ナギョンは言うだけ言って帰ってしまった。
「お一人で大丈夫でしょうか?」
心配するシファに残ったハリョンは言う。
「大丈夫だ、あの方にはカゲが付いているから。それも信頼する自分のカゲがな」
「やっぱり……」
あの服の色で一人出歩くなんて変だと思ったのだ。
そういう方ではない、ナギョン様は。
何かあったら困る方だ。
「だから、詳しく言わなかったのですか?」
何の事だとハリョンは言わなかった。
「お前は気付いていたのか? カゲが居ては困る話をしていると」
「ええ! と言いたい所ですが、ここにもまだ居るかもしれませんよね。見えてないだけで」
「大丈夫だ、それはない。王がお前を自由にとおっしゃったからな。カゲは置いて来た。それでないと出来ない話もある」
それこそが答え。
「ハリョン様、では、ここにはもうカゲはいないのですね? どこを探しても、出て来い! と叫んでも」
「ああ、いない。見張りのカゲすらもいないだろう。居たら、困る」
そんな話をしてくれる為にハリョンは残ったのではないだろう。
「私が王に言うと言った時、ハリョン様は良いも悪いも言いませんでした。それは何故ですか? いつもなら言うなとおっしゃるはずなのに」
「言ってほしかったのか?」
質問で返されてしまった。
「……私は正しいことを、王様に言えるでしょうか」
そんな願いもハリョンはうんと頷かない。
「ハリョン様、私はどうしたらハリョン様の
「晴らす?」
馬鹿らしいというようにハリョンは言った。
「王様に歯向かう気はないので」
「当たり前だろ、お前が晴らすべきは俺の心なんかじゃない。王の心だ。お前はもう行け」
「行きません!」
強い言葉にシファは強く言い返した。
「ハリョン様の御心は迷われている。だから、何も言わないのです。そんなにカゲが大事ですか?」
「お前は知らないのか? そんなに分かった分かったと言われながら、お前はまだ気付けないのか?」
ハリョンの顔は暗がりに慣れて来たせいか分かるような気がした。
悲痛。
「どうして、お前の母親が『誰も知らない事件』と言ったか考えたりはしなかったのか? 何人の子がなくなったのか、お前は知っているんだろう?」
悲痛の声はでかくなる。
「調べたんじゃないのか? お前の隣村に住むソクユルという男の一人息子、アンピョ。お前が連れ去られそうになった時にはもう五年も家に戻って来てなかった。役所が動かなかった原因は? お前は初めから知っているはずだったんだ。何故、母親に聞かなかった? 答えてくれたんじゃないのか? 思い出させたくなかったというのは理由にはならない」
「……聞こうとは思いました。だけど、今、起こっているのはそこではない。それに訊く前に聞いてしまったんです。お役所に頼んだのに何の音沙汰もなしで、そのままだったって。母も言っていました。アンピョだけじゃない、他の村の子達も数人行方不明のまま。どこに行ったんでしょうか?」
それにハリョンは答えなかった。
「誰も知らない事件と言うのは、連れ去りに遇った村に過ごしているかいないかの違いです。きっと不問に付すことになっていたのでしょう、役所も。だから、富朱の極一部の村人達しか知らずにいたのです。それで良いと、巻き込まれた家族はもう諦めるしかないってことも知っていました。けれども、諦めの悪い人達もいます。そんな人には捜している最中だと言ってやり過ごしています。だから、人は言うのです。あの子がもう戻って来ないって言うんなら、せめて、あの子がどこかで生きてるって思い続けたいって。それが親ってもんだろ? って。悲しみを分かち合う為に抱き合い、声を殺して一晩中泣き続け、それでおしまい。翌日からはその子が居た頃と何等変わらない暮らしをするように心掛け、続きはどうなっているのです?」
厳しい問い詰めにハリョンは口を開いた。
「それだけ分かっているのなら、分かるだろう。お前が嫌っているように今の王だって嫌っている」
「カゲは、そういう所から連れて来た人達なんですね?」
とても言ってはいけない事なのに、シファは言ってしまった。
慎重におもむろに足を踏み入れてしまった。
ドロドロの泥の中を掻き分けなければいけないかもしれない。
それでも正しい事が知りたかった。
「いつから始まっているのです?」
先代の王の時代からと言うのだろう。
「影色の男達はやっぱり、連れ去ることをしていたのは『カゲ』だと言うのですよね?」
シファの猛攻をハリョンはかわさなかった。
「ああ、そうだ。だが、今、起こっている事はそれに当てはまらない。お前は分かっていながら、分からないと言った。それは何故だ? 怖かったからか? 真実を言うのが怖いと」
「それはハリョン様の方ではないのですか? 棠妃様の件ではあまりに不憫でした。それは何故です? 傷つけない為ですか。私が言わなかったのは確証がなかったからです。気付けても否定をされたら終わりです。ハリョン様は言いました。この富朱に来たら、私を守れないと。死を恐れてはいませんが、死んでしまっては元も子もない。私はそれを覚えています」
「そうだとしたら、俺にどんな理由がある。王の女となった彼女に悪評が立たないようにするしかないだろう。不義は一番してはならない事だ」
「それは女だからです」
「男だったらしても良いと? 馬鹿な事を言うな。その原因こそが今に繋がっているのではないか。カゲと不義をしたと思うなよ。それは大いに間違っている。そこまで美朱様は落ちぶれてはいないさ。きっと若い、自分と同じくらいの文官でも相手にさせたのだろう。一人は居たからな。俺の叔父の知り合いがそうだったと記憶している」
「それでは! 美朱様が不義を起こした原因はカゲにあり、どうしてそうなったかも教えて下さい!」
強気の発言にハリョンは一瞬言うものか! という顔をしたが、もう良いか……という顔も同時にして言った。
「お前は覚悟が決まったか」
「はい」
何の覚悟だとしても聞けるなら良いとシファは言う。
「あとはハリョン様の覚悟次第ではありませんか?」
「桃の花とは王も考えたな。天下無敵の好奇心というやつか」
「皮肉を聞きたくはありません」
「どこから聞きたい?」
この心を汚すことなく聞くにはどこが良いかシファは考える。
「順を追ってお願いします」
それが一番とシファは答えを出した。
「カゲが居なければ良かったのにと思ったのは、何もお前だけじゃないさ。俺だってそう、皆そうだ」
「でも、あるのは何故ですか?」
「王が決めた事だ。逆らえないだろ、誰も」
一番偉い奴が決めたんだから……と諦めのようなことを軽く言われた。それが嫌だった。
「それでもいけないことはいけないと言ってあげないといけませんよね?」
「ああ、でも、それを言う奴はいなかった。王の周りには、その美朱様の不義しか残らなかった。不義こそが抵抗で、それを
「それは……」
「子を持つ母だったからだ。美朱様ぐらいになれば、どうなっているかが解った。王の愚痴も聞いていただろう。まあ、先代王の心変わりは、お前もご存知の通りだよ」
とハリョンはシファが読んでいた物も知っているらしい。
「どこで……あっ!」
ユーエンに借りた二つの物とナギョン様がさっき言っていた話。
「でも、それには美朱様以後、先代王は衰えたと」
「どんな本だ? その本は」
訝しげにハリョンがシファを見た。
「いえ、ユーエンからのでは、です」
言ってしまってから気付く。自分は今、とんでもない事を言ったのではないか? 顔が赤くなっているのが知られずに済んで良かったと内心ほっとしているとハリョンは言った。
「性を欲しなくなるのはそれだけ愛されていたからだろう。きっと一番だった。だから、お抱きにならなかったのだよ。悲しい事をしていると王も気付かれていた。だから、逃げ道に他の女に走った」
「最低です」
「それでも、それをするだけの事だった」
雲が動いて、星々が見えて来た。
白い点と点が繋がって一つの星座にする。それはこの話と一緒。
もう少ししたら月が見えてしまうかもしれない。
それはもっと明るみにするのだろう。
「何故、話す気になったのですか?」
今頃……とハリョンは話の腰を折られても動じはしなかった。
「それは……この暗闇を見ていたら言いたくなって来たからだ。今は晴れたか」
そう言ってハリョンが頭上の空を見、シファの顔を横目で見た。
その横顔から次は何の話が出て来るかとシファは心待ちにした。
「お前は以前、気兼ねなく『カゲ色』と言ったが、そのカゲが影ではないと知っているか?」
「いいえ」
素直だな……とハリョンはさらにシファを見る。
「黒と呼べば良いものをそう呼ばない理由。三ノ者の養成所では何と教えられる? カゲは」
「三ノ者を陰ながら助ける者達のことを言うと」
「そう、その『陰ながら』をもじって『カゲ』と言っている。誰だったかは全身黒い服を着た者達の服の色から連想したのだろうが」
「そうではありませんよ!」
「お前だったか……」
「忘れていたのに!」
思い出させてしまったらしい。完全に恥ずかしくなって来た。
もう暗闇だからと何も見えないわけではない。シファが周りを見渡せるようにハリョンはとっくに見えているはずだった。その目でシファがどこでどんな風にして居るかも分かっている。
「黒は影、影は陰。そんな言葉はこの世にないけれど」
な!? どこかで習ったか、そんなの……と思い出そうとしていたシファの息が少し止まって、また動き出した。
「そう呼ばせているのはこちらの方だ」
「何故? 黒? そういえば、それを不思議に思いませんでした」
「そうだ。人は疑いなく、それをカゲ色と言う。憐れんでその色を見る度に思い出すからだ」
「誰がですか?」
「俺達、三ノ者が特にな。まあ、普通は知らないようにして三ノ者となり、カゲを使うようになってから知るんだがな」
「エ?」
それ以上の言葉が出て来ない。
「カゲを使えるのは限られている。宮廷内外関係なく三ノ者が多く使い、次に王となっているが、今の王は嫌っている。その代わりにナギョン様が使われている。そして貴族。お前のように三ノ者になることもない平民は誰とて使わない。命令に背くことなく実行し、何も知らない年端もいかない子供達は無作為に性別関係なく集められ、牢に入れられ、逃げることを許さず、それ以上の心を育てさせずに従順になるようにだけ、使い勝手の良いものにする。そんなのをお前よりも若い者に教えるのは酷だろう? その事実を誰も言わない。知る必要のない事だからだ。言ったら最期だしな」
それは全てだろうか、簡潔に言ってないか。それでもこれは。
「ひどい。ひどいです! それ!」
「だから、今の王はそれを止めさせた。お前のように知ってしまってからな。青登にあったあの燃やした部分、それにはこの事が一から書かれていた。忘れてはいけない事だから」
「一から?」
「ああ、どうしてそうなったのかっていう理由だよ」
知りたい……とシファは思ってはいけないことを思ってしまった。
それを知っても良いことはないとハリョンの顔は言っているのに。
「今の王は心優しい人だった。それなのにだ。終わっていない。それに関係ないのに人が子を連れ去っている」
「どうして……」
「その理由を知りたくて王は俺と度々、外に出ていた」
「そうではありません! 何で、ハリョン様はずっと黙ってらっしゃったのですか!? 大事な事ではありませんか!」
「そんなに取り乱すな。だから言っただろう? 覚悟が決まったか? と」
「そんな……そこまでの覚悟なんて」
「ないと? それで聞けば、この事態。話は終わりだな」
「いいえ、終わりではありません。私が納得していません! その一からというのを聞かせてください!」
「呆れた。ひどいと言いながら言わせるのか?」
「そう言うハリョン様だって、言ったら最期と言いながら私に聞かせてくれています。ハリョン様こそ、最期なのでは?」
「それはお前が言わなきゃ良いだけの話だろ。だから、言ったんだ。ずっとこの一番暴いてはならないこの国の秘密を胸に秘め生きることができるかと」
「そうは言っていませんでした」
「じゃあ、何て聞こえていたんだ。答えを教えてやろう、簡単にって?」
「そうではありませんが……」
二の句が継げぬような順を追っての話し方ではないのか……。
「一から! 事の発端から! お願いしますッ! ハリョン様!」
とシファは食い下がった。
「じゃあ、一生俺の部下として生きる覚悟があるか?」
聞き直しをされた。
「わ……、分かりました! 天下無敵の好奇心とはちぐはぐな気がしますが、私としてはもう聞かずにはいられません! 全てをさらけ出し、一緒にすっきりしましょう!」
そんな大見得はハリョンに通ずることなかれ。
「ハッ!」
鼻で大いに笑われた。
「バカバカしいが、俺にとって部下は必要不可欠だ。俺にお前以外の部下がいなくて良かったな!」
と嫌みを言われつつ、シファは苦虫を嚙み潰したような顔でハリョンの語る過去を聞き入ることにした。
本当の全てはそこから始まる。