勢い良く駆け込んでみれば、誰も居なかった。
「お帰りになれたか……」
トボトボと歩き、自分の席に着いた。
ここの所、すぐに居なくなっている。
どういう訳か。
棠妃様――と頭に過ぎり、ふう……と息を吐くとシファは考え出した。
借りて来た本にその方達の名前があれば良いのだ。
それで説明はつく――。
読み始めてしばらく、これには王の事しか書かれていないと気付いた。
そして、落胆する前に見慣れない名前を発見した。
楽しいと書いて蓮を書く人。
これがその王の事しか書かれていない物だとしたら、そこに出されているこの『楽蓮』とはどんな人物だろう。
月が輝く時、今の王が王になる日に傍らに居たという人物。
つまり、女性ではないだろうと思った時、誰かがこちらに向かって来る音がした。
バタバタと走ってはいないから問題を抱えてはいなさそうだ。
では、通り過ぎる人だろうかと待っていれば、そのような事はなく、入って来たのは渋い顔をしたハリョンだった。
「ハリョン様!」
「何だ?」
「あの、お帰りになられたのではないのですか?」
「ハァ?」
不機嫌な声を出されたが、怯んでる時ではないとシファは言う。
「ここの所、この時間帯になると居りませんから。逃げているのではないかと」
「誰から……棠妃様からか?」
「はい」
「まったく、俺はそんな時間もないほどに忙しい。今度は井戸が涸れそうだと言って来た。それと火が熱くて敵わないとな。それが仕事だろう! と一喝して来たが、これはもう雨乞いではないか?! と騒ぎになりそうだ」
「それは頭を抱える事態……ですが、私もそんな事態の中にいます!」
「は?」
小言を言われる前にシファは言った。
「ハリョン様は楽しいという字に蓮と書く方をご存知ですか?」
「……何を言っている?」
「気になるのです! その人物が王様に関わっていらっしゃる!」
「それはそうだろうな……」
とハリョンはぼそっと言った。
「では! 知ってらっしゃるのですね?!」
「その前に、お前は棠妃様の件をどうするつもりだ? ユーエンから聞いたぞ。何やら分かりそうだと言われ、本を貸してしまったが良かったのだろうかと相談された。それに関係しているか?」
「ぬぬぬ! ユーエンめ!」
「何があったか知らないが、それには関係なさそうだと思える。楽しいに蓮とは女のことではないからな」
「では、男、男性ですね!」
「お前、本当に……漢字を読めないのか?」
「読めますけど……失礼があったらいけない! と思いまして」
「そこまで慎重になるのは良いが。俺はこれ以上は」
ハリョンの口をつぐませてはいけない。
「では、王の弟か妹、知りませんか?」
「王の……」
「
「虚偽をさせると?」
「だとしたら、いるんですね」
「誘導か?」
「忠誠心の駆け引きと言ってください」
「まったく……」
呆れたようにハリョンは自分の席に着いた。
その顔は何を考えているのか読めず、怖ぁ……と思った時には遅過ぎた。
「それは……お前はもう会っているだろ?」
「え? 誰にですか?」
「その方に」
「え……ユーエン?」
「なわけないだろ」
では、誰か……。
考えてもシファには思い付きもしない。
その人は誰だろう。
ハリョンも知っていて、自分も知っている人物。
「手掛かりをください!」
考える前に言っていた。
少しでも長く、その事について知りたくて。
「お前は短絡的だな」
と言って、ハリョンは教えてくれなかった。
もっと自分で考えろと、今度こそ本当に帰ってしまった。
シファはやってしまった! と後悔した。
もっと……となっても手掛かりはもう『楽蓮』という文字しかない。
「な……ぎょ?」
自分の中で知っているその字の読み方をいくつも言ってみた結果だった。
だとしたら、なぎょん。
ナギョン様。
すとんと腑に落ちた。
やっと。
青登で出会ったあの、ナギョン様!
その顔を思い出してみる。
少しでも近付けるなら! と。
だが、出て来たのは何故か男の顔ではなく、女の顔で。
「何で、ナクヒさんが出て来るのー! あの人は青登の三ノ者で、全然関係ないじゃないー!」
と一人騒いでみて、ピタッと止まった。
あれ? あれには何て書いてあった? 確か、こう書かれていた。『女の子を産み、亡くなっている』と――。では、その妹はナクヒさん?!
自分の中で当てはまらないと思っていた物がどんどん繋がって行く時、人は動くことが出来る!
居ても立っても居られない感じでシファは飛び出していた。
真実はもうすぐそこ! 邪魔さえなければ、近付ける。
あの真実にも。
そんな中での出来事だった。
「ハリョン! 何故です?!」
金切り声のような女の人の声。
それは月のない澄んでない夜にも響く。
「ですから、もう俺に関わらない方が良い。あなたは俺より幸せになれます」
「そんな! あなたは知っていたんでしょう?! 私があんまり子供ができない体だって、だから!」
「違いますよ、王が願ったのです。あなたが欲しいと。なら、俺はあなたを手に入れられるようにしなければならない。それが王への忠誠心です」
ひどい言い訳を聞いた。
「そんなっ、そんな!」
悲痛な棠妃の叫びは、一人出歩いたことを周囲に知らせ、大騒動となった。
だが、翌日、棠妃の自分勝手な行動は咎められることがなかった。
それは話を聞いた王がお許しになったから。
側室だからではなく、自分も自分勝手に『ジェヒ』という一人の女性の人生を『棠妃』にすることによって奪ったのだからと言って、全てを済ませてしまった。
「あれで良かったのでしょうか? ハリョン様は少しばかりの休みに入られたというのに」
「それは……まあ、良かったんじゃないか。お前の独り立ちの時が来たんだろ? ほら、こんな山奥にずっと居ないで、あそこに戻れ。三ノ者はお前しかいないのだから」
「えー……、それは仕事押し付ける為にわざとそうしたのですか?」
「違う。帰ろうとした所にひょっこり出て来て驚いている間にああなったんだ。俺のせいじゃない。それに王には俺から言ったんだ。このような事になって申し訳ございませんとな」
もう! となって帰ることにした。
山奥にある誰も住まないような小屋にハリョンは数週間閉じこもることになった。
どうして。
一人しかいない富朱の宮廷は広大のように感じられた。
「ですから、申したでしょう。あなたは棠妃様関係に携わっている時ではないと。雨乞いの準備です!」
何が雨乞いの準備だ! ユーエン! その手は何だ! ハリョン様が居なくなった途端、皆、こうだ。
「ユーエンが手を空に向ければ、雨が降るのですか?」
「降りません。だから、雨乞いが出来る人を連れて来なさいと言っているのです」
「そんなの、ハリョン様しか存じません。私はハリョン様に会って来ましたが、それをやれとは言われていないので、雨乞いの方は他の方に任されては? 確か……実家の近所に占いのできるおばあさんが」
「あなたのご実家の出番はないでしょう。神官です。神官の」
逃げた。
走って逃げた。そんなのごめんだ。
「私には他にも仕事があるんです! ユーエンが連れて来た方が話が早いですよ!」
そう言って、逃げ切った。
その神官の雨乞いは役に立たなかった。
雨、一粒も降らず。と書き記されたと聞く。
「アハッハ!」
「笑い事ではございません。それで井戸がついに涸れたとなって、こんな山奥まで水を汲みに来なければならなくなったのです」
「そうか……。まあ、でも、途中までは馬車だろ?」
「そうですが」
辛くはない仕事だ。村での生活を考えたら、全然楽だ。山道がちょっと辛いだけで。
「それで、ハリョン様。私は今、分かっていることがあるのです」
「何だ?」
「あの青登で会った長髪の方、ナギョン様とナクヒさんが兄妹ではないかと」
瞬時に声を抑えられた。いや、口から息が出来ない。
「それは言わぬが仏だ」
ガバッとハリョンの手を退け、シファは言う。
「それは言わぬが花でしょうか、それとも知らぬが仏?」
「どっちでも良い。言うな、これ以上」
「そういう事をして来るということは本当なんですね」
「試したな?」
「はい、いいえ。これでまた一歩近付けます」
どこに? そんな顔をハリョンはした。
ここに閉じ込められている人には何もできない。
きっと、ここも誰も居ないと見せかけて、あのカゲが潜んでいるんだろう。