妻が主催者である夫に「そういえばさ、『匿名同盟』の由来ってなに?」と尋ねた。夫は丁寧に答えた。
「昔、家の電話で——そういう時代だったね——クラスメイトの女の子に告白をした際、『好きです』って伝えたら電話の相手はその女の子のお母さんだったんだよね。あまりの緊張で、まず名前を伝えることと訊くことが頭から抜け落ちちゃってて。『お互いのことをよく知らない』って状況はどこか滑稽なんだ。だからかな。特に深い意味はないんだ」
妻はちょっとムッとした顔をした。夫は慌てて付け加えた。
「おいおい、小学5年生の頃の一幕だよ。大昔の話さ」
読書会というものがある。読書を促進し合う会。本を持ち寄って紹介し合ったり、主催者が指定した本(各々読んでくる、またはその場でみんなで読む)の感想を述べ合ったり。
それこそ〈持ち運びしやすい読み物〉という物体が生まれるとほぼ同時期に読書会も催されるようになったのでは、という仮説(というか)を僕は持っている。この〈持ち運びしやすい読み物〉の原初をパピルスとするなら
「おい、文字入りのパピルスとかいうやつが手に入ったからみんなで眺めようぜ。お前も来いよ。仕事終わりに俺ん
「行けたら行くよ」
「来ない奴の言い回しじゃねえか」
みたい会話がエジプトであったんじゃないか。人間はコミュニティが好きで、本質的に寂しがり屋だからだ。それから『プリズン・ブック・クラブ:コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』という本もあるが、これは読んで字の如く刑務所における読書会について書かれたアン・ウォームズリーのノンフィクション(らしい。早く読みたいが
先日、電話で要件を伝えられて咄嗟にメモ用紙にペンを走らせたら、一部の漢字が書けなくなっていて驚くと共に深く気落ちした。いわれてみれば最近はキーボード入力ばかりで〈筆記〉から遠ざかっていたから。文化というものは良くも悪くも淘汰されるものらしく、そこにはやはり哀しさがある。
その点、これだけ時代が進歩しても読書会という文化が存続しているのは喜ばしいことだ。僕が参加している読書会の名前は『匿名同盟』。メンバーはお互いの名前を誰も知らず、ハンドルネームすらない。呼びかける際は「そちらのあなたはどう思われますか?」というようにする。読書会にもオリジナリティが必要のようで、この秘匿性により醸し出される秘密結社的ロマン(とも言うべきか)をセールスポイントにしているらしい。ただ僕が入会したのはこの理念に惹かれたわけではなく、会場がたまたま近所だったから。まあ、ちょっと面白みはあるよね。
ある日、その読書会で僕はおばあさんと親睦を深めた。というのもその日のメンバーが僕と主催者の方とそのおばあさんの3人しかいなかったから。
「あれ、今日は人が少ないですね」と主催者のおじさんが言った。この方の本業は本屋(読書会の会場もこの本屋の一角)で、生真面目だが人当たりは良い。口髭がなんとも凛々しい。
「平日ですからねえ。酷暑なのも影響しているかもしれません」とおばあさんが返した。お年を召した方が実際に何歳なのか見抜く力において僕はたぶん一般人より劣っている。だからざっくり〈おばあさん〉。この会でお会いしたこと自体は何度かあって、いつもいつも丁寧の挨拶をされる。それ一つで充分に人間性を窺い知ることができる。僕はこのお二方のような素敵な年上の人間と出会うと(この方と中学で同級生として過ごしてみたかったな)なんて思う。
その日はヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んで何が心に留まったかを述べ合った。僕は
いくつかのうす黄いろい縞と光の斑点とが、ヘラス班の寝室のなかへも、三つの窓をとおしてさしこみながら、むかし僧侶仲間の夢に寄りそったのと、同じ親しさで、まどろむ少年たちの夢に、寄りそっていた
という一文が好きですと伝えた。
夕方に読書会が終わり、電車で通っているというそのおばあさんと最寄りの駅まで一緒に話しながら歩いた。先述の通り僕の家はすぐ近所だから駅に用はないが、なんとなくもっと人と接したい気分でもあったのだ。
賑やかな駅に着いた。利用客があっちへ行ったりこっちへ行ったりしており、さまざまな色の服が交差するため目がチカチカする。おばあさんが向かうべきプラットフォームは2階にあるらしく、階段やエスカレーターがある方へ向かうと、当のエスカレーターの前には〈故障中〉と書かれた札が無機質に立っていた。だから、駅の利用客は長い階段をしんどそうに上り下りしていた。おばあさんは今から上る必要があり、それはまるで登山だ。
その時、僕自身も驚いたのだが僕はおばあさんの右手を左手で取り、さらに手提げ鞄を代わりに右手で持ち、そっとエスコートしていた。……まあ、善行を喧伝するのは下品だから最小限にしておくけれど、階段を上り切った時におばあさんは「なんとお礼をしたらいいか……」と小さく言った。僕は得意気に返した。
「当然のことをしたまでです」
「せめてお名前だけでも」
「名乗るほどの者ではございません。『匿名同盟』の仲間ですしね」と僕は気取った。
ヒューッ! 活劇みたいだね。
僕が知らないだけでたぶん法律に定められているのだろうが、あばあさん方は飴を常備している。パイナップル味を堪能しながら駅を後にした。そうだ、これが溶け切るまでに今日というご機嫌な日に名前をつけたい。七月六日がサラダ記念日であるようにね。どんなのがしっくりくるかなあ。