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君と付き合って自分が頻尿だと気づいた

 夏の暮れ、僕は彼女と入道雲を見に出かけた。それをしないことには、このどこか物悲しい季節に耐えられない気がしたのだ。しかし結果的に、絵に描いたような入道雲は空のどこにも置かれていなかった。ベストセラーの本を図書館に読みに行ったら、既に誰かに貸し出されていたように。「また明日ここに来よう」と僕は彼女に提案した。予定を立てる幸せは確かに存在する。入道雲は秋でもまだよく顔を出してくれるから惜しむ必要はない、と自分に言い聞かせる。彼女にも伝えた。

 その帰りに住宅街を歩いていると、どこからかピアノの音が聞こえてきた。過去に耳にしたことがあるような、ないような曲だ。すると彼女は自信ありげにこう言った。

「あれは『トロイメライ』だよ」

 僕はびっくりしてこう返した。

「よく分かったね」

 彼女はこちらに顔を向けてにっこり笑いながら言った。

「昔、餃子を包みながらラジオを聴いてたらたまたま流れてたの。その時に気に入って調べたから。作曲者はシューマンだって」

 僕も顔が綻んだ。でも彼女は勘違いをしている。僕が驚いたのは彼女が『トロイメライ』を知っていたことではなく、僕がそもそも『あの曲は何だろう?』と思ったのに彼女が気づいたことだ。


 年末の大掃除、玄関を箒で掃くため靴を右手に1組、左手に1組ずつ持って外に運んでいると、彼女のスニーカーが目に留まった。僕のランニングシューズの左隣に鎮座している。僕のより一回り小さく、ふと、それがすごく愛おしくなった。僕は彼女のスニーカーをそっと持ち上げ、靴紐の結び目にキスをした。それから我に返り、リビングの窓拭きをしている彼女の背中を慌てて視認した。こんなところを見られていたらドン引きされること必至。告げ口しないでくださいね。

 僕は浮かれている。でも落ち込んでいるよりはマシ。幸せはそれをそうと気づきにくい。何がおもしろくてそう仕向けたのか知らないが、神とか呼ばれているやつはひどく残酷。最高裁判所裁判官国民審査制度みたいに投票制にして、場合によっては罷免されるべき。


 彼女に伝えるべきだろうか。君と付き合って自分が頻尿だと気づいた、と。以前はデート、最近はお出かけにおいて、トイレに行く回数が僕の方が明らかに多い。ということを同級生で部活仲間でもあった旧友に話したら「あのな、お前は学生時代から頻尿だったぞ」と告げられた。自分の、それも用を足すという大変身近なことでも自覚していないことがあるんだ。この衝撃は雷に打たれたよう……は言い過ぎだけれど。

 恋愛とは気づいていくことなのかもしれない。植物が夜明けを歓迎するように、植物学者が茂みを掻き分けるように。いずれにせよね。まもなく僕にとっての永遠も3ぶんの1を過ぎる。



——突然のことで失礼します。誠に勝手ではありますが、ここまでの惚気話を撤回させてください。こんなものは僕の本意ではありません。そうです、彼女と別れました。交際に、そして幸福に幕が下りたのです。ご来場ありがとうございました。お出口は右側です。はあ……。はい、終わり終わり……。

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