雨の日は宅配ピザがよく売れるらしい。考えてみれば確かにそうだよなという気がする。傘をさしてスーパーに買い物に行くのはしんどいし、どこかの飲食店で食べるにも外出することすら億劫だ。
梅雨。窓の外は土砂降りで、僕も例に漏れず今からピザ屋のウェブサイトで宅配ピザを頼もうとしている。マルゲリータとペパロニのハーフ&ハーフ。さながらイタリアとアメリカの同盟。住所と電話番号を入力し、決済。便利な時代だ。きっと忙しいだろうからバイトの子には気の毒だが、これが資本主義だ。力の及ばなかったカール・マルクスを恨んでもらおう。……お門違いか。ごめん。そんなことはどうでもいい。空腹を満たす、それこそが人間の生きる意味。
待てど暮らせどピザが来ない。もう2時間半だぞ。客が多いのは承知しているがあまりにも遅い。と、したくはないがそろそろクレームもやむなしかと思ったところで電話がかかってきた。
「はい、もしもし」
「大変ご迷惑をおかけしております。クロックアップピザの店長をしている者です」
「あっ! まさに今、連絡しようとしたところですよ。僕のピザの注文が通ってないんじゃないかと思いまして」
「その件につきまして、大変申し訳ございません。実はお客様のピザをお届けするドライバーが交通事故を起こしまして……」
「ええ? 事故? ドライバーの方は大丈夫なんですか?」
「救急車で運ばれました……。代わりの者がピザをお届けします。お代の方は結構ですので」
訊きたいことは山ほどあったが、どうも切羽詰まっている様子だったので通話を終えた。
ピザがきた。結局のところ注文から3時間かかったため、レシートに書かれている「迅速にお届けするクロックアップピザ!」という文言が痛々しい。しかし怒りはないし、さっきまであったはずの食欲もない。ただあるのは罪悪感。僕が土砂降りで、また忙しい時にピザを注文したがためにドライバーは事故を起こしてしまった……?
この呵責はなかなか僕の心から離れてくれなかった。まるで呪いだ。最も辛いのは寝起きで、まだ気持ち良く寝ぼけている頭に(でも僕のせいで……)という思念が割り込んだ瞬間に気落ちする。
それで彼女に相談することにした。ポツポツとメールに書いたところ、詳しくはステーキハウスで聴いてあげると彼女は言った。なぜこのロケーションなのかよく分からないが言う通りにした。
僕と彼女は現地で待ち合わせ、そうじゃなきゃ嘘だがステーキを注文した。
「なぜステーキか分かる?」と出し抜けに彼女は尋ねた。鉄板がジュージューと音を鳴らすのにほとんど邪魔されながら。
「牛肉が好きだから?」と僕は答えた。
「まあ、それもあるけどね」と彼女は言い、こう続けた。
「ステーキを頼むとナイフがついてくるでしょう。このナイフが好きなんだよね」
「猟奇的なことを言うなあ。そんな趣味あったっけ?」
「いいや、私は博愛主義者だよ。そういうことじゃなくて、食事の際にナイフを使うケースってあんまりないでしょう。私の場合、たまのステーキくらい。フランス料理とか海外のそれってお高くて、それこそ食べられないしね。だからナイフでステーキを刻むと『特別な物を食べてる!』って感じがして好き。ただそれだけ」
別にそれを言うためにわざわざこの店に来たのではないことは僕にも分かった。彼女は告げた。
「人生は時折、慣れないナイフを使って味わうんだよ」
彼女とステーキハウスで別れ、自宅へ帰る道中、僕は(食事って不思議だな)と思った。
葬式が終わった後、誰が言うでもなく湿っぽい食事会が開かれるのを今まで目にしてきた。別に特別に腹が減っている訳でもないのに。なぜこの催しが存在しているのか今なら少し分かる気がする。
それから学校に給食ってあるけれど、あれは単に児童生徒の空腹を満たすためだけでなく学校に対する愛着も涵養しているのだろう。
考えだすとキリがないけれど、とにかく食べるということは深大なんだ。毎日のことだから気づかないだけで。ただ残念だけどこの感謝も僕の中で永続はしないだろうな。きっといつかは忘れてしまい、食べないと生命を維持できないことを邪魔くさいとすら思いだす。
今日はやたら喉が乾くな、と思った。それもそのはずで7月だから。結局、宅配ピザのドライバーが事故ったのも梅雨のせいで、全部この季節が悪——いや、唾を吐くのはやめよう。
約1か月後——すなわち8月——ようやく覚悟ができたため僕は例のクロックアップピザに電話した。事故ったドライバーの容態がその後どうなったか知りたかったからだ。まさか亡くなったとかあるまいな。緊張しながらスマホ画面の電話番号をタップした。
「こちらクロックアップピザです! ご注文をどうぞ」と溌剌とした若い女の子の声が聴こえた。
「いえ、ピザの注文ではないんです。以前そちらでドライバーの方が交通事故にお遭いしたでしょう」と僕は恐る恐る尋ねた。
「ああ、はいはい。1か月前のことですね」と彼女は接客の割にはだいぶフランクな調子で答えた。一向に構わないけどね。どうでもいいが、こういう人はどんな悩みを抱えるんだろうか。僕は続けて尋ねた。
「その時の客が僕でして。その方はどうなりましたか?」
「交通事故といっても大したことはなかったみたいですよ。救急車で病院に運ばれたそうですが一切の怪我なく——いや本当に奇跡的に軽傷すらなく——すぐに退院したようです。今もウチでバリバリ働いています」
「おお、それは本当によかった……。雨でしかも忙しい時に僕が注文したから事故ったんじゃないかって自責の念に駆られていたんです」
「ここだけの話、それには全く及びません。ドライバーの彼は原付を運転しながら、違反ですがイヤホンで大音量の音楽を聴いたり、チラチラとスマホでゲームをプレイしたりしていたとのことです。極めつけは、たまたまその日つけていたコンタクトレンズを落として失くしていたにも拘らず『慣れてるから大丈夫、大丈夫』と言ってそのまま出発したとのことです。で、信号が青に変わったのを見落とした後に慌てて発進し、勢い余ってガードレールに突っ込んだ、と。あたしが言うのもなんですが、全く困った先輩です。念押しですが口外しないでくださいね」
「……よく売れてるピザを上から3つLサイズでください。ヤケ食いですよ」
「ご注文承りました! クロックアップピザが迅速にお届けします!」