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第3話 ズキズキ

 その日、アタシは放課後まで本当に必要最低限しか声を出さなかった。


 元々、クラスの中では目立つ方じゃなく、友達もつくししかいないから、誰かに話し掛けられることも少ない。


 いつもならどこか呪いがちな自分の立ち位置だけど、今日はそれに感謝した。


 ただ、授業中は違う。


 幸運にもグループワークはなかったけど、先生が勝手に名指しして当てていくということはあったし、その時のアタシは心臓をバクつかせ、冷や汗もすごく浮かべていた。


 当てられたりすれば、静寂の中で、大勢に変わってしまった低い声を堂々と晒さなければならない。


 そうなったら、絶対にアタシの声に疑問を持つ人がいて、もしかしたらつくし以外の人たちが心配するように声を掛けてきたりして、芋づる式に男の子疑惑が広まって行って。


 先生に呼び出されたりして、お母さんにも話が伝わる。


 お母さんにこのことがバレたら、いったいどうなってしまうんだろう。


 考えたくもない。


 たぶん、いや、絶対にひどいことをたくさん言われるから。


「――……春。じゃあ……帰ろ?」


 ――と、訳のわからない現象に苛まれ、戦いのような一日をどうにか何事もなく終え、迎えた放課後。


 うつむきめに、教科書やノートなど、持って帰るべきものをカバンの中に入れていると、つくしが話し掛けてきてくれた。


 ただ、顔を上げても、そこにはいつもの柔らかい表情をしたつくしはいない。


 どこか神妙に、心配するように、そして恐れを抱いているような顔の彼女がいて、アタシはなぜか胸にちくりとした痛みを覚える。


 たったこれくらいのことなのに。


 自分で自分を嘲笑うけど、気持ちは上向きにならない。


 痛みを感じたまま、アタシは作り笑いを浮かべて頷いた。






 ――つくしが、変だ。






●〇●〇●〇●






「ごめんね。部屋の中、そんなに綺麗じゃないけど……」


「ううん。全然そんなことないし、綺麗。あと、もう何回も春の家には来たことあるし、私」


「……あ。そ、そうだよね。あはは……」


 どこかぎこちない空気の中、アタシは自分の家――アパートの部屋の鍵を開け、扉も開ける。


 つくしは、どことなく後ろにいたアタシを警戒するようにしてチラチラ見ながら、ローファーを脱いだ。


 アタシもローファーを脱ぎ、中へ入っていく。


 簡単に部屋の中央に置かれているちゃぶ台。


 そこを使えるようにしてアタシたちは座り、いつも話したり、お菓子を食べたり、ゲームをしたりする。


 今日もいつも通りそうした。


 アタシたちは向かい合ってカーペットの上に腰を下ろす。


「……」

「……」


 会話はすぐに始まらなかった。


 帰り道もそうだったけど、不自然なほど沈黙が続く。


 アタシも、つくしも、どこか何かを探って会話の糸口を見つけようとしているみたい。


 昼休みも、休み時間の時もそうだった。


 アタシが男の子になってしまったことを告白して、つくしは明らかに様子がおかしくなった。


 もしかして、自分に本格的な恋心を抱きそうになっているのかな、とか思ったりもしたけど、そんなはずない。


 つくしは、アタシに何かあった時、本当に重く心配してくれる。


 初めて会話した時もそうだった。


 中学の部活。ソフトテニス部の練習の最中、アタシが熱中症になってしまった時だ。


「……春?」


「……! あ、う、うん。何? ……つくし」


 目線を下にやり、いつ会話が始まるのかわからない沈黙の中、油断していたアタシは虚を突かれる。


 焦って声が裏返ってしまった。


 低くなった声が。


「あなたは……本当に春なんだよね……?」


「……へ?」


「見た目は、普段通りの春。男の子っぽいとか、ボーイッシュとか、王子、とか言ってる人もいるけど、変わらない、いつもの春」


「え……お、王子……?」


 何それ。


 そんなこと言われてるの、アタシ……?


「でも、声は確かに低くなってるし、腕とか…………春にはなかった筋肉が見える。胸も柔らかくなかった。雰囲気も……本当に王子様みたいになっちゃった」


「……っ」


「私の知ってる春が……春じゃなくなっちゃった……」


 言葉が出ない。


 違う。そんなことない。


 そう言いたいのに、アタシは確かにそう言い切ることができなかった。


 アタシが変わってしまったのは事実だから。


「……本当に……春なんだよね……? 私の……と……大切な春だよね……?」


「……うん。アタシは……春。先川春」


「どうして……? どうして突然こうなっちゃったの……? 男の子になっちゃうなんて……そんなの……」


「……あり得ない話だよね。本当に。信じられないようなことだと思う」


 つくしは頷く。


 アタシは苦々しく微かな作り笑いを浮かべた。


 穏やかじゃなく揺れる心臓だけど、それをどうにか抑え、勇気を振り絞って続ける。


「つ、つくしは……さ……」


「……うん」


「お……男の子になったアタシ……ど、どう思う……のかな?」


「……え」


「や、やっぱり……嫌だ……? そ、その……う、受け入れられない? 今まで通り……みたいに」


 返事はすぐに無かった。


 うつむき、困り、戸惑ってるのがわかる。


 それはそうだよ。


 いくら何でもこんなこと急過ぎる。


 アタシじゃないみたいって直接言われたのに、こんな質問する方がバカげてる。


 ……けど、本音を言うなら。


 間髪入れずに返して欲しかった。


 受け入れられる。何も気にしないよ、って。


 いつもみたいに、つくしの優しい表情で。


 アタシの手を取るようにして。


「ご、ごめんね! う、ううん! 無し! 今の無しにして? 今の質問、無し! あ、あはは! ほ、ほんとバカだよね、アタシ! いきなりこんな質問してつくしを困らせて!」


 ズキズキとした胸の痛みが、アタシを気丈に振る舞わせる。


 つくしの前じゃあまり作らないような笑みを浮かべて、油断すれば今すぐ涙が流れてしまいそうで。


 低くなった声で、アタシは何度も手を横に振っていた。


 ごめん。ごめん。と。


 そんなアタシを見て、つくしは――


「……大丈夫」


「……え?」


「私は、春が男の子になっても……今まで通り」


 一際大きい痛みがアタシの胸を襲った。


 本心ではない気がする。


「だって……春のこと……好きだから……」


 それは、友達として?


 それとも……。


「ごめんね……春……。わかんないけど……止まんない……何でだろ……?」


 涙に濡れる大切な人を見て、アタシはただひたすらに自分を呪う。


 何も自分の本心から返せる言葉が無かった。


 つくしは、ずっと言っていたのに。


 春が何でも話せるような人になりたいって。


 アタシは、その思いに応えたいってずっと考えていたはずだったのに。


「……」


 考えるのをやめたわけじゃない。


 ただ、自分の中で、こらえていた一本の線が切れたような感覚に陥った。


 もう、細かく感情の一つ一つを確かめる気にはなれない。


 ズキズキする胸の痛みの意味も、深く追求できない。


 気付けば、アタシは何も言わずにつくしの体を抱き締めていた。


「――は、春っ……!? きゃっ……!」


 抱き締め、その勢いのまま、後ろにあったベッドへつくしを押し倒す。


 死に物狂いに、ひどく抵抗してきたわけじゃなかった。


 けれど、つくしはアタシを受け入れてくれるわけでもなくて。


 わずかな力でアタシの体を引き離すように、アタシの胸を手でグイグイ押してきた。


 こんな力だと、女の子だった時のアタシでさえびくともしなかったはずだ。


 けれど、脆くなった気持ちしか持ち合わせていない今のアタシを引き剥がすには充分で。


 アタシは、自分から手を離し、ベッドに腕を突いた形で、覆い被さるような形で、つくしのことを見つめた。


「っ……」


 下にいるつくしは、顔を自分の手で覆って、辛そうに、本当に辛そうにしながら嗚咽の声を漏らしている。


 絶望に近い感情が湧き上がった。


 男の子になれば、それはそれで上手くいく。


 彼女と、堂々と恋人になれるかもしれない。


 そんな風に軽く考えていた自分を、すぐさま鋭利なモノでメッタ刺しにして殺してしまう。


 ノイズのように、ぐちゃぐちゃした気持ちが頭の中を埋め尽くす。


 意思とは別だ。


 意思とは別に、下にいたつくしへぽたぽたと水滴が落ちた。


 止められない感情の水滴。


 アタシは力なく、意味のない三文字を何度も連呼する。


 ――ごめん。


 つくしはアタシのそれを聞いて、顔から自分の手を離し、こちらを見つめ返してくれるけれど、その表情はとっくの昔にアタシの知らないモノで。


 彼女もまた、何も言わずに再び涙を流していた。


 アタシたちは、本来ならドキドキしていた場所で、ズキズキとした痛みしか感じず、上と下で泣いていた。


 絶対に届かない上下。


 空と、地面。


 もし、空を飛べるちからがあれば、アタシたちはきっと悲しまずに済んだ。


 でも、そんな超常現象は起きない。


 空も、地面も、ただ何も得ず、あるべき姿で変わらずにこれからを全うする。


 気付いてしまった。


 アタシは、つくしにドキドキしなくなっている。


 そこにあるのは、ただズキズキだけだ。


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