とことこと歩いて行くには勇気が必要だった。
居るはずのカゲの気配は感じられず、月は雲に隠れ暗い。
ハリョンは書庫から出るとすぐにシドンの所へと行ってしまった。
ビクビクのシファに声を掛ける者はいないと決め込んでいた。
「お前……」
と言われたのは突然だった。
「うきゃぁー!」
「変な叫び声をあげるな」
「い、いや! あなたは?」
言ってしまってから気付く。
その男はシファのすぐ近くに座り込み、酒臭い。
よく見れば手には白い酒瓶を持っている。
その他の特徴としては長髪であり、ハリョンと同い年ぐらい。それで言えば顔はハリョンよりも良いかもしれない。赤い服、ハリョンよりも暗いだろうか。ちゃんとした色は分からないが身分は高そうだと思える。けど、そんな人がこんな所で一人……怪しい。
「あの……迷子ですか? ここ、富朱じゃありませんよ?」
「知っている。ここは青登だ。青い服を着てなければ変だろうな。お前は何をしている?」
「私は宿に帰ろうかと……って、ご自分はどなた様ですか?!」
「名乗る者でもないさ、遊び人だ」
「名乗っているではありませんか! はあ、お泊りかお住みの所はどこですか? そこまでお送りしましょうか?」
「その必要はない。ここら辺には詳しい。お前よりな。遊び慣れている。オレはここでこいつをどうしようか悩みながら、ある男の事を考えていたのさ……」
そう言って長髪の男はその持っている白い酒瓶をシファに見せた。
それに興味のないシファは言う。
「ある男って?」
「王と父の間で迷い、結局、そいつは今の王を選んだってわけだ」
「はい?」
「お前は助けてもらったんだろう? 読んではいけない物を読んで、それでも生きている。それが何よりも証拠じゃないか」
「はい?」
同じような反応になってしまった。この長髪の男は何を言っているのだろう。
「本来なら、ここに入っている毒を飲むはずだが……」
「えっ? 何を言って……」
「オレの人生の中で一番悲しい出来事の直後、そいつは現れた。その父親と一緒にな。そしてオレの友となり、この
「それって……」
「そして、あいつはオレの友をやめ、今は見えない月が見える日に王の物となった」
「ハリョン様……」
「そうだ。お前は知っているだろう。自分の上司なのだから」
「それでは! あなた様は?」
「知ってどうする。知ったら最後、お前の命はなくなる。オレは今は遊び人だ。遊び人の言うことをお前は聞くのか?」
「それは……でも、私は三ノ者です! 小さい争い事だって見逃せません!」
「けれど、お前の上司は見逃した。そこで宿をやっている夫婦が揉めていた。けれど奴は素通りし、お前を探しに行った。これは処罰される案件ではないか?」
「それは……」
「まあ、事はその物よりもお前の方が重要だった。何せ、それには読まれてはいけない物があったのだから」
「それは……ハリョン様はおっしゃっていません。けれど……」
だから破って
「良いか、お前は守られているのだ。いつまでもそれで良いとは思っていないだろう?」
はい! と強く言えなかった。
「どうした?」
「はい、そうです……」
「だったら、これを飲んでハリョンを楽にしてやれ」
差し出されたのは長髪の男が持っていた白い酒瓶。
「これを飲めば、どうなります?」
「お前は苦しむ。だが、ハリョンは悲しんだ後に忘れることができる」
「
「思い上がるな。本当だったら、お前はあの時、亡くなる予定だったんだ。それを生かされた。どこまでも王に尽くす、優しい者に救われ過ぎている。オレには何も残らない。欲しいと思ったものは全て奪われる」
「守れないものを私に全て押し付けるのですね」
「皮肉か? まあ、良いだろう。最期の言葉だ、大目に見てやる」
さあ――と言われる前にシファは手にした。
もし、この方が大変偉い方なら、今の言葉でシファは切り殺されていただろう。
それくらいの方だというのは今までのやり取りで何となく分かった。
ハリョンを呼び捨てに出来るのもその証。
ハリョンの見逃しがこうなった原因だとシファは思わない。それよりもあの本だ。
死ぬ前に真実が知りたかった。
そして、この『毒』だというものを飲んでもすぐには死ねそうにはない。
「もし、良ければ死ぬまでお付き合いください。遊び人様。私は何も知らないまま、この命を落とそうとしています」
「何だ? 怖くはないと言いたいか?」
「いいえ、私の妹は今、私を守っているという『カゲ』に連れて行かれそうになったことがあります。でも、それは最近ではありません。私が幼い頃の話。今では元気に富朱の宮廷外の三ノ者になろうと頑張っています。あなた様は知っていますか? そう言った子供達が富朱にはたくさんいることを」
「知っていたらどうなる?」
「そうなった事実を知りたいのです! 私は、それで三ノ者になったわけではありませんが、そこには不正がありました! だから、私は!」
「飲めないなら、飲ませてやるっ!」
強引に長髪の男は立ち上がり、シファの手にあった白い酒瓶の蓋を開け、飲まそうとして来た。
けれど、こんな所で飲むわけにはいかないシファは抵抗する。
「嫌です! やっぱり、私、生きたいっ!」
それでもその手を緩めない長髪の男。それでも現れないカゲ。
ああ、本当に守られてはいないのだろう……とシファが諦めかけた所。
「だったら、飲むな」
息を切らして強引にその酒瓶を二人から取り上げたのは紛れもなく、シドンの所に行ったはずのハリョンだった。
「どうして……」
「言っただろう? カゲがお前を守ると。まあ、今回の場合は……あなたが怖くて出れなかったようですがね」
そう言ってハリョンはシファを自分の背後へとやり、長髪の男を敵対するように見た。
「何故、戻って来た」
「俺の考えをあなたが気に入らないのは分かりました。けれど、それはつまり、今の王を反対するということです。ナギョン様。あの月夜にした口約束はなくしていただきたい」
「それだけか? オレに言うのは」
「ええ、他にももっとありますよ。けれどね、俺はこいつを守る。俺はあなたよりもこいつの方が今は大切です。あなたが今度、俺に対して何をして来たとしても、俺は今宵、あのカゲが俺の所にやって来て危ないと知らせてくれたことを感謝し、こいつの命を救えたことを嬉しく思う。俺はあなたと過ごした時間を忘れようとは思いません。けれど、俺はそれよりも大事なものを見つけたのです。それは俺の父親の言う通りになったのかもしれない。けれど、あの月夜にあなたに会った日にはもう決めていたのです。今の王が悩みを晴らし、世継ぎを誕生させることを願う――と! だから、あなたの行いこそが間違っている。これは今ここで捨てさせてもらいますよ。今の王は一つでも多くの命を救いたいと思っている」
そう言うとハリョンはその白い酒瓶の中に入っていた黒い液体をその場でドバドバと地面にこぼした。
「もったいない……というような顔をしているぞ?」
「え?!」
「お前! これはとんでもない物なんだぞ?! これで何人命を落としたか」
「だってぇ!」
シファはハリョンに叱られた。
その光景を見ていた長髪の男、ナギョンは不敵に笑い出した。
「ふっ、ふふふ……お前の部下はおもしろいバカだな」
「そうですね、だから生かしたくなるのですよ。そして、あなたの思いがこれほどとは思いませんでした」
「幻滅したか?」
「いいえ……と言えないのが現状です。あなたがこうして出て来たのはあの方を見る為だけではなかったのですね。きっとこの三ノ者の集いにもあなたは力を貸している。俺はすぐにでも富朱に帰らせてもらいますよ。このシファと共にね」
「そうか……」
ナギョンはハリョンの言葉を聞いて、とても物悲しそうな顔をした。
それでも他に掛ける言葉はないと、ハリョンはシファの手を引いてそこから駆け足で早馬に乗り、青登から離れた。