけど、訳のわからない気持ちの変化に関しては何も言っていない。


「……っ」


 スマホを持っている手に力が入る。


 ……言うべき?


 でも、どうやって?


『アタシ、女の子の時はつくしのことが恋愛的な意味で好きだった。だけど、男の子になってつくしに対してドキドキしなくなった。恋愛的な意味で好きじゃなくなったのかもしれない。それが怖い。どうしたらいいと思う? どうしたらまたつくしのことを好きになれるかな?』


 ……無理だ。


 こんなこと、言えるはずがない。


 そもそも前提として、女子だった時の恋愛感情すらつくしには説明していない。


 もう本当にそこから。根元の根元。


 しかも、つくしはアタシみたいに女の子が好きってわけでもないと思う。


 普通に男の子に恋して、男の子と付き合って、男の子と幸せになるべき子だ。


 アタシなんかに振り回されていいわけがない。


 何度かくれたことのある、『好き』って言葉もそれは友達としての好き。


 アタシの欲しかった『好き』じゃない。


「……バカだな……。だいたい、つくしが女の子のことを好きになってくれるなら、男の子になったアタシはとっくの昔に対象外だよ」


 力なく苦笑し、自分で言いながら泣きそうになる。


 どうしてなんだろう、って考えるのはもはや無駄でしかないのに。


 アタシはまたしても考えていた。


 どうして、こう思い通りにいかないのかな、と。


「……」


 目元を手で覆い、少し間を空けてから、つくしとのチャットルームを開く。


 ――一昨日は色々ごめんね。


 謝ってから、部屋に来てもらっても大丈夫だと伝える。


 つくしも一人暮らしだ。アタシと同じで、アパートの一室を借りている。


 一人でいると、ぐるぐると悩み事を抱えがちになる。


 もしかして、つくしもアタシみたいに悩んでいてくれたのかな。


 自分のことを嫌悪するほど、傷付けそうになるほど。


 もしもそうだとしたら……少し嬉しい。


 こんなことに喜びを見出すなんて狂ってる、歪んでるのはわかってる。


 でも、アタシは元からそうだから。


 ちゃんとした恋愛嗜好を持たない欠陥人間。


 だったら、いっそのこと開き直ろうよ。


 こうして一人でいる時くらい。


「……へへ」


 つくしは、すぐにアタシの送ったメッセージを読んでくれた。


 即座に既読マークがつく。そして、返信もすぐだ。




『じゃあ行く。手作りのケーキ持って行くね?』




 感情がぐちゃぐちゃになった。


 このメッセージを受け取った今の自分の気持ちと、前までの自分の気持ちの違いがどんなものか。つくしはどんな思いでこの文章を打ってくれたんだろうか。変わってしまったアタシの性別を受け入れて、なおも気丈に振る舞いながらこうして送ってくれているんじゃないか。まだアタシが男の子になってしまったことに対して違和感を抱いていて、無理しているんじゃないか。それとも、アタシの考えていること以外の何かか。


 答えは残酷なまでに一つだけど、その一つを巡って余計なことばかり考えてしまう。


 既読はつけてる。


 早く返信しなきゃ。


 アタシは、つくしがメッセージを送ってくれた三分後に、簡単なスタンプを送って返すのだった。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?