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地下室が空っぽだとして

「突然だが、地下室が空っぽだとして、そこに至る階段に意味はないと思うかね?」

「……いいえ、思いません。ちゃんと意味があります。今後、地下室を用いる際にまず階段を降りる必要がありますから。例えばワインセラーとして……あの、こういうことではなくもっと観念的な話ですか?」

「君の捉えた通りで構わないよ。ワシにとって君の意見は大変に貴重だ。悪かったね、無駄に考え込ませて。この家に入る際に屋根は見たかね。風見鶏がついておっただろう。今の時代、気象会社による天気予報があるんだから個人がアナログで風向きを調べる必要なんてないのにだ。そもそもこの地域には強い風がほとんど吹かないときている。つまりは、ワシはが好きなんだ」

「ははあ、おっしゃっていることは分かるような気もしますが」

「漢字の中でも日常生活で滅多に使わないものがあるだろう。いや、市井の人々に認知すらされていないものが。専門用語を使えばJIS漢字コードの第4水準のものとかな。この一覧を眺めるのがワシの趣味の1つだ」

「ああ、あのフォントデザイナーも見捨てる漢字のことですね」

「なかなか手厳しいことを言うな。だが、ワシが思うにJIS漢字コードの第3水準——さっきの第4水準の1個上だな——ここに含まれるあまり使われない漢字のフォントもしっかり作るところはフォントデザイナーの優しさ、いや、慈悲深さそのものだと思うぞ」

「うーむ、確かにその通りです。認識を改めます」

「おお、なんて素直な青年だ。ワシが若かった頃はもっと捻くれておった。周囲の年嵩の人間を苛立たせただろうな」


 それから老人は青年を地下室に連れて行った。青年も案外どんな雰囲気なのだろうと期待しながら歩みを進めた。と言っても、つい先ほどまで喋っていたのと同じ建物内にあったため30秒もかからなかった。青年は床に小さなハッチがあってそれを開けると階段が出現するものと想像していたが、実際は部屋の一角が剥き出しの階段になっており、だいぶ開放感があった。

 2人は階段を降りた。階段自体には電灯がないものの代わりに部屋の明かりが照らしており、老人は途中の暗さが増すあたりで「足元に気をつけなさい」と言った。その声はどこか神妙に響いた。そろそろ暗さで爪先が見えなくなる手前の位置で階段は終わり、そこの左手には地下室の電灯のスイッチがあった。老人が押すと明かりが生まれ、眩しさで目がチカチカした。階段も地下室もコンクリートの打ちっぱなしで装飾は電灯以外に何もなく、青年は身震いすら感じた。奇怪な生物の臓腑の中にいるかのように錯覚した。


 青年は老人の引っ越しを手伝うために雇われた。とはいえ、テーブルや冷蔵庫など大きなものは既に業者が預かっており、残った細々したものをこれからも使う物と処分する物に分け、それぞれ段ボールに詰め、ガレージに運び出す作業に手を貸していたのだ。3日間の予定で、その初日だ。夕方に作業を終え、「お疲れ様」のお茶をしている際にこの会話が生まれた。

 青年は日当の1万円を貰い、「それではまた明日」と老人に告げ、この家を後にした。玄関前の道路から見てこの家の右隣には一軒家(この辺りではここだけ空き家だ)、さらに右隣にも一軒家、またさらに右隣には理髪店があった。左隣には小さいアパート、さらに左隣には学習塾があった。要は割に(言葉は悪いが)ごみごみした地区で、しかし地価は低かった。

 青年はしばらくして老人の家の屋根に目を向けた。確かにそこには古い風見鶏がついており、これまた老人が言っていた通り、風がごく弱いため微動だにしていなかった。比較的暖かい春のことだった。


 最終日が訪れた。青年にとって残りの作業は引越し先の家に荷物が入った段ボールを運ぶだけだ。

「ところで、トラックはどちらです?」と青年は尋ねた。

「トラックなんか使わんよ。引っ越し先はここだ」と老人は言い、今まで住んでいた家の右隣にある一軒家を指差した。

「ええ? 右隣に引っ越すんですか?」と青年は驚いた。

「そうだよ。この日を楽しみにしておった」と老人はしみじみと答えた。

「外観はそこまで変化しているように見えませんが……。あ、内装が特別に綺麗だったり機能的だったりするんですか?」と青年はどこか失礼かもしれないなと思いつつも我慢できずにまた尋ねた。老人は答えた。

「いいや、どっこいどっこいだな」

「それでは、これまでの家では夜な夜な幽霊が出るとか?」

「ワシはオカルトは信じんよ」

「……差し支えなければ引っ越す理由をお教えいただいてもよろしいですか?」

「さして意味なんてないのう。そりゃあ、多少の気分転換にはなるかもしれんがね。言ったろう、ワシは無意味と有意味の間が好きなんだ」

 青年は唖然とした。老人は続けた。

「風見鶏を手放すのは惜しいが、新しい家には前よりちょいと立派な地下室がついておる。。そしてそこに至る階段に意味があるのかないのか考えながらその階段を眺め、コニャックが入ったグラスを傾けるんだ。日用品が片付いたら君も招待しよう」

 久方ぶりに強めの風が吹いて風見鶏が軋みながら動いた。そのキィという音はあたかも別れを惜しむ鳴き声かのようだった。

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