今日も今日とて、都近くの村でシファは地道にコツコツ、家々を回ったり、道行く人に話を聞こうと考えていると、何だか疲れたようなハリョンが仕事場に現れ、こちらをちらっと見て来た。
「何ですか?」
「いや、この仕事場にちゃんと来てえらいなと思ってな。どうだ、提灯の仕事は、まだかかりそうか?」
「あっ、はい……」
「そうか」
それだけで済まされた。内心はとてもほっとしたが、何だか気が気ではない。
「何かありましたか?」
「いや……そういえば、そこで会ったユーエンからの伝言だ。ソファさん、貸した物を全て返して下さい! だと」
「あ!」
「何だ?」
「ソファではないと、おっしゃってくれました?」
「いいや……」
そこじゃないだろ、気にする所は……とハリョンは目で訴えて来る。
「分かっています……返さないとって。でも、まだ手元に欲しいというか……」
「早く返せ。その記録が必要な仕事はなくなっただろ?」
「そうなのですが……」
「何だ?」
「あ、はい! 分かりました、すぐにでも返して来ます!」
そう言いつつ、シファはさっと筆を取るとそこにあったいらない紙の裏に二文字書いた。
今の速さなら、ハリョンも見ていないはずだ。
「では、返して来ますね」
「ああ……あまり遠くには行くなよ」
「へ? はい……でも、何で?」
「良いから行け」
よく分からないまま、ユーエンから借りていた物二つとその紙を持ち、シファは宮廷内をうろうろし出した。
皆、もう働いている。
それはそうだ、それがここに居る人達の意義。
働かないのはそれをやってもらうのが当たり前の方達だけ。
ハリョン様もその一人か……とシファはあちこちに顔を出してはユーエンはどこか? と訊く前に持って来たいらないその紙の裏を見せて、不意を狙った。
そうしてユーエンの所に行き着く頃には十中八九、統一された読み方を得た。
あとはユーエンだけ!
「では、ユーエンは後宮の方に行ったのですね!?」
「ああ、そうだ」
忙しそうな文官がふてぶてしく言うのだ。信じてみるか。
てくてくと歩いているとユーエンの声が聞こえて来た。
今日も医女、ヘジと一緒に居るらしく、ああだこうだと考えているらしい。
「ユーエン!」
背後から勢い良く声を掛けたシファにユーエンは嫌な物を見るような顔で振り向いた。
「何です? なぎょん?」
作戦成功! これで何人目だろう。もう十分だとシファはその紙を服の中に丸めて突っ込んだ。
「今のはいったい……」
「良いんです、良いんです。忘れてください」
「変な事をしようとしていたのでは?」
「失礼な! 私はその……この記録の中にあった字の読み方について教えてもらおうとしてですね」
「それなら普通に見せて来れば良かったでしょう?」
二の句が継げない。でも、勘付いてしまっては終わりなのだ。
これは極秘裏に行わなければならない。
「そんなことより、良いのですか? これ、欲しいのでしょう?」
「欲しいというか、返してください。この宮廷にある物、全て王様の物です」
「はい……」
怒られた。
ちゃんとユーエンに借りていた物二つを返すとシファはそれ以上の小言を言われる前に宮廷の外へと出た。
もうこれで邪魔をする者はいないと何を調べるべきか思い直して、それがある村へ向かって歩き出した。その間に考える。
あの『楽蓮』とはナギョン様だった。青登で会ったきり、長髪の綺麗な顔をした遊び人だと自分で言っていた人。
たぶん富朱の――。
シファはまたあの提灯を見せてほしいとその貧しい家の者に懇願していた。
「いくら宮廷の三ノ者様でもねー。こう何回もっていうと出したり片付けたりが」
「そこを何とか!」
渋々顔の奥さんに何か差し入れなんかした日にはハリョンに小言を言われるに違いないと出来ずにいて、それでどうにかなるかというとそうでもなく。
こんな時にそのハリョンが居れば、この男好きそうな奥さんも一発であら良い男の願いなら仕方ないわねー! なんて言ってくれるかもしれないのに。
誰か知り合いが通り掛かったりしないだろうか。
「まあ、うちでなくても良いっていうなら、そこの畑やってるおじさんにでも見せてもらいな。うちと確か同じだったよ」
「本当ですか! では! そうさせていただきます」
と言い終わらないうちに家の戸が閉まってしまった。
はあ……落胆などしてる暇はない。
シファはその近くで荒れた地を耕すおじさんに声を掛けた。
「あの提灯……」
「お嬢ちゃん、見せてやる代わりに手伝えるかね?」
「あ、はい! 任せて下さい。こんな荒れた地の畑は初めてですけど」
「そうかぁーいやー助かる。ここんところ日照り続きでよ、雨は降らなんだ。お嬢ちゃん、雨降る方法知ってか?」
「あはは……」
とユーエンが連れて来てやっていたあの儀式の事を思い出してしまった。
「山奥には水があるんですけどね……」
「ああ、それは知ってけどよ。あんな所までは行きたくない。お偉い方と違って、ここには馬も何もない。自分の足と手としか頼るもんはないんだ」
「そうです。自分の生まれ持った体でしか動けません」
そう言ってシファは荒れた地を少しでも耕そうと土に手を触れた。
水分が何もなく、美味しい物が作れないと伝わって来る。
これほどひどいとは。
「おじさん、提灯は良いです。それより畑を耕しましょう」
「いやいや、お嬢ちゃん、それはいけないよ。それじゃあ、約束が違うと皆が言う。皆ね、諦めているんだよ。もう畑は無理だと」
「何故?」
「数十年前、道を新たに作ると言われ、追い出され、やっと落ち着いた地はこんな
「それでも提灯を持ち続けているのは何故です?」
「何故だろうね、金になるとは思えないのに。昔からの宝とは、それぐらいしかないからかねー」
とおじさんはのんきなことを言う。
「耕しましょう」
シファが暗い気持ちになりかけた時、またそのおじさんは言った。
「そうさねー、飽きるほどあの提灯を見たことがあった。あの蓮の花の絵は見事でそれに寄り添うように描かれた小さな赤い金魚二匹に癒されて」
「え?!」
「何だ、どうした? 野菜でも出て来たか?」
「いいえ」
あの渋々顔の奥さんの所の提灯にはほんのり桃色の蓮と小さい金魚一匹しかなかった。
「おじさんはあちらの奥さんと同じ所からここに来たんですか?」
「いいや、あの奥さんはそんなに蓮が有名じゃない所の人だろ?」
「どういうことですか?」
「だから、蓮はその地の事を表していて、その地に根付いた事が提灯に描かれているんだよ」
「え? じゃあ、おじさんはその蓮と金魚どう思って見てたんですか?」
「だから癒しだと。この生まれ育った所が同じ貴族様も大変お美しいと聞く。きっとこの小さい金魚達はそんな彼女の憂いを晴らす為のものだと」
「憂い? おじさんの持っている提灯はどのくらい前の物なんですか?」
「さあ? あ、でもここに来る前、火事があって焼けたんだよな。そういえば……新婚の頃……それからだから十……」
「じゅう?」
「何年前だ?」
「そこをはっきりさせてくださいー!」
ええー? とおじさんが思い出した時には昼ぐらいになっていた。
「そう、だから十と七ぐらい前か?」
「本当ですね?」
「ああ! おっかぁが生きてれば分かったんだけどな」
「それって……」
「ああ、おっかぁは死んだよ。何、オレの奥さんはピンピンしてるよ! 昨日も宵々」
「い、良いです! それは! その話はっ!」
何だ? つまらん……とおじさんは畑仕事を止め、家に帰って行く。
そして戻って来た手には赤い提灯があった。
他の家で見た提灯と同じように先代王の愛した者が花として描かれた……。
「なっ、何でそんなに食い入るように見る? この提灯は同じだろう?」
「いいえ、蓮の色が違います」
それに金魚の数も。
「誰が描かれたんですか?」
「いやー、それは分からない。だって、これは役人が持って来たんだ。ほら、これが代わりの物だ。大事にしろよっと」
おじさんがシファにその提灯を手渡してくれた。
「確か……その金魚は雌雄だと言っていたが、本当かどうかは分からない。見分けがつかないだろう?」
「確かに……」
と言って、シファは一心にそれを見る。
「朱い蓮が美しい。雌雄の確認が出来ない楽しそうな金魚が二匹……ということは子供? だとしたら……。おじさん、おじさんの生まれ育った所では誰かが王の、宮廷の方で活躍したとかありませんか?」
「ああ、あるとも。だから、それがこれだろう。この故郷の誇り。それは長くは続かなかったけれども、こうして残っている。王様はこの蓮のように美しかったその方を愛していたと聞いた」
「でも、長くは続かなかった理由は?」
「さあ? 死んじまったからな。その人も。何があったかは知らないけれども」
「蓮の名を受け継いだ子はいないんですか?」
その質問におじさんは考え込んだ。
「さあ? でも、そうだな。子には親の一字をあげるのが普通だ。探したらいるかもな」
「でも、その人は王の名を入れられなかった。何故なら、その人は王の愛を独り占めにしてはいけない身分だったから」
え、誰? とシファがその真面目な女性の声がした方を見れば、にかっと笑い。
「久しぶりだねー。シファちゃん!」
と余裕で明るい水色の服を着た青登の三ノ者であるあのエランが立っていた。
「覚えてるー?」
「エランさん?!」
「そうそう、遊びに来ちゃったよー。ハリョン様にも会いたかったし!」
と彼女は軽く言い、大胆にもう一度笑って、戸惑っているシファを見た。