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血と汗と涙とプール水

 クイックターンで足裏が端壁を押し返すと、引き算された残りの距離が脳裏をよぎる。その瞬間に文字通り息が詰まり、クロールの息継ぎは一段と激しくなる。


 僕の通っている中学の水泳部がなぜここまで異常にハードなのか誰か教えてほしい。こう書くとまるで僕が軟弱な人間のようだが、そこは頑として否定したいところだ。現に辞めていった仲間も多い中、僕はまだ戦っているから……いや、辞める勇気もないのか。思い出してほしいのは中学において部活を辞めるというのが一大行為であることだ。頷いてくれている人も多いのでは。そこにはコンコルド効果とかなんとかによる鉄格子も存在している。僕は取り返しのつかなくなるまで事態が把握できない唐変木なのかもしれない。

 この水泳部がスパルタなのは歴とした事実。3年生の先輩が肋骨の疲労骨折を起こした。疲労骨折! それから後輩の1年生は血尿が出たそうだ。汗のかきすぎによる脱水症状で嘔吐する光景を見るのは珍しくない。トレーニング後に更衣室で泣く部員も。血と汗と涙とプール水のミックスジュースは絶望の味だ。

 水泳自体は嫌いではない。それがまた問題をややこしくさせる。水に抵抗するため限りなく無駄を排除して身体を動かす研鑽。フィジカルが成長する過程を喜ぶ観察。美しさを追求したかのようなプールサイドの青。波で蠱惑的にゆらゆら揺れる底。嫌いなのはこの水泳部のあの監督! 弾劾する力を持つのに行使しない親たちにも憤りがある。息子娘が明らかなオーバーワークで壊れているのになぜ見過ごしているのか。振り返ってみれば良い経験になる? 飼っているカエルが座り姿が似ているからといって、ある日突然扇子と手拭いを手にして落語を演じだすくらいあり得ない。ひっくるめてクソ。もう一度はっきり言いたい、クソ!


 僕はこの苦難を乗り切るため脳の一部にとある領域をつくった。フィクションの世界だ。辛さが脳に充満した際にここに逃げ込むのだ。大真面目だから馬鹿にしないでほしい。

 19世紀。主人公は家具屋の主人。この家具屋には長らく閑古鳥が鳴いている。客のない家具屋は流行っているそれと比べて、そもそもの成り立ちが原理的に異なっているとさえ思わせる。首が回らなくなった主人はついに地主宅への強盗を試みる……。

 という具合に物語を展開させて現実逃避をしてきた。そして今日、この主人はお縄になり、刑務所に入れられた。それも時代を反映した、近代の更生を目指すものではなく懲罰に主軸をおいた前時代的な監獄とも呼ぶべきものに。


 日曜日、地獄の水泳部での活動を終え、ヘトヘトの体を引きずるようにして帰宅した。それから夕食を食べ風呂に入りすぐに布団に入った。それ以外に何もする気力がないのだ。暗闇の中、クーラーが稼働中のエアコンについたランプが赤く光っていた。僕はそれに手を伸ばした。開いた指とその間を行き来させると、この赤いランプは夜空を駆ける飛行機のライトように明滅した。


 監獄に入った家具屋の主人は、同じ盗みの罪で捕まったということで農家と意気投合した。監獄暮らしにほとほと嫌気がさした2人は何か派手なことを思案しようとした。そうだ、この堀の中で花火を打ち上げるとしたら? もちろん、実行に移すわけにはいかないが妄想は自由だ。花火製造に必要な情報を囚人たちを訪ね歩きかき集め始めた。とにかく監獄には娯楽がない。

「若い時にもっと勉強をしておくべきだったと思うよ」と家具屋は言った。農家は首を振りながら返した。

「今からでも始めるこったな。よく説教にあるだろう、これからの人生で今が最も若い瞬間だって」

「お前、ところどころ爺むさい性格が顔を出すよな。でも言えてるよ」


 僕は今日から新しい学校生活を始めようと思う。水泳部を辞めるのだ。心安らかな毎日を送ろう。したいこと、すべきことに時間を割こう。監督がいる職員室へ向かう。ただ、この決別で後悔するのではないかという心配が強くある。僕は低きに流れているのか? ただもうウジウジ悩むのはウンザリだ。僕のクラスから職員室へは隣の階段を2階分降りて、正門側へいくらか廊下を歩いた場所にある。この道程で考え抜いて決断する! さあ、早く!


 フィクションにおいて監獄は脱獄のために存在する。家具屋と農家の仮想された花火打ち上げ計画はその前哨戦だ。敷地にぎりぎり人間が這い進める穴を掘った。壁の外に繋がっている。農作業の時間を見張る看守の1人だけ、なんとか買収できたのだ。脱獄の暁にはこの看守に、農家は所有する農地を譲渡し、家具屋は農業に使う道具を一揃い調達する約束になっている。とはいえ農作業担当の看守はこの1人ではなく、あと2人いる。だが、この監獄では囚人が育てた農作物を搾取することも利益として計上しているらしく農地がやたら大きく、それでいて作業をする囚人の数も多い。なんとか死角をつくり、この時間に穴掘り役と見張り役を交代しながら土を掻いた。普段は土を盛った板で蓋されているため、トンネルになっているとは気づかれない。しかし、それも長くは続かないだろう。買収した看守が裏切る可能性もある。不安で夜も眠れない。

 脱獄が半ばでバレれば間違いなく殺される。この事実でひたすらに暗雲が垂れ込める。奥歯がガチガチと音をたてる。今、計画を中止すれば死ぬことはない。しかし、それは地獄が続くことをも意味する。

「いよいよ運命の時だ。覚悟はいいか?」と農家が言った。

 家具屋は言うべきことを言おうとした。肺の底から空気を押し上げ、声帯を振動させ、共鳴腔で響かせる。あとは乾いた口から飛ばすだけだ! さあ、早く!

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