夜遅く、歩いて歩いて辿り着いた所にあったのは一つの明かり。
それもナクヒさんが着ていた服と同じような色で、あのおじさんが言っていた通りだった。
たまたまだったにしろ、本当にそれは薄紫色でどこか悲しそうな色をしていた。
まるで隣に居るこの王の血を継ぐもう一人の者の目と同じように切ない。
「あった……だろ? ハリョン」
そうナギョンは静かに呟いた。
「長いこと、お探しになっていたのですか?」
「いいや……。お前があの小屋に閉じ込められた時ぐらいからだ」
「ああ……そのついでにということですか」
シファには分からない会話が続いたかと思うとナギョンが話したそうにシファを見た。
「オレの話を少しは聞くか?」
「え?」
「そういう約束だったろ。それとももう良いか? 解ってしまったから」
「いいえ! 聞きたいです! 是非!」
「でも、ここではやめておいた方が良いでしょう。ここは人の家の前です」
「そうだな」
どこまで話す気なのか、ハリョンはもう分かっているのだろうか。
「おや……ここで何をなさっている?」
いきなりの老婆の声に三人ともビクッと体が少し動くくらいにはびっくりした。
「そんなに驚くことでもないだろう。ここはワシの家じゃ……。ああ、あーた様はちょっとは良い男だねぇ」
と老婆に言われてもナギョンは全然笑顔になれなかった。
「あなたは?」
「ああ、ずっとここに住んでるよ。青登に少しだけ行ったこともある。でもね、青登にはずっと居られなかった。だから、こうして思いだけでもその提灯に込めているのさ。別れちまったものに対しても……ね」
と老婆は言って、家の中に入ってしまった。
「あれが、オレの母が世話になった乳母だったとかだったら、笑えるな」
「その可能性はありますね」
「え?」
ハリョンの言葉にシファは耳を疑った。
「その提灯が答えです。自分で描いたのでしょう。下手なりに朱い蓮が一つに大きさの違う赤い魚が二つ。波紋はたくさん、この隅の方にある花の絵は何だか分かりませんが、道端に咲いていた花でしょうか……」
「それが答えか」
「きっと――そうなんですよ」
「じゃあ、あの老婆が知ってるやつだったか……」
それを咎めることをナギョンはしなかった。
何故、そうしないのか。
「それをも含めて答えてください」
「分かったよ。そんなギラギラの目で見るな、嬢ちゃん」
「嬢ちゃん?!」
「シファ、声を荒げるな。うるさいぞ」
「まあ、それで怒って出て来た老婆にまた話を聞くのも良いかもしれないが、もう分かったしな……」
「何が?」
ちんぷんかんぷんなシファを見るとナギョンは笑った。
「どこに行こうか、大事な話が出来る所を頼む」
とナギョンはハリョンに気軽に言い、ハリョンを少し困らせた。
*
ハリョンが案内したのはそこから近い森の中にある彼岸花が咲き乱れることで有名な所だった。
だけど今年は夏から雨はあまり降っておらず、花もぽつり、ぽつりとしか咲いていない。
「静かで良いな、暗い所に咲く花か……」
きっと花は咲いていないのにそんなことを言うナギョンにシファは訊いた。
「あの、ナギョン様? どうしてそんなことが言えるのです?」
「ん? 何故って今からオレが話すからさ。まあ、少しだけど」
「闇を咲かせると……」
ハリョンは重い口を開く。
「ああ、そうだ。ハリョン、お前もその方がすーっとして気分が良いだろう? 早く、気楽になりたいはずだ。オレの許嫁すらも奪った兄上の考えを早くなくしてやろう」
え? 今、この方は何ておっしゃった? 兄上が? それって。
ナギョン様! と強くハリョンは言いはしなかったが。
「それは……そこまではシファは聞いておりません」
ときっぱり言った。まるで知られてしまうのを恐れるように。
「もう良いだろ、華妃がオレのものだったと。この嬢ちゃんに言ったって」
「え?」
「聞いたことはないのか? オレが華妃の夫になるはずだったと」
「え? 聞いておりません! そんなこと――」
いや、待って。聞いたかもしれない。
ちらっと華妃様は『そうやって選ばれたわけではない』とおっしゃっていなかったか。
「じゃあ、二回目?」
棠妃様の時と合わせて。
「それで過去が変わりますか?」
とハリョンは言う。
「変わらんな。何も変わらない。この話だって、何も」
無常にも過ぎてしまった時間が戻りはしないとナギョンも知っているのにそれを言って願うのは何か意味があるからなのか。
「だけど、言いたいんだ。全てを終わらせよう」
それはとても優しい真実でありながら、来てほしくない瞬間だった。
「全ては先代の王の時代。オレの父から始まっている――」
ナギョンは涙も見せずに堂々と告げた。
その悲しき思い出を思い出しながら、目の前に居る宮廷の三ノ者の一人、シファが聞いて来たことだけを答える為に。
「お前は言ったな、ナクヒをどう思うかと。それは可愛いと思っているさ。一人しかいない同じ母から生まれた
とハリョンにもナギョンは話す。
「さっき、その答えも知った」
え? とシファは目を丸くする。
そして、顔色なんてよく分からないハリョンを見る。
明かりが欲しい。
そう思ったのは何度目だろう。
「知っているか? 先代の王が『我の花は色を変え、散った。それを悲しいとは思わぬ。また咲き誇る花の為、我は行く』と言った。それはオレの母上のことを言っている。それこそが母上の不義を示している。そして、死へと繋がる行為だ」
「楽しく過ごしていた――というのも、それを……」
「そうだ。何故、それで美朱様が命を落とさなければならないのですか!? と泣き叫んではくれぬか」
「はい、それは誰もが知り
「そうだな。この国では正妻の子にしか王の一字を与えられない。そして、その長兄から順に次期王となることが決められている。それも男子のみだ。笑えるよな! もし、他に与えるならば、その正妻の男子が全て居なくなった場合だ。だから、先代の王に男子が一人しかいなかったから、母上は父上に選ばれたんだ。そして、深く愛し合っていた。それはそうだろう、やっと自分で選べた人なのだから」
それはあまりにも必死で、王の血を継ぐ者、いや、貴族でさえも、もしかしたら、民でさえも選べない権利なのではないかとシファは思う。
我が親にしか選べない権利。
「それで生まれたのがオレだ。焦っただろうな、兄上の母上は。こんな事があってたまるかと、それでもオレが消されなかったのは父上の母上が消すことを良しとしなかったから。可愛がってくれた。親の何倍も。誰もが必死だった。あの四つの国の前の最後の王のようにはなりたくないと。そして、オレの人生の中で一番悲しい出来事が起こった。何が起こったかなんて、誰も分からない。けれど、母上は分かっていた。父上が行った事は母上がした事を上回る。王だから許せと、言えるか?」
ナギョンはシファではなく、居ても居なくても同じようなハリョンに問う。
「兄上は全てを知って、怖がって、オレの女となる者さえも奪ったのだよ」
「それは違います」
はっきりとハリョンは訂正した。
「何故、そう言える?」
「王は、今の王は、あなたに力を与えたくはない。それは正しい。あなたが王になれば、どうなるか誰もあなたさえも分からないでしょう? あれは起こるべきではなかった」
「それでも、母上は、道端に咲いているような花を愛する人ではなかったのに、そうした」
「それが答え?」
一つ目の。
「母上は何故、名も無き花に手を伸ばした? 兄上は何故、華妃を手に入れた?」
「それは棠妃様と同じ理由でしょう。あの方もそうだと聞いております」
だから、手に入れた……月の物が不安定な者ばかり……。
「優しさか? オレに子ができないのを悩ませない為か?」
そうですよ! とはハリョンは言いはしない。
「定められた事を覆すのは愚かだ。それを覆そうとするのは大馬鹿だ」
だけど、それを私達はしようとしている……。
「死を選択するしかない行動をするのはそれだけの愛があったと言えるか?」
「……」
「オレはそうは思わない。けれど、
ハリョンが何故、ここを選んだのか分かったような気がする。
この方の笑顔を見せないようにする為。
明かりがなければ、人はどんな表情なのか分かりはしない。
悔しいのか、怒りなのか、本当に愚かだと笑っているのか、泣いているのか。その人の奥底に眠る本質がどこなのか、本人さえも自覚していない所で出てしまうもの。
そんなに隠す必要があるのか。
「本人の行動が正しいとか正しくないとか……そんなの客観的な周りの人の価値観ではないですか。流されなかっただけ。流されたとしても巻き込まれただけ」
「そうだ、それが結果だ。そして、父上は母上と同じく愚かな事を下した。聞く耳を持たなければ、こうはなりはしなかった」
「……それは……つまり」
周りに居た……ということ。
「一人の意見で全てが回るわけではない。だが、王にはその力がある。全てを変えてしまうだけの」
それは、それを被った側だから言えるのだろうか。
「死に方については聞いていなかったな?」
「はい……美朱様の、ですよね?」
「ああ……母上は安らかに眠ったよ。ナクヒを産んですぐ。父上は気付いていたのだろう。その頃はまた違う人を愛していたから」
そんなことまで言わなくて良いのに! というようなハリョンの息遣いが伝わって来た。
「不義をするだけの理由はそこですか?」
何気ないシファの質問にナギョンは一拍置いた。
「そうだと思いたいが、そればかりは死んだ母上に聞かなくてはな……」
明らかに疲れたような感じがした。
「つまり、美朱様のことだけでなく、あのお言葉にはそう言った方達をも含まれているのですね」
そうだ……とはナギョンは言わなかった。
「先代王の子は今の王とオレしかいない。だからこそ、願うのだろう。あなたがダメでもあなたがいると。それが嫌なんだ。しなくてはならない事はそんなことではないだろう?」
シファは答えない。
代わりに言うのは。
「先代王が正しかったことは不義を犯した美朱様をその手で下したことであり、美朱様が正しかったことは……」
何だ? 辻褄が合わない。美朱様は不義しかしてない。でも、それは許されることではない。なのに、何でナギョン様は前に『母上も正しかったと思う』だなんて言ったんだ? 先代の王を継ぐ者を産んだから? ナクヒさんを産んでも良い事はなかったはずなのに!
また……。私はまた、知ってはならないと言われているのだろうか。情報操作に巻き込まれているのではないか。人が子を連れ去るのは何で? 先代王も愚かな事をしたと言った。それはその事なのか。
「人が子を連れ去る……それをさせていたのは――」
先代の王? だから、その時期と合っていて、青登近くの富朱付近の村で起こっていたのはそちらの方に目を欺く為? だったとしたら――今、起こっているのは何が原因。
「全てを終わらせるとおっしゃいましたが、そうするつもりは
シファが核心を突いて来た。
「それは全てではありません!」
「そうだ。言っただろ、少しだと。オレの父上の話をしたのだ。異母兄の話はしない。する必要がオレにはないからな」
この人は自分を中心にして生きている人。
そして、シファが問うた事だけを答えた。
それ以外の事はまだ。
「だから、王に言え。お前の思いを、全て告げて来い」
それで変わるとか、思えないけれど。
シファのきつい思いを見透かしたようにナギョンはシファの顔を見て言った。
「お前は『三ノ者』なんだろ。だったら、その口から出る言葉で王の心を変えてやれ!」
「は、はいっ!」
思わず、口に出していた。
これは三ノ者としての自覚からか。
「王は聞き入れてくださるでしょうか?」
「さあな、だが、オレと違って、あの人は構えているさ。全てを」
ナギョンの言葉はシファの言葉を受け流しはしなかった。
真っ向勝負、ハリョンは何もして来ない。
これはそう言う時なのかもしれない。
「分かりました。王に全てを聞かせてもらいます!」
「ああ、そうしろ」
安請け合いをした。
この男は、先代の王の時と同じように。
悩みはしないか……とハリョンは一人佇んだ。