エランが寝ているのを確認してからシファはチョム・チャンソンの本の写しをもう一度念入りに調べることにした。富朱の歴史なんかよりも蜜柑の匂いがとても気になったからだ。
昔、読んだ本に『炙り出し』というのが書いてあった。果汁を使い、秘密の文をやり取りできるというそれはまさにこの本に
あの佳国と今の四つの国に繋がる物を三ノ者が食べながら読むとは考えられない。写しでもだ。それほど、この本は大事なはず。
佳国からその国々をつくるのに言葉を操った者こそ三ノ者であり、大いに貢献している。だから、この四つの国に住む親は子が三ノ者になると大変喜ぶのだ。少しでもその争いが減る助けとなって、あの方達のように尽くしなさいと、それを知らない三ノ者はいないだろう。だから、あり得ない話を信じるより、自分の確かな目でそれを見つける方が良い。
明かり用の蝋燭の火に近付けてみる。
蜜柑の匂いが強くなる部分はチョム・チャンソンの話が終わった直後からだった。
それを一枚、一枚と試して行く。
もっと時間があれば出て来るはずだった。
焦げた茶色のような文字が。
でも、それはあまりに
「シファ、何をしている?」
背後からのハリョンの声にシファはびっくり! と驚き、振り返る。
「ハリョン様!」
全てを知られてしまったわけではないのにもう手を動かせなかった。
「燃やそうとしているのか?」
シファの手にある本を見ながらハリョンは言った。
「いいえ……違います! こうすればもっと良く見えると思って!」
「何をだ?」
苦し紛れの言い訳だった。
だから言われたのかもしれない。
「渡せ」
「はい……」
シファは素直にその『チョム・チャンソンの本の写し』をハリョンに渡した。
するとハリョンはその本の一番最後から数十枚をいきなりビリッ! と勢い良く破り、近くにあった明かり用の蝋燭の火でそれを燃やした。
「え?!」
止めれたのかもしれない。
けれどそれは危険行為だった。
知られてしまう、何をしていたか。
確か燃やされた部分には何も書かれておらず、蜜柑の匂いが多少ありはしたが強く残っていたわけではなかった。
でも、燃やされた事実を見れば、そこがそれだったのだろう……だから、
「証拠隠滅……しましたね?」
何の事だ? とはハリョンは言わなかった。
知っていて当然なのかもしれない。だって、この人は青登に居た時期が確かにあったのだ。だとするとこの本も読んだ可能性がある。でも、その本が見つかったのはナクヒやエランが三ノ者になってからで、ここ最近だ。その頃にはもう富朱に戻っていたはず。なら、何故――。
「何も書いてはいなかっただろう? それとも何か書いてあったのか?」
「いいえ……」
「まあ、これは俺が指示し、写させた物だ。後でどうとでもなる」
「でも!」
それが証拠だった。シファの幼い頃の恐ろしい記憶の真相への手掛かりだったかもしれないのに!
燃やすなんてあり得ない!
「他に読んだ本はないのか?」
「調べる気ですか?」
「ああ、またこういう系だったら困るからな」
それについてはぐうの音も出ない。
これです……とシファはナクヒが片付けた本をまた取り出し、ハリョンに手渡した。それをハリョンは改める。
「なるほど、これは先代の富朱王の物だな」
「そうですね」
「俺はこの本を信白だったか、玄類だったかで読んだ」
「富朱ではないのですか?」
「富朱にはないからな。この本は」
「へ?」
何故? と訊きたい。
「あったら読むだろう? 普通。三ノ者なら。知識欲の塊みたいなお前ならむさぼっているはず」
減らず口のハリョンをシファは良い顔せずに見てはいられなかった。
「さて――」
とハリョンは言った。
「エランはいつまで寝たふりをしている? さっさと起きて、出て行け。それとも一緒に叱られたいと?」
「いいえ! 失礼いたしました!」
とエランは飛び出て行った。
きっと彼女も三ノ者……なら、他言無用と心得ているだろう。
「シドンには言いそうだがな。まあ、俺もこれの事は言っておく」
とハリョンは自分が破いて燃やしたチョム・チャンソンの本の写しの残りに目をやった。
無造作にハリョンの手元に置かれている。
もう大切な物ではないのだろうか。
「では、言おう。シファよ、このまま死ぬか、生きるか」
「生きる?」
「運命に
見知ったように言う。
「知っている。お前が自分の妹を連れて行かないでくれ! と泣き付いたこと。どうだ? その幼き頃に出会った
この人は……!
最初から知っていたのだろうか。
その後、自分の大声で人が集まり、助かったことを――。
ハリョンの顔はとても平然としていたが、その内心はとても悪そうに笑っているように見えた。
「何故、今まで黙っていたのですか?」
「明かせない秘密だからだ」
とハリョンはきっぱり答えた。
「何故、富朱の宮廷内の三ノ者が俺とお前の二人しかいないと思う? 数は少ない方が良いからだ。秘密の漏洩を防ぐ為にな」
「だからって、毎日毎日ヒーヒーするような仕事量をやるのは荷が重すぎます!」
「それくらいの秘密だということだ」
とハリョンはシファの頭を軽く手の甲で小突いた。
「痛くはありませんが……」
「何だ?」
「もう襲って来たりはしないんですね?」
「襲ってほしいのか? なら、してやるが、俺だって見境なくやるわけじゃない。必要だったからしたまでの事。すまなかったな、怖かっただろう?」
「全然ですよ……」
「そうか? 顔はとても怯えていたが……」
「それで懲らしめたとお思いになったでしょうが、無理でしたね!」
「そうか、なら、謝ったのは無しにするか」
「いいえ! 謝ったのはちゃんと必要でした!」
「そうか……」
そう言ってハリョンはホッとしたような優しそうな微笑みをした。
それにうっかりシファは見惚れそうになった。
「だめだめ!」
「何がダメだか知らないが、俺は富朱に戻ればお前を生かす自信がない」
「な、何故! そんな事をおっしゃるのですか?!」
「お前は知り過ぎている。知ってない事の方が今は多いだろうが、お前が今後、知る機会はいくらでもある。その時、お前はどんな事をするのか、想像が付く」
「だから、今、私に死を与えようとしたのですか?」
「そうだ。その方が俺としても辛くはない」
「ひどい! けれど、それが三ノ者ですね。私はハリョン様のお言葉を聞いてもおかしいと思いませんでした。それより、生かす方がおかしいと思ってしまいました。私は、幼い頃よりも人ではなくなった気がします。ハリョン様はどうですか?」
「俺もそうだ。俺は王と交わした。王が選んだお前を自由に、好きにさせてもらう代わりに自分の大事な者を寄越せと――」
「それでは……! それでは、ハリョン様は! 私のせいで、許嫁の方を!」
「違う。それが最善だった。だから、こうしてお前を生かすことにしたのだ。あの方はもう、俺の者ではない。それで俺を恨んだりしても、それは王から言って来た事と割り切らなければならない」
「けれど、きっとその方は、ハリョン様を憎みます。きっと、ハリョン様は本当の事をおっしゃってはいないから!」
「俺はお前が生きていれば良い。花だと言った。王からしてみれば、お前はもう散っているのだ。そして、止めるべき花だと、王が言ったのだ。それがお前に与えられた使命。だからこそ、俺はお前を守る。それが王の為にもなるからだ。この本にも書かれていただろう――我の花は色を変え、散った。それを悲しいとは思わぬ。また咲き誇る花の為、我は行く――だったか。それに俺の周りに普通の女性がいては、その身が危なくなるだけだ。だから三ノ者は三ノ者と結ばれることが多いんだ。知っていたか?」
「それはあくまで好きになった者同士の話です! 私は! ハリョン様とそんなっ……!」
「何を顔を赤らめて言うことがある?」
「ないと思いますが……」
これ以上、その話はできない! とシファは自ら違う話をした。
「ハリョン様のお持ちになっているその本! それに、こうも書かれていましたよ! 富朱はその昔、ある貴族が自分の身分が高くなるに連れて、それだけ多くの血と汗を流させていた。その貴族は悪を滅し、善を築き上げた。そうして多くの民達から多くの力を得た。その血と汗を受け継ぐ国こそが『富朱』であり、血と汗が混じって出来た色から『朱』を、その貴族から『富』を――と」
「そういう説もある。それだけ富朱という国は豊かだと言っているのだ。この『青登』にだってそういうのは残っている。たとえ誰かが泣いたとしても、汚い事をしてまでも登り詰めた――とな。それにしてもお前」
「はい?」
「……元気になって良かった」
「あっ! あの、それはですね……」
「今夜はぐっすり眠ると良い。あと数刻もないが。俺はぐっすりと寝ているだろうシドンに話をして来る。何、心配はいらない。俺が居なくともあの姿は絶対に現さないカゲがお前を守る」
「それは! 富朱の?」
「いや、違う。青登のだ。富朱のカゲがここに来れるわけがないだろう? そんな事をしてみろ、一気に争いの種になる。今回の三ノ者の集いだって、平和的になっているからその国の王が相談して決めたのだ。毎回そうとは言えないが、何かないかと狙っている。大きな争いを潰す為にな。そして、お前はまだ幽霊だと思っているのか? あれを」
「あれとは……あの爺仙人の事でしょうか……?」
「ああ」
「じゃあ、誰が?」
「そのカゲだとしたら? 話は簡単だ。カゲはいつもウヨウヨしているからな、姿を隠して。自分の守るべき場所に知らない奴が来たらすぐに様子を伺いに来る。それが奴らの仕事だ。そして、俺がちょっと居なくなった隙に現れたのだろう。奴らも人間。話は通じる。言葉を言うからな」
「ちょっと待って下さい! 居なくなるって何で?」
「俺が一瞬で火を点けれると思うか? それには木が必要だ。だが、あの野宿をしていた場所にそんな手頃な木があったか?」
「……ありません」
「だから、その隙だ。戻ってみればお前に数人、掛かり切りになる前に少し痛い目に遇わせた。そして、正体を見れば、奴らは青登の者だった。その中に俺が青登に居た頃、使っていた者がいた。それに頼んでおいたのだ。お前を守れと。お前は富朱以外の国は初めてだろう?」
「あ、はい……」
「だからこそ危ないのだ。ましてや三ノ者、見た目で判断出来ずともそのくらいの判断材料なら向こうにもある。エランやシドンもそれは知っていただろう。何せ、そうするようにカゲに言っていたのはその青登の三ノ者だからな」
「じゃあ……」
「二人は芝居をした。もしかしたら本当にエランはそうなのかもしれないが、あの演技力を見るにそうすることも簡単だろう。話を合わせてさえいれば良いのだから」
「え、じゃあ……」
「エランは俺に気があった。それはあの三ノ者の集いの場所に行く前に連れ回された所ですでに分かっていた事だった。だが、俺としては面倒な事だった。お前はその『チョム・チャンソンの本』が読みたいと言っていたからな。本物のチョム・チャンソンの本は青登の宮廷の中にある。だから、安心して警戒していられた。お前だけを見ていれば良いのだから。エランは軽い罪を犯した。言い付けを守らなかった」
「だから言いに行くのですか」
「そうだ。対処は青登の方でしてもらう。それが富朱の宮廷内の三ノ者としての俺の仕事だ。お前は逃げられないのだよ、俺と同じように。責務を全うしなくてはならない。この青登に居る間だけだ。俺がお前の考えに答えてやれるのは。ただし、全てではない。それは忘れるな。それが俺の立場だ」
「立場って……」
「分かったら行け。寄り道をせずにな」
「それはもう、居るってことですか?」
「そうだ。お前の大っ嫌いで頼るしかない存在がな」
そう言ってハリョンは書庫の明かりを全て消した。