悪い夢なら覚めて欲しい。
現実に対してそう思ったことは一度や二度じゃないけれど、今ほど強く思うのはたぶん初めてだ。
土曜日の朝。
アタシが目を覚ますと、外は雨が降っていた。
雨雲のせいで陽の光が入らない部屋の中は、カーテンを閉め切っていると、夕方とか夜なんじゃないかと錯覚するくらい暗い。
暗いと言えば、アタシの気持ちも暗いままだ。
体は男の子のままで、自分が女子だったことも忘れかけそう。
もっと最悪なのは、アタシの中の気持ちの変化だった。
つくしを思い浮かべるとドキドキしていたはずの自分が、今はいない。
胸の痛みを覚えるだけで、ただ苦しい。
どうしてこんなことが起こったんだろう。
何か、悪いことをした?
その罰?
どうして?
どうして?
「……」
ぐるぐると同じことばかりを考え、ベッドに横たわったまま時間だけが過ぎて行く。
お腹は鳴るけれど、なぜか何かを食べたいとは思わなかった。
動くのが辛い。
辛いから、せめても、とスマホだけを見つめる。
つくしからの連絡はない。
あるわけがない。
昨日、アタシの家から帰る時のつくしは、涙で目元を腫らせて、ひどく落ち込んでいた。
アタシも似たようなものだったけれど、つくしは特に酷かったと思う。
何で? とも考えた。
アタシが男の子になっただけで、どうしてそこまで落ち込むんだろう。
もしかして、男の子が嫌い?
でも、教室でのつくしは、男の子とも楽しそうに話している。
直接苦手って言われたこともない。
だったら、やっぱり考えられるのは、アタシが変わったからだ。
女子だったはずの自分が男子に変わった。
この事実につくしはひどく落ち込んでいる。
気持ち悪いって思われているのかもしれない。
そんなことあり得るはずがないと思っていて、アタシがつくしのことを騙そうとしてるって勘違いされている?
もう何が正解なのか、自分一人で答えなんて出せない。
正解は、つくしにしかわからない。
話さなきゃ。つくしと。
電話でも、LIMEでも、何でもいいから。
「……っ」
そう心では思うのに、臆病なアタシはつくしへのメッセージをどうしたって躊躇ってしまっていた。
どうして。何で。
自分でもそう思う。
けれど、無理なんだ。
無理。
今、アタシには動ける力が無い。
体が変わった。
気持ちが変わった。
その絶望感が思った以上に深くて、ダメージになっていて。
ただ、ベッドの上でスマホの画面をスワイプすることしかできなかった。
●〇●〇●〇●
どれくらい時間が経っただろう。
気付けば、部屋の中は真っ暗になっていて、本格的な夜だ。
アタシは、相変わらず横になったままスマホの画面を見つめている。
意味のないことをしているわけじゃない。
電子書籍で、百合漫画や百合小説をとにかく読み漁っていた。
読んで。読んで。読んで。
狂ったようにページを繰っていく。
すべては、自分がおかしくなっていないことを証明したいがための行動。
容姿がつくしに似たヒロイン。喋り方がつくしに似たヒロイン。仕草や行動の仕方がつくしに似たヒロイン。
つくし。つくし。つくし。つくし。つくし。つくし。つくし。つくし。つくし。
つくしに似たすべてを摂取して、自分の気持ちが揺れ動いて欲しいと願い続ける。
でも、現実は非情だった。
アタシの気持ちは、怖いくらいに前へ向かない。
ドキドキしない。
本当に、ドキドキしない。
全部全部全部全部全部全部、少しでもつくしに似てるヒロインが出てたから買った漫画や小説なのに。
前まではちゃんとドキドキできていたのに。
おかしい。
おかしい。
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。
本当に、全部が、根っこからアタシはおかしくなっている。
寒気がした。
寒気がして、パニックになって、持っていたスマホをベッドの上に投げつける。
スマホは、跳ねてそのまま音を立てながら床に落ちてしまった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
荒くなったアタシの呼吸が、闇夜の漂う部屋の中で静かに聴こえる。
頭を掻きむしり、流れる涙を抑えきれなかった。
「……なんで……? なんでなの……? ふつう……そうはなんないじゃん……?」
男の子になって、どうして女の子が、つくしのことが、好きでいられなくなっているのか。
原理がわからない。
仕組みがわからない。
元々アタシは壊れているから、性別が変わっても壊れたままだということなのか。
小学生の時、担任の先生が言った。
男の子は女の子のことを好きになって、女の子は男の子のことを好きになる。
それが普通。
じゃあ、普通じゃなかったら?
そんなこと、誰も先生に聞かなかったけれど。
アタシは、それから少しして、幼いながらに自分で結論を出した。
――女の子でありながら、女の子のことが好きなアタシは、普通じゃない気持ち悪い人。壊れている人。欠陥人間。
そう。
欠陥人間だったんだ。
だって、女の子と女の子じゃ赤ちゃんは作れない。
赤ちゃんが作れない人たちは、生物学的に反している。
皆が当たり前にできることができない人。
それがアタシ。
アタシなんだ。
「ふっ……うっ……うぅっ……うぁぁ……」
欠陥人間のくせに、どうしてそれが解消されると思ったんだろう。
本当にバカ。欠陥人間だなぁ。
男になったからって、アタシが女を好きなままなわけないじゃん。
男になったアタシは、男のことが好きになる。
それが当たり前の流れ。
わかったらさっさとバカみたいに泣いてないで、現実受け入れればいいのに。
こんなんだから、お母さんもアタシのことを見捨てた。
お父さんも、お母さんと別れた。
バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカパカ。
欠陥人間欠陥人間欠陥人間欠陥人間欠陥人間欠陥人間欠陥人間欠陥人間欠陥人間。
「死ね……死ね……死ね……死ね……アタシ……死ね……」
無意識の行動だ。
気付かないうちにアタシは手の甲を噛んでいて、そこからは鉄の香りがした。
なんでかはわからないけれど、その匂いはどうしようもなくアタシに死を連想させてくれて。
心の中につくしを置いておけなくなった自分は、本当に死んでしまうしかないだな、と強く思うのだった。