青登に近いと言っても本当に青登に行くわけではないので馬でなくとも三ノ者なら歩いて富朱の宮廷に帰ることができる! という理由から王に会うのは少し先になりそうだった。
「疲れた……」
宮廷に着いた頃には日が昇り切り、人は皆、働いていた。
へばっているシファとは違い、涼しい顔でハリョンは言う。
「さて、お前は後宮だな」
え? と思った。
「何故です? 大事な話をするのに!」
「こんな真昼間から出来る話ではないことは分かっているだろう。それに王が一人になれるのは夜だけだ。それまで待て」
「じゃあ、行って来ます……」
渋々と言った感じでシファはまた歩き出した。
その場に残ったハリョンに隠れていたカゲが姿を現さずに言う。
「青登の三ノ者がこちらに向かっています」
「エランか?」
「はい」
「また何の用で?」
「水の問題かと」
「……早かったな。まあ、シドンが来ない辺り、動いていると思ったが、やはり、そうだったか」
カゲは気配を完全に消した。またエランの様子を見に行ったのだろう。この宮廷内にあのカゲの男と同じように動く者は何人かいる。けれど、今、シファにはそれが付いていない。後宮にも一人、女のカゲが潜んでいるが、何があったかだけを見るだけでどうにかしようという気はない。その命令をしたのは自分で、あのチョム・チャンソンの本の余白にシファに言ったことも含めて書き出したのは自分だ。
全てはこうなるように回っていたのか。
チョム・チャンソンのような不思議な力があったなら、何かしらを得られていたのだろうか。
あの『止花』と王に名付けられた三ノ者の少女がその王の心を晴らす時は本当にやって来るのだろうか。
これは大きな賭けだ。だから言った。全てを知って、彼女がこの富朱の一人として、三ノ者として役割を果たせるように。
自分もその役割を果たす時が来たようだ。何故、自分が文官ではなく、三ノ者として生きることになったのか。それは父のせいかもしれない。けれど、この隠された部分を知っても尚、普通に生きられるのは自分しかいない。
兄には出来ないだろう。
ずっと悩んでしまって全うできるはずがない。
こんな事をして報われる時があるだろうか。そんなのは考えても仕方ないことなのに。人の目を気にしていては何もできない。
図々しく生きなくては、自分が死んでしまう。
生きながらに息ができなくて苦しくなるのはもう嫌だ。
シファがあの朱い蓮の提灯を持つおじさんの畑で触っていた土、あれは文官になっていたらと思う自分の姿のようだった。
潤いを与えられずに干からびて、全てを失っていただろう。
兄に注目を与えたいと思わないこともないけれど。
できれば、いつまでも誰かに見ていてほしい。
忘れられたくはない。
ナギョンのように、遠く離れた妹を思い、そんな妹を今も思う提灯を探し出し、過去とさようならなんてあまりに綺麗事過ぎて自分には向いていない。
渋々顔になっていたシファを思い出す。
彼女はきっと自分のせいで嫌な思いをしているのだろう。
その話は聞いている。
けれど、それは一時だと信じている。
彼女が自分の力で何とかすれば、全てが大きく変わる。
それは自分もそうで。
「ハリョン様、青登の宮廷内外の三ノ者がお着きになりました」
「分かった」
自分ができることを今もしよう。
まずはそんな姿を思い出させる土をなくせるような策を、王に――。
ハリョンもシファと同じようにその場に留まることなく歩き出す。
上手く行く保証なんてなくとも自分が動かなければ変わることはないのだから。
後宮へと行く途中、王の側近と歩くハリョン、そしてエランをシファは見つけてしまった。
「エ!? エランさん?!」
びっくりという声は大きく響いてしまった。
「ああ……シファちゃん」
とエランは歩みを止めて動じずに言う。
ハリョンはこんな所でそんな大声とは何だ? というような目でシファを見た。
「どうしてここに?」
「ああ……今からね、ちょっくら、あなたの王様に会って来る所なの」
絶対、富朱の王を前にしたらこんな軽口は済まされないはずだから、ここだけの事なんだろうけど。
「そうですか……」
それはつまり、自分が王に会う時間が遅くなることを意味する。
「では、前を歩く者に付いて行ってください。俺は後で向かいますから」
「そうですか、それはご親切にどうも」
とエランはどことなく不自然な感じで行ってしまった。
「ハリョン様」
「おめかしは万端だな。王に会う時は普通でいろよ」
「それを言いたくて、わざわざここに残られたのですか?」
「違う。少し心配でな」
「誰がです?」
「お前だ」
「私?!」
きょとんとシファはハリョンを見つめ返す。
「言われているんじゃないか?」
「何をです?」
「なら、良い。俺は行く」
「いや、待ってください! ハリョン様!」
「何だ?」
歩きかけた足を止めてハリョンはシファの言葉を少し待つ。
「何故、エランさんが王に会わなくちゃならないんです?」
「それは……お前も感じているだろう。雨がまったく降らないことが関係している」
「水の問題ですか……」
「そうだ。青登に水問題を出して食い付かないわけがないだろう? あの問題の犠牲になっても良いと言った彼らだ。きっとまた手を貸してくれるさ。そうして富朱からおこぼれをもらって行くんだ。豊かなのは富朱の方だから」
「それは土地として、ですか?」
「そうだな。向こうは冬になると何もなくなる。年がら年中、飢えている者も多い。信白の方が冬は厳しいが、あの者達には
そんな話は良いとシファは言う。
「どうしても今、話さなければなりませんか?」
「ああ。お前の話よりも大事だ。だが、そうだな……飽き飽きしているさ。お前がいつもより化粧を濃くするように、慎重になるのも分かる。棠妃様だろ? 王に相手にされないと、つまらないとよく耳にする」
「それなら!」
「だがな、俺は生憎、行けないんだよ。男だからな、お前が行くしかないんだ」
「分かっています。その事は。ただ耐えられないのはあの目線なのです。強く私を睨みつけて……」
「痛みを与えていると? それだけ辛いんだろう。王にその気がないから」
それを変えるんだろ? とハリョンは悩み出しそうなシファの顔を目だけで見て言って来る。
そうですが……とシファも目だけでハリョンと会話をする。
一方は渋い顔のままなのだから。
「ハリョン様はこれからそちらに行かれてどうするのです?」
「王とエランの話し合いに参加する。それが青登から申し出たことにしてもらっている責任だしな」
「え? では、その話し合いはどのくらいで終わるのでしょうか?」
「分からない。だから、お前は後宮に行き、溜まってる仕事の片付けと仕事場の掃除をするしかないんだよ。あとは急な仕事を頑張るしか」
「終わったら、絶対知らせてくださいね?! 私、すぐに行きますから! やっと言える時が来たのです。私、いっぱい喋りたいので!」
「分かったよ。それでシファの後ろでナギョン様は何をされているのですか? すすっと通ってしまえば良いじゃないですか?」
「いや、興味深い話を聞いたと思ってな。ハリョン、オレはその三ノ者の話を聞いてくれるように頼みに来たんだが、王に言っといてくれ。そうすれば、オレは王に会わずにその分、ちゃんと遊べる」
「遊ぶって……。分かりましたよ、それはお伝えしましょう。じゃあ、後は頼んだぞ」
そう言ってハリョンは足早に王の待つ方へと行った。
残ったシファはナギョンを見る。
ずっと自分の後ろで何をしていたのだろう。ただ立って待っていただけだろうか。
「ナギョン様」
「何だ?」
「女の子を泣かせちゃダメですよ?」
「は?」
ナギョンがそんなことをしないのは想像が付く。だが、言わずにはいられなかった。
そういう女性を多く知っている。
これから向かう所に居る人達がそう。
「仙人様のお遊びじゃないんですからね!」
とますますナギョンに意味不明だとばかりのハァ? をもらい、シファは王の弟でさえも入れない後宮へと逃げた。
「いやぁー良かった。化粧をしているんだな、見せてみろ! とか言われたら、私、絶対従ってた! ハリョン様より耐えられない!」
そんな事を口走ってしまってから気付く。
ここは後宮だった。
誰かが見ているやも……なんていう懸念はその通りで。
「フンッ!」
といろんな人を引き連れてぞろぞろ歩く棠妃様に見られてしまった。
とても居た堪れない。
あの目は完全に怒っていた。口には言わなかったけれど、その心はとても不愉快に違いない。
けれど、シファにはそうさせる原因が皆目見当が付かない。
「ハリョン様と一緒に居るからじゃないよね? だって、私、ハリョン様の部下だし、いるの当たり前だし、そんなの見られるわけもないのに……」
とシファは考え込む。
後宮から外に出るのは容易ではない。
ハリョンとシファが一緒に居るのは仕事場ぐらいなもので、それを見たとすると誰かが棠妃様にこうでしたよ……と言ったことになる。
ああ、余計な事をしたのは誰か……とシファがますます悩んでいると。
「ここに居たのですか!?」
と男でも宦官なら入れる後宮でシファはユーエンに見つかってしまった。
「今度はユーエン?」
「違います。華妃様があなたをお呼びです。さあ、行ってください!」
とシファは言われるがままに華妃様の所へと出向いた。
何のご用かと伺えば華妃は言う。
「お前は王をどう思う?」
え? そんなことを急に言われても困るだけだ。
「特には……」
と、それ以外の答えがないのを見ると。
「そうか……」
と華妃も悲しいのか嬉しいのか分からない調子の声を出す。
何故、そんなことを訊くのか聞いても良いのだろうかとシファは言う。
「どうされました? 三ノ者にそんなことを聞くなんて」
「分かっておる。馬鹿馬鹿しいのも承知の上だ。お前が王に対し、そう思っていないのは明らかだったのに。何なら、ハリョンの方が良いとさえ見えた」
「ウェッ!? そんなことは絶対ありえません!」
「じゃがな……」
華妃様と無駄な恋愛話をしてしまったことに慌て、シファは度肝を抜かれた。
「何故、そうなったのか分かりませんが、王が私を気に入っている理由は他にあります。女としてではありませんよ」
「じゃがな……」
華妃は言葉多く語りはしないが、疑っているようだった。
むしろ、ハリョンと王の関係を疑う方が自然なのではないか? というほど、シファは王と面識がない。
あの新任賦与式しか会っていないのに。
他に何か噂でもあるのだろうか。
「王様が何か、私のことを言っていたんですか?」
「いいや、女の勘というやつだ。先ほど、来られてな。桃の花はまだかと。時期にしては早すぎるだろう? そうすると他に桃と言えば、お前しかいないのだ。桃の花をもらったのはお前だけだから」
という理由。
それはそちらの方に行く方が困難なのではないかというほど、微かで。
「桃の花が見たい気分だったのでしょう。桃は元気をくれますから。薬にもなるくらいですから!」
とシファは言う。
「心配には及びません! 私はこれから華妃様の悩みを全て払って来ますので、ご安心ください!」
と大見得を切った。
安心したという顔はしなかったが華妃はシファに少しの光明を得たようだった。
他の方の悩みはないか聞いて回り、後宮を出れば日が暮れていて、ハリョンはまだ仕事場には戻っていなかった。
つまりまだ話し合っているのかもしれない。水の問題について。
なら、掃除でもするかと山積みになっている紙を一枚一枚丁寧に仕分けし、シファは時間を潰す。
自分が提灯を調べている間、ハリョンはせっせとシファの分の仕事もしていたらしい。
感服だ。
そうこうしているうちにハリョンが戻って来た。
「どうですか! ハリョン様! ピカピカでしょう!」
「何をやっているんだ。王様がお待ちかねだ」
「少しくらい褒めてくれても良いのに」
「それは終わってからにしろ」
「え?」
「お前はまだやることがあるだろう。忘れたのか?」
「忘れてはいませんが、その時にならないと出ない言葉もあります」
「いけしゃあしゃあと言えるのだから問題はないな、行くぞ」
「はい……」
急にシファは元気がなくなった。いや、緊張して来た。
この時が来てしまった。
誰もが思い描く大団円にできるだろうか、自分が。
「緊張はするな。俺にさっき言ったみたいにいけしゃあしゃあと言えば良い。それをお前は許されている」
「はい……」
「お前は三ノ者だ。だったら、どんな問題も解決しなければな」
「はい」
自信はそんなにない。
けれど、うじうじしていても終わりそうにない。
「ハリョン様は居てくれますよね?」
「ああ、さっきエランは帰ったよ。夜遅くまでかかってやっと王は折れた。今度はお前の粘り勝ちの番だろ?」
「はい、そうですね」
と微笑してしまった。
まったく、この上司は……ここで言う言葉ではなかったけれど、普段らしいハリョンにシファは安心してしまった。
そうしたら急に緊張もなくなり、ハリョンに啖呵を切った時みたいな気持ちになった。
「やれますよね、私」
「そう思えばやれるさ。やらなければならない、それが三ノ者だ」
「ハイ!」
同じ言葉なのに違う風に聞こえるのは思いが違うからだ。
ハリョンのように上手くやれるだろうか、そんな不安を抱きつつもシファはハリョンの後を歩く。
着いたのは新任賦与式が行われた場所だった。
王しかいない。
口を開けば始まってしまう。もう逃げられない究極の時間が。