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水は知らない

 彼女は僕の背後から唾を垂らした右手でペニスを弄び、やがて優しく掴んでゆっくり上下に動かし始めた。左手は僕の太ももを艶かしく撫でていた。別の作業を同時にこなすなんて、なんだかコンビニのバイトみたいだ。僕はその健気さを労いたいという不遜な気持ちになった。肩越しに彼女の髪と顎と呼吸を感じていた。ポリス的な動物である僕らがその装いを脱ぎ捨て、単なる動物として存在しているように感じた。この時間がずっと続けばいいのに——と少年のように切望できるほど僕はもう若くはない。


 29歳になり少しだけ太った。……考えすぎかもしれない。健康診断を受けても〈肥満〉とは分類されない程度だ。元々が多少痩せすぎでもある。でも一般に年齢を重ねると太りやすくなり、また体力も落ちる。運動の習慣をつけるのは早い方が良い。

 だから僕は町にある私営プールの会員になり、毎日コツコツと泳ぐことにした。いわゆる〈教室〉タイプではなく、営業している時間を見計らって個人で自由に泳ぐ。そこで僕は彼女と出会った——


 彼女は僕の5歳年上で、それが全く気にならないほど美しかった。背は少し低めで太っているとまではいかないが肉付きがよく、顔立ちも含めて(猫っぽいな)というのが第一印象だった。猫とひとくちに言っても愛想の良い悪いがあり、全く別のベクトルであたかも凶悪にそれぞれ愛らしさを振り撒くが、彼女は愛想の猫のようだった。どうでもいいけれど僕は昔から綺麗な女性が猫に見えることがしばしばある。猫を飼ったことはないのに。

 初対面の女性でこちらが掴んでいる情報が少ない場合、とりあえず僕は「大学生?」と尋ねることが多い。一般に大学生は若く賢いイメージのため、こう思われて嫌な気のする女性は少ない(はずだ)から。隠しても仕方ないから打ち明けるが当然そこには下心もある。こちらの目論見がバレているのではないか? そう不安に思うこともあるが、これを何年も続けた感触で、これからも続けて大丈夫だなと僕は判断している。……罪悪だろうか? Win-Winだから許してほしい。社交辞令という言葉もある。

 例に倣い、そういったファーストコンタクトがあり、それからも泳ぐ時間が合えば世間話をして少しずつ交友を深めた。クロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎをそれぞれ25m泳ぐのを1セットとし、終えたらインターバルをとり息を整えるのだが、例えばそういった合間の時間に彼女も同じく休憩中だったら「今日は雨でしたね」と話しかけたりして。彼女は水色のキャップと黒の水着で泳いでいた。入水する前にそれを探すのは密かな楽しみだった。


 そして何ヶ月か経ったある日、水泳を終えて帰る際——つまりプール内ではなく外——で同じく帰る彼女と会った。当たり前だがプール内で連絡先を交換することはできないため、たまたまこうしてタイミングが合う日を待っていたのだ。もちろん僕は「お疲れ様でした」と言った後で「よければ連絡先を交換しませんか?」と尋ねた。この瞬間の全能感ときたら。


 鼻唄をうたいながら帰った。チューリップの『青春の影』、それからレディオヘッドの『クリープ』。プールに向かう際はほとんど必ずイヤホンで音楽を聴きながら歩いた。が、帰りは聴かなかった。水泳終わりには耳に水が入っていて、それでイヤホンが壊れるかもしれないと思ったからだ。考えすぎかもしれないが、高価なAirPods Proが壊れるのはどうしても避けたかった。


 彼女のことで焦ってはいけない。それから僕らはLINEでコミュニケーションをとり、実際にプールで会った際はいっそう親しさを感じ合った。

 距離が近くなることで、新たに分かったことがいくつかある。先述の通り彼女は34歳で、9歳の息子がいて離婚経験のある独身(不倫を防ぐためこの情報は重要)だった。あるいは世間的に、こういった属性を持つと遠ざけられがちなのかもしれないが、何か僕の心に引っかかるのを感じたりすることはなかった。法にもモラルにも反しない。あえて気にするならば、彼女が息子のことを思ってどう判断するかだ。冷静に考えて、その判断は全面的に彼女に委ねられるだろうと僕は結論づけた。そしてそうじゃなきゃ嘘だが、僕らはデートに漕ぎ着けた。


 セックスをすることになるだろうな、と僕は思った。期待で周囲の物が色鮮やかに見えた。

 ちょうどその少し前、LINEにミニブログ機能が備わっていることを知った。そして彼女はLINEでミニブログを公開していた。どうせセックスするなら彼女のことをよく知っておきたい、と僕は考えた。仮に一方的ではあるにせよ心を込めたいのだ。知るところから世界は始まる。

 しかし、そうすべきではなかったのかもしれない。そのミニブログを読むと彼女は姑の悪口を山ほど綴っていた。恐ろしく、目を背けたくなるほど生々しく。想像するに姑に意地悪されたのだろうが、正直その悲劇は僕にとって遠い国で開催された興味のないスポーツ大会の結果くらい関係なく思えた。結果として、僕は彼女とのセックスはと思い至ってしまった。


 この段階で、デートをすることはすでに予定として決まっていた。ただ内容は決まっていなかったため、最も手軽なをすることにした。遠出などをする気にはならなかったのだ、正直。

 僕の家のすぐ近くにあるカフェで、彼女はコーヒーとチーズケーキを、僕は紅茶とチョコクロワッサンを味わいながらを語り合った。そう、内容なんか憶えちゃいない。ごめん。ただ、彼女が好きだというミュージシャンは憶えている。山口百恵。僕も割と好きだ。彼女も僕も平成生まれだが、彼女は平成より昭和が好きだと言った。

「どうして?」と僕は尋ねた。ほとんど誘導されたようなものだ。そして僕はこう続けた。「生まれてもない時代を好きになるって不思議ですよね」。彼女は答えた。「だってあの時代って不条理じゃない。カミュなんて目じゃないわ」。

 料金は男である僕が払うべきか、年上である彼女が払うべきか? 各々の料金をそれぞれ払うことにした。条理にかなっている。


 デートにしては時間が短いような気はしていた。別れるにしては呆気なさすぎるという雰囲気。それで彼女は僕の家に行きたいと言った。少し話すくらいなら、と僕は言った。恥ずかしい話(というか)僕は実家暮らしなのだ。時間帯を考えると実家には誰もいないが……。


 家へ向かい、僕らは靴を履いたまま玄関の上がり框に座った。先ほど「少し話すくらいなら」と合意しこの状況を迎えたが、どちらとも口を開かず少し緊張していた。

 僕の左に座っている彼女は不意に右手で僕の背中を摩った。それがセクシュアルな所作というよりは、まるで受験に失敗した生徒を励ますようだったから僕は思わず小さく笑い、彼女も笑った。それで場が和んだ。でも彼女にスイッチが入ったようにも思えた。彼女は背中を摩っていた右手で、ズボン越しの僕のペニスに触れた。そしてしばらく遊び、「脱いで」と囁いた。僕が靴とズボンとパンツを脱いでいる間、彼女も靴を脱ぎ玄関の上がり框に座っている僕の背後に静かにまわった。そして唾を垂らした右手で僕のペニスを弄び、やがて優しく掴んでゆっくり上下に動かした。僕は快楽に身を任せていたが、玄関で射精をするのはまずいことに思い至った。それで「すみません、止めてください」と僕が言ったが彼女はまるで無視し、僕はそのまま射精した。精液が靴にかからなかったのは幸いだった。

 僕が彼女の方を向くと、そんなにもかと僕は思ったのだが彼女はそのままフェラチオをした。女性が僕のペニスを口に含むのを目にすると、僕はその女性がトポロジー的に全く別の存在になるのをしばしば感じる。こういった感覚は生活においてなかなか訪れない。そんなどうでもいいことを考えていた。


 それからも何度かプールで顔を合わせるが彼女には特に変わった素振りがなく、あれは夢だったのだろうかと僕は小首を傾げてしまう。でも水中で壁を両足で蹴って泳ぎ始めるその時、幸せはプールの水のように——もしかしたら甘く——僕の心を満たしている。

 でも、これも仮初の一面に過ぎないことをふと悟ってしまう。寄せては返す波のようにね。自宅からプールへ行き、スイマーとして、25mのレーンを繰り返し端から端まで泳ぐ僕だが、誰か教えてほしい、僕はどこから来たのか、僕は何者か、僕はどこへ行くのか——

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