シファを宿に帰した時には明るかった外がもう真っ暗だ。
皆が心配し、ハリョン様、早く帰ってくださいよ! と言ってくれたおかげで昨日よりは早く宿に戻ることができたが、肝心のシファが宿にいなかった。
布団も綺麗に片付けられたままだし、荒らされた形跡もなかった。
またエランはシファよりも強く、出来る三ノ者だ。シドンがあのスケベそうだと言う男も簡単に撃退できるでしょうと言うから信じたものの、付き添わせる人間を間違えたか。
シドンはこうも言っていた。
あの『チョム・チャンソンの本』についてもエランに話したと。
つまり、エランは本物の『チョム・チャンソンの本』がどこにあるのか知っている。その写しがどこにあるのかも。
宿を少し出ると酒に酔ったあのスケベそうな男がカンカンになって怖そうな彼の奥さんに怒られているのを目撃したが素通りして、都の一角にある書庫へと走って向かう。
昨日、いやもう一昨日になるか……。
血迷ったような行動をしたのもそれに近付かせまいという恐怖を与える為だったが、意味をなさなかった。
あいつの知識欲はどこまで行くのか、問題は刻一刻と深刻だ。
そう思って、久しぶりに訪れた書庫にはまだ明かりがあった。
三ノ者なら誰でも自由に見て得ることができる唯一の場所。
青登に居た頃から変わらない配置にハリョンは安堵した。
これならここからで良い……と遠目から中を
皆、女性。青登が二人と富朱が一人。
エランとシファだというのはすぐに分かったが、もう一人の薄紫色のは誰か。
こう隠れてだとはっきりその顔が見えず、分からない。
もう少し近付こうと忍び足で歩いて行けば、誰かと鉢合わせした。
「あ!」
「お?」
背丈は同じくらい。
男――。
月に照らされなくても分かった。その長髪、通い慣れた富朱ではない所で焚かれた
「またお遊びですか……、それも今回は青登で?」
「まさか。オレがそんな事をしてみろ、怒られるどころじゃ済まないさ」
「では何をしにこんな所までお一人でいらっしゃったのですか? ナギョン様」
「お前は気付かないのか? あんなに美人に育ったっていうのに」
と富朱王の異母弟は嘆き、その目線を書庫の三人の一人に注視する。
「……まさか! とは思いますが」
「ああ、あそこに居る薄紫色のがオレの
堂々と王に次ぐ赤黒い色を着ていなければならないのにその身分を偽って、ハリョンと同じぐらいの色のゆったりとした服に身を包み、彼は認めた。
誰も知らない存在。いや、消された存在。
青登でしか生を与えられない、女性――。
「お忍びで様子を見に来ている。亡き母上の代わりにな。成長するのを楽しみにされていたから」
「出会うことはないのですか?」
「出会ってはいる。だが、向こうは何も知らない。オレのことは本気で富朱の遊び人だと思い込んでいるさ」
ハリョンはそれを肯定も否定もしなかった。
「今、富朱の者が読み終わったそれに関わっていることも知らないだろう。あれは富朱には無い物だ。それを知らせるつもりがないと、分かっているだろ? ハリョンも。知ってはならない。せっかく父上がお救いになったその命をオレが消してはならないんだ」
そこには強い決意があった。
そう言われずともハリョンも明かすことはない。
その事実は富朱だけには無い史実だ。
ナクヒが動いた。それでやっとハリョンはその顔を見ることができた。
どことなく上品さが漂っていたのはそういうことか。
いや、その前から知っていた。
ナギョンに似てなくもないナクヒ。
彼女は生まれた地だとは知らずに富朱に行き、青登の宮廷内外の三ノ者として働き、お手柄を立てた。
その本は今、青登の宮廷内で大切に保管されている。
「ナクヒさん! もう一度『チョム・チャンソンの本の写し』を私に読ませて下さい!」
「い、良いけど……何で?」
「気になるんです! じゃなくて! 最後にもう一回読んでおきたくて!」
渋々、ナクヒから渡されたその本を大事そうにシファが抱えた。
「あ! それと、もう遅いのでお帰りいただいてもよろしいですよ! 私、ちゃんと朝までここに居ますから」
「え、でも……」
「大丈夫です!」
押し切った。
まあ、私も調べ物があるから、明日も来るし。三ノ者の集いに参加せずにここにいるのだけど……と言うナクヒを帰し、眠り込んでしまったエランは起こさずに何やら事を始めそうな雰囲気。
「お前はここにオレが居ると不都合か?」
「はい、そうですね」
「では、行くかな。こちらも今宵、出会うのは不都合」
やはり……というハリョンの確信はナクヒに伝えられることはない。
あなたのお兄さんはあなたのことを心配しながらも今宵も誰かと……と言うほど親しい間柄ではない。
彼女の父が誰で、母や兄と別れた後、誰に育てられたかは謎とされているが、調べたところによると彼女の母の乳母が引き取ったらしい。そして、富朱から青登へと移り住み、その乳母の知り合いとなった若い乳母の乳で育ち、身も心も青登の者となった。
決して明かされることのない真実――。
ナギョンはささっとここを離れて行った。また来るのだろうが、今日はもうここには来ない。
だとすれば、もう書庫の中は一人も同然。
熱心にやり始めたシファをハリョンは見つめる。
もう隠れてはいなかった。
知ってしまった事は早く片付けた方が良い。
ハリョンの心は決まった。
彼女達の運命は自分の運命と同じように振り回されっぱなしだ。