目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
タイムトラベル・ノベル

 それから彼女は仰向けの僕に跨り、卵を掴むように優しく僕の勃起したペニスを手にすると自らのヴァギナへと導いた。温かく湿っていた。彼女は悩ましい表情でほのかに赤面しており、その身体は神話のように崇高だった——


 僕らがフランツ・リストのピアノ曲『愛の夢』を思い浮かべる時、だいたいは第3番が脳内で流れている。世間的に最も有名で、というか僕は第1番と第2番があることすら知らなかった。元々この第3番はドイツの詩人ヘルマン・フェルディナント・フライリヒラートの詩による独唱歌曲だそうで、詩は「おお、愛しうる限り愛せ!(O lieb, so lang du lieben kannst!)」から始まる。僕は僕自身いつかこの言葉の意味を真に理解する日が来ると信じている。笑いたければ笑ってくれてもいい。


「そりゃ、日本で学んでる生徒の卒業は3月だろ」と彼は言った。「11月に卒業式を執り行う早漏みたいな高校はないぜ」

「言い方が悪かったな、ここでいう卒業はセックスによる——つまり童貞卒業の——話だ」と僕は返した。「これが高3の3月。お前の言う通り、高校の卒業も同じ月のほんの少し前にドタバタと祝った」

「ああ、なるほど」

「とりあえずまあ、僕が童貞だったその過程も含めて性の話を聞いてくれ。お前ぐらいしか話せる相手はいないよ」

 もしかして〈ウェイトレス〉という言葉は現代では性の多様性に配慮できていないとされ、用いるべきではないのだろうか? 愛想笑いの板についたスタッフが、目の前に座っている彼にチョコレートのケーキを、僕に抹茶のミニパフェを運んできてくれた。

 デザートを前にして僕らの会話は一時中断し、器にフォークやスプーンが当たるカチャカチャという音が妙に大きく響く。

 23時過ぎ、客足の少ないファミレス。エドワード・ホッパーの絵画『ナイト・ホークス』みたいだ。


 さっき言った通り、僕は高3の3月に初めてセックスをした。相手は同じクラスの女の子で、僕らは18歳だった。高1の時はたまたま同じクラスに振り分けられ、高2からは文理で、それから特別進学クラスか否かで分かれるのだが、僕らは同じく文系の特進クラスだったから、結果3年間クラスが同じだった。

「お前エリートだったんだな。なんか急に嫌いになってきたよ」と目の前に座っている彼は軽口をたたいた。僕は釈明する。

 僕が通っていた高校のレベルは決して高くなかったんだ。一応は進学校の看板を掲げているけれど、たまにそれを疑いたくなるほどにね。偏差値も大したことないし、荒れているところもあった。

 例えば僕は野球部でサードを守っていたが、ショートを守っていた同級生は鼻ピアスをしていた。もちろん校則違反だ。だから授業中は常にマスクをしていた。たださすがに野球の試合でマスクをするわけにもいかないので、その際はピアスの穴に透明なプラスチック片——炊く前の米粒みたいなやつ——を通し、自然治癒で穴が塞がらないようにしていた。……えっと、だいぶ話が逸れた気がする。どこまで伝えたっけ?

「高3の3月にずっと同じクラスだった女とヤったんだろ?」

 そうだった。ありがちな話かもしれないけれど、ようやく長く苦しい受験が終わり、その解放感で……ってところだな。大学は別だったからもう会いにくくなるし今のうちに、という気持ちもあった。 

「状況を整理しておきたいんだが、その女とは付き合ってたのか?」

 狭義の交際はしていなかった。だけど村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末における〈僕〉と〈影〉みたいに僕らも確かな同意をし合い、くどいようだが僕らの方はセックスに至った。

 さっき僕が野球部だった話をしたが、グラウンドを上空から見ると、一角に配置された野球のダイヤモンドのファースト側に体育館があり、さらにその奥に部室棟があった。僕が練習を終え、ボールがたくさん入った重いコンテナボックスを抱えながら体育館の横を通り過ぎ部室棟へ向かうその道中、彼女とばったり会ったことがある。彼女は「代わってあげようか?」と笑顔で言った。セックスまではお互い割と長い期間を要したのだが、思い返せば初めて僕がいわゆる〈好き同士〉であることを悟ったのはその時だった。

「こりゃまた、どうやらお前には偏執の素質があるみたいだな」

 失礼なことを言うな。……まあ青春、いやつまりってこういうもんさ。どうしようもなく風向き次第なんだ。ただこれは一例で萌芽はいくつもあった。ちょうど頭も冷静になるような長い期間のうちにな。しかしまあ、例を挙げすぎると惚気がひどくなってお前が頭痛を覚える可能性があるから控えることにしよう。……ふと口をついて出たが、〈青春〉と〈童貞性〉って同義なのかもしれないな。世間的には前者の方がよっぽど耳触りの良い気はするが。


 ここからがわざわざお前を呼びつけて話そうと思った理由、すなわち核心だ。奇妙なのはことなんだ。大学を卒業し社会人になりたてくらいの時期だ。

「急に詩人みたいなことを言うなあ。どういうことよ? ……死んだのか?」

 いや、亡くなってはいない……はず。だからこそ首を傾げたくなる。

 実は彼女とは全く連絡がとれていないんだ。電話番号やメールアドレスをまるっきり変えてしまって。そしてこの変更したこと、それから変更後の連絡先ももちろん教えてくれていない。僕だけかと思いきや、彼女と仲の良かった複数の同級生に尋ねてみても同じだった。口裏を合わせている可能性もあるが、彼女とよりは僕との方が気心の知れた耳ざとい男友達に尋ねても、やはり「確かにあいつの近況は全く聞かないな」という話だった。嘘を言っているようには到底見えなかった。

 しかも彼女はSNSのアカウントを軒並み削除してしまった。いろんな人との会話の記録や、フォロー・フォロワーという関係性や、そういった想い出がたくさん詰まっているはずなのに。

「うーん、でもそういう人って割といるみたいだぜ。人との繋がりをしがらみと考え積極的に断つわけだ。断捨離に近いな。巷では〈人間関係リセット症候群〉なんて言うらしい。これマジで流行はやってるから」

 それからさらに遡るが実は今にして思えば彼女は彼女らしくない、すごく程度の低い大学に進学することになったんだ。いくら僕らの高校がショボいとはいえ、それよりさらに冴えない大学にな。僕だって結果的にチンケな大学にしか受からなかった不真面目な受験生だったが、そんな僕とは違ってひたむきでずっと頭も良かったのに。

 奇しくも大学の選択なんかを〈進路〉と表現するだろう。彼女だったら当たり前に進めたみちから大きく逸れたんだ。まるでレース中に脱水症状を起こしたマラソンランナーが路肩に倒れ込むみたいに。

 だから、考えすぎかもしれないが高校卒業間近の僕は彼女と喋る際に大学の話題はなんとなく避けていたし、その流れで大学生になってもどこか疎遠になってしまった。どこまで踏み込んで喋ればいいか分からなかったんだ。

「あのな、受験なんてミズモノだから本番で実力が出せずに目標よりだいぶ低いランクの大学に進む奴なんてザラにいるよ。早い話が、やっぱり気を遣いすぎ……いや、お前はビビってたわけだ。だいたいこんな話は上から目線で不躾だぜ。悪いところだから直せよ」

 でも僕は違和感を覚えずにいられない。まるでようにさえ感じるんだ。

「ここまで長ったらしいお話を聞かされてオチはオカルトかよ。で、今度は彼女に会ってみたらなんと影がなくて実は幽霊でしたってか? 三文ホラー話は勘弁してほしいぜ」


 僕らは料金を払いファミレスを後にした。彼は酒とつまみを買って晩酌を楽しむからと言って、光に吸い寄せられる羽虫みたいにコンビニへ消えていった。僕もまだ小腹が空いていたからフランクフルトなんかを頬張りたい気持ちはあったが、とりわけ深夜の脂っこい食事が健康には良くないことを考え、疲れを感じつつそのまま自宅へ向かった。

 途中、スマホでGoogle Chromeにアクセスし、童貞を卒業させてくれた彼女の名前を検索しようかと思った。もしかしたら再びSNSなんかで、僕の知らない街に店を構えるオシャレなカフェのコーヒーの写真をアップし、充実した生活をアピールしているかもしれない。そうであればどんなに嬉しいか。

 だが僕はそうはしなかった。ファミレスで彼に言われた「どうやらお前には偏執の素質があるみたいだな」という軽口が脳内でこだました。

 その代わり僕はイェネ・ヤンドーがピアノで弾くフランツ・リストの『愛の夢』をイヤホンで聴いた。つくづく僕は俗物だな。植物図鑑みたいに俗物の僕は図鑑に載るべきかもしれない。筒井康隆がそうしたように。イェネが力強く鍵盤を叩いている。この響きが僕の心の淀みを斧で木を割って薪をつくるみたいに細分化し、棚に収めやすく、そしていつか火をつけやすくするのだ。


 彼女とのセックスの一連の記憶は、実は緊張のあまりぼんやりしている部分が多い。だからどうしても内容が取り留めなくなることを断りたい。憶えているのは彼女の髪が不意に僕の太ももをなぞった際に生じた官能。それからバックで挿入しようとした際に目にしたのだが、好きな相手の場合肛門でさえも甘美に見えるものなのかという感激。

 セックス自体は意外にもスムーズに遂行できた。特に腰を振るのは本能として人体に染み付いているのか、自分でも驚くほど自然にこなした。彼女は小さな——だから喘ぎ声という言葉を用いるべきではないかもしれない——声を漏らした。何もかもが学校には存在しないものだった。このことは少年野球でランニングホームランを打った経験と同じく、生きる上での僕のささやかな、そして独りよがりな自信となっている。セックスの話に戻すと、むしろ最も手こずったのはコンドームを装着する作業だった。これは実に情けない。

 どうでもいいけれど、そのセックスをした僕の部屋には植田まさしの漫画『フリテンくん』がたくさん置いてあった。このスライス・オブ・ライフなギャグ漫画が好きだったのだ。そしてなによりこの漫画を読んでいる同級生は皆無で、それが僕にとって特別だったのだ。ただ彼女が僕の部屋に入り最初に本棚を見て『フリテンくん』がずらりと並んでいるのに気がついた時、正直恥ずかしかった。代わりにドイツ文学の文庫本だったらもう少し格好がついていたかもしれないな、という青臭い考え。植田まさし先生には申し訳ないけれど。

 でも至って真剣な話なんだ。どのようにして、どうすべき(だった)か。とどのつまり、これに終始する。そうですよね?

 あの日、僕が「おいで」とささやき、彼女がベッドのサイドレールを跨いで僕のそばに寄った時、そして彼女が覚悟を決めた(ように見えた)眼で自ら服を脱ぎ、あまりに透き通った乳房、臀部、それからヴァギナを晒し、そのから僕の目が一瞬も離せなくなった時、僕の胸を満たした自己救済とも言うべき「自分は圧倒的に正しいことをしている」という情動。

 でも今ようやく振り返ると、それが錯覚だったことを否定できない。将棋で歩がに成るみたいに僕は童貞から非童貞へとステージを上った。しかし、僕は盤上の駒をこの手で薙ぎ払ってしまうべきだったのかもしれない。本心なんだ、痛いほど。


 ファミレスで友人が言ったようにこの話はオカルトやホラー……ではない。言わばSF、より細分化するとタイムトラベルものだ。僕らは記憶の底に安寧の地を求める。未来には寿司とカレーとラーメンを混ぜ合わせたみたいなカオスしかないことを知っているから。過去へ、あくまで過去へ。遡行すべく光の速さを超えて、「できっこない」「意味がない」という暗雲を掻い潜って。そしてんだ。傷を癒す獣のように巣で震えながら縮こまって。きっと僕は今そうすべきだろうし、それしかできない。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?