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episode5 世界のおわりみたいな夕陽のなかで

 日曜、朝十時。睡蓮は、学校の最寄り駅である十六夜駅に来ていた。

『LOVER`S FOREST』で購入したばかりの新作である、膝下丈の紺色のワンピースを着ていた。丸襟のセーラーカラーで、スカートの裾部分は、切り替えのストライプ模様になっている。美綴が、おまけでつけてくれたワインレッドのタイツに、ブラックの編みあげショートブーツを合わせた。紺色のリボンを添えた、ワインレッドのベレー帽を被り、ブラウンの革製ガロンリュックを背負っている。持ち物は財布とハンカチ、ポケットティッシュ、そして小さな鏡だけ。

 スマホの時計を確認すると、待ちあわせ時間ぴったりだった。

 約束の場所である、駅前のドーナツ屋の前には、すでに待ちあわせ相手が待っていた。そわそわと落ち着かないようすで、あたりをきょろきょろと見回している。

 睡蓮の存在に気づくと、花が咲いたように顔を輝かせ、大きく手を振ってきた。睡蓮は小さく会釈をして返した。

「おはよう、春待さん!」

「……おはよう」

 夜桜は、うっすらと化粧をしてきていた。大きめのロゴがプリントされたホワイトカラーのオーバーサイズフーディに、ベージュのワイドパンツ、ブラックのキルティングショルダーバッグにはたくさんのものがつまっているようすだ。グレーのボリュームスニーカーはおろしたてなのか、ぴかぴかだった。

「コーデ、めっちゃかわいい! 春待さんの私服をこんな間近で見られるなんて……ほんと、目の保養! 今日は、最高の一日になりそうっ」

 夜桜の瞳は、水分で潤んでいた。泣いているようだ。

 春の太陽の日差しがまぶしいからか、睡蓮の頭にじんわりとした痛みが走った。

「今日は、どこへ行くの」

「ふふ。春待さんと、動物園へ行きたいなと思って。動物、すき?」

「……行こうか」

 ブーツをカツン、と鳴らして歩き出す睡蓮を、夜桜がにこにこと追いかけた。

 改札にICカードを通しながら、睡蓮はもやもやとした気持ちでいた。まさかお気に入りのワンピースで、動物園に行くとは思わなかった。動物は、きらいではない。むしろ、すきなのに。頭のなかが、ざわざわとして色んな感情が渦巻いている。

 ウグイスが啼いている。ウグイスのきれいな音色すら、いら立ちを覚える。こんな気分でいる自分を、笑っているように聞こえてしまう。気分がささくれ立っている。

 小春日和。空には、うっすらとした雲しか漂っていない。空が晴れわたっていることすら、気に食わなかった。

「デート日和だね」

「……そうなのかも」

 素直に返事をしている自分に腹が立つ。こんな気分で、今日は一日過ごさなければならないのか。心のなかでしか、ため息をつけない。


 電車にゆられ、動物園を目指す。電車内では、夜桜がずっとしゃべり続けていた。

 昨日見た動画の話や、学校の先生や友人の話や、コンビニで買っておいしかったスイーツの話。睡蓮には、あまり興味のない話ばかりだった。聞いているあいだも、てきとうな返事になっていた。しかし、夜桜はまったく気にしていないようすだった。

 定期的に、夜桜の口からは睡蓮を称賛する言葉が出た。

「こんなにきれいな春待さんの隣に、今日はずっといられるなんて、信じられない! 今日は、あたしが、あたしだけが、春待さんを独占できるんだよね。お兄さんもいないし、学校の人たちもいないもん。最高の一日になりそう。昨日はそわそわして、ぜんぜん眠れなかったの。だから、早起きできたんだ。ふふ、ツイてる。あたしって、中学までは友達の約束なんて、いっつも遅刻ばっかりだったんだけど、春待さんとの約束に遅刻なんて、ぜったいありえないからさ。がんばったの! だからさ、今日だけは、あたしに春待さんを独占させてね?」

 夜桜が自分を褒めるたびに睡蓮は、眉間にしわを寄せたが、彼女はまったく気づかなかった。気づく気配もなかった。

 動物園の最寄り駅に着き、二人して降りる。そこから歩いて数分で、動物園に到着した。夜桜がチケットを買ってくるといって、走って行ってしまった。

 すると少し離れた場所から、男性らの話し声が聞こえてきた。

「あの子、めっちゃよくね?」

「肌、しっろ! 人形じゃん」

「モデルか、なんか? まじやべえー」

 ずかずかと、男性らが睡蓮に近づいてきた。睡蓮はまたかと、いつものように防犯ブザーを手に、さっさと立ち去ろうとする。

 とたんガッと、腕を掴まれた。顔をあげると、夜桜がいた。

 夜桜にぐいぐいと引っ張られる。男たちがぽかんとしているのをしり目に、夜桜に腕を掴まれたまま、睡蓮は動物園に入った。ちらりと後ろを見ると、男性らが首を傾げながら、苦笑いをしていた。ここまでは、追ってこないようだった。

 園内に入ったにもかかわらず、睡蓮は夜桜に、ぎゅうぎゅうと腕を掴まれたままだった。夜桜はさらに、ずかずかと園の奥へと歩いていく。カバの展示も、サイの展示も、そっちのけだった。

 異常な力で腕を握ってくる夜桜に、睡蓮はいい加減にしてほしいと立ち止まろうとする。

「ちょっと。どこに行くの……?」

 しかし夜桜に、無言で引っ張り返されてしまう。手を緩めることも、足を止めることもなかった。

 睡蓮は、いらいらしながらも、反抗するのは諦めた。夜桜の機嫌をそこねることほど、面倒なことはないからだ。

 いや、すでに、面倒なことになっているのかもしれないが、今はそれを考えたくはなかった。

 まだまだ、今日ははじまったばかりだからだ。


 園内に入って、五分ほどたったところで、夜桜が建物のなかへ入った。

 そこは、動物のはく製や、生態を調査した資料を公開している資料館だった。薄暗く、人の気配はない。あたりを見渡すと、たしかに見学者は、ひとりもいないようだった。みんな、生きている動物のほうに夢中のようだ。

 資料館に入ってすぐの、ショーケースの前で、夜桜は睡蓮の手をようやく放した。睡蓮の腕には痛々しい、赤い手跡がついていた。

「いったい、なんなの……っ」

 いいおわるや否や、睡蓮は黒い長椅子に、倒れていた。夜桜に、覆いかぶさられている。強いちからで、肩を押さえつけられ、身動きが取れない。逃げようと、身をよじるが、それ以上のちからで、夜桜は睡蓮の細い肩を抱きしめた。

 ぎゅうぎゅうと、ぬいぐるみを抱きしめるように、夜桜は睡蓮を絞めつけた。深く、深く、絞め殺されるんじゃないかと思うほどに。

 夜桜の心音が、伝わってくる。早鐘のように打ちつけられている心臓が、熱のかたまりのように、睡蓮の体温と混ざり、重なり、同じになっていく。

 はく製ばかりの展示たちのなかで、夜桜の小動物のように跳ね回る小さな心臓だけが、この空間で、いちばんの本物だった。

 おろし立てのワンピースは、しわくちゃだった。ソファに、横になったせいで、時間をかけて、ていねいに手入れした髪も乱れてしまっている。

 夜桜の真っ直ぐになった長い髪が、睡蓮の頬に、すとんと降りかかる。ゆっくりと目を開けて、夜桜を見あげると、ぼろぼろと涙を零していた。せっかくのメイクも、食べかけのデコレーションケーキのようになっていた。


 いったい、なんなんだ。


 感情を向けられれば、向けられるだけ、自分の感情が覚めていくのを、睡蓮は体感していた。

 夜桜のあたたかい心臓だけが、この空間のなかで本物で、氷のように冷えていく、自分の感情は、まるで偽物だった。

 夜桜の頬が熱い。夜桜に抱きしめられていると、わずらわしい夏になってしまったかのような気分になる。

「椎名さん……どうしたの」

「春待さんを取られちゃう……あたし、不安で……不安で……」

 睡蓮は、ようやく夜桜の肩が震えていることに気づいた。荒々しく胸を上下させ、激しい息を繰り返している。

 逃がすまいと、ますます睡蓮のからだを強く抱きしめる、夜桜。

「痛いよ……止めて。落ち着いて、どこにも行かないから」

 夜桜の冷たくなった手が、睡蓮の頬に触れた。緊張と恐怖で、湿っている。

「春待さんがいないと、あたし……こ、怖いの」

「どうして? どうしてそんなふうに思うの? わたし、あなたに何もしてあげたこともないし、こんなに執着されるような覚えもないのに」

「……えっ」

 夜桜が心底、悲しそうに顔を歪めた。睡蓮は、何も考えずにいったことを後悔していた。なんで、そんな顔をされないといけないのか、睡蓮にはさっぱり理解できなかった。

「春待さんは、あたしのこと、そんなふうに思ってたの?」

「だって……そうでしょ」

 夜桜の動きが、ぴたりと止まった。諦めたのかと思ったが、それは違った。

 いよいよ、夜桜の涙は滝のようにあふれだし、ひっくひっくと声をあげて、泣き出してしまった。覆いかぶさっている夜桜の涙が、睡蓮の頬や眉間に、ぽたぽたと降り注いだ。

「あ、あたし……やっと春待さんの恋人になれたのに……! 春待さんは、あたしのものになったのに……!」

 まるで子どものような、だだのこねかたに、睡蓮は呆れてしまう。抱きしめられた態勢のまま泣き続ける夜桜の髪を、睡蓮は仕方なく撫でてやった。そうするしか、なかった。

 それから三十分ほど、資料館に居座ったが、誰も来なかったのは幸運だった。

 ようやく泣き止んだ夜桜の目は、泣いたのが丸わかりなほど腫れていた。資料館を出たところに、小さな池があった。そばにベンチもあったので並んで座り、池の鯉をながめた。

 けっきょく、園内の動物など一匹も見ずに、お昼の時間になってしまった。

「そろそろ帰る?」

 夜桜にたずねると、きょとんとした顔をした。いそいそと、キルティングのショルダーバッグから、大きな四角いものを取り出す。大家族の運動会でしか見られないような、重箱が出てきた。

「お弁当、作ってきたんだ」

「え……」

 ふたを開ければ、色とりどりの豪華な料理がお目見えする。

 一段目、二段目には、だし巻き卵、ミニハンバーグ、鶏のから揚げ、ちくわの磯部あげ、きんぴらごぼう、コーンサラダ、ぶりの照り焼きが、ぎっしりつまっていた。

 三段目には、ちらし寿司いなりが、宝石のように並んでいる。トッピングには、さくらでんぶや、花のかたちに切られた人参、千切り卵。ハムの花びらのようにかざりつけられ、三つ葉がアクセントに乗せられている。

 春にぴったりのメニュー。おいしそうなのは間違いなかった。

 だが、まだここにいるつもりなのかと、うんざりした気分になったのも事実だ。

「いっしょに食べよ?」

「あ……」

 そもそも、得体のしれない彼女が作った食べ物に、手をつけてしまっていいのかと、背筋が冷たくなる。

 睡蓮にとって、椎名夜桜への信頼は、ないに等しかった。

「ごめん。わたし、アレルギーが多いんだ。だから、兄が作ったものしか食べられないの」

「え? このお弁当のメニュー、全部?」

「うん」

「わ、わたしががんばって、作ったものなんだよ。それなのに、食べられないの……?」

「学校の給食も、兄が作ったお弁当を持参していたくらいなんだよ。それくらい多いんだ。ごめんね」

 すべて嘘だが、杠葉がと公言していたのは事実だから、あながち嘘っぱちというわけでもない。

 夜桜は、また泣きそうな顔をしながらも、睡蓮の言い分に反論することもできず、黙って重箱のふたを閉めた。

「じゃあ、何食べようか? あたし、売店で買って来る!」

「お弁当を食べればいいでしょ。せっかく作ったのに、もったいないよ」

「あっ、春待さんが食べれるもの、やっぱりこのお弁当のなかにあったの?」

「ううん。食べれないよ。でも、わたし、お昼はそんなに必要ないの。朝食をたくさん食べるタイプだから。だから、あなたが食べるところを見ているだけで、お腹いっぱいになれるから、気にしないで食べればいい」

 すると、さっきまで落ちこんでいた夜桜が、心の底から嬉しそうに笑った。

「わかった。じゃあ、あたしが食べるところ見ててくれればいいよ!」

 動物園のゆるやかな喧騒のなか、夜桜は大きな重箱を、ぱくぱくと元気に食べていった。やがてあれだけあった重箱の料理は、夜桜がほとんど食べ尽くしてしまった。幸せそうに食べる夜桜に、睡蓮はつい質問してしまう。

「なんで、そんなにおいしそうに食べてるの」

「だって、春待さんといっしょに食べてるから」

 ご機嫌だ。資料館から出たときの夜桜とは別人のような顔色になっていた。幸せに、あふれている。

 資料館であんなことをしてきたのは、お腹が空いていたからなのかもしれない、と睡蓮は納得した。

 昼食がおわると夜桜は、睡蓮に猫のような甘えた声でいった。

「あの、さっきみたいに、また頭を撫でてほしいな……」

「どうして、わたしが?」

「あ、安心するから……なんだけど、だめ、かな」

「……わかった」

 また、目の前で花を踏みつけにされるような事態には、なりたくない。ベンチに座った睡蓮の膝に、夜桜が頭を寝かせてきた。膝枕状態だ。

 それから、頭を撫でる睡蓮に、夜桜はご機嫌でたくさんの話をした。たまに、池を泳ぐ鯉を見に、小さな子どもや老夫婦が近づいてきたが、ふたりのすがたを見ると、逃げるようにどこかへ行ってしまった。睡蓮は、何も思わないようにした。

 ただ、この時間が早く過ぎればいいと思い続けた。長い長い時間が、ゆっくりと過ぎていった。

 やがて、午後五時。動物園の閉まる時間になった。

 夜桜は、やっとその言葉を口にした。

「帰ろうか。春待さん」

 睡蓮の、長い長い春の休日が、ようやく幕を閉じた。


 夜桜に家の前まで送ってもらった。別れを惜しむ夜桜に、睡蓮は「疲れているから」というと、彼女はさみしそうに手を振って、「またね」といった。

 玄関でブーツを脱いだら、どっと疲れが出てきた。

 リビングではすでに、杠葉が夕食の支度をしていた。食卓のテーブルに並ぶ、健康的でいて色鮮やかな料理。夜桜が作ったものとは、やはり違う。料理が並ぶ光景に、安心感を覚える。

 これが家族の料理なんだと、睡蓮は思った。

「帰ったか」

「うん」

「食事は? 食べてないなら、用意してあるが」

「誘われた。でも、断った」

「……何か、あったのか?」

 睡蓮が黙っていると、杠葉は息をついた。睡蓮の肩を押し、ダイニングの定位置に、妹を座らせた。

「話す必要はないさ。ぼくが、心配をする。それをお前は理解していて、いつでもそのことを思い出してくれるなら、ぼくはそれで十分だ」

「……今は、杠葉の作ったごはんを食べたい」

「こんなにうれしい言葉は、ないな。すぐに用意を終わらせよう」


 ■


 また、新たな月曜日を迎えた。

 鬱々とした春の授業をのらりくらりと過ごしているうちに、部活の時間となっていた。

 席で荷物をまとめていると、夜桜が睡蓮の元へやってきた。顔をあげると、自分よりも高い身長の彼女が、思いつめたような顔をしていた。

「あの、あたしやっぱり……美術部に……入ろうかなって思うんだけど……」

「夜桜さん」

 とたん、夜桜のからだに電撃が走る。

 甘い砂糖菓子のようなソプラノ。夜の帳のような深い瞳に見つめられ、脳がびりびりと痺れた。

「あなたの演技、評判がいいんでしょ。とても楽しみ。見に行くから」

「うそ……」

 夜桜は、玉のような涙をにじませ、感極まったように吐き出した。

「春待さんに、そんなふうに期待してもらえるなんて……。信じられない! あたし、がんばる!」

「うん」

「ぜったい、ぜったい次の公演、見に来て! じゃあ、また後でね。春待さん!」

 叫ぶようにいうと、大きく手を振り、夜桜は教室を出て行った。部活の準備があり、時間ギリギリだったのだろう。

 ふたりのやりとりを遠巻きに傍観していたクラスメイトたちの、ひそひそ声が聞こえはじめる。

 夜桜の人柄のせいもあってか、クラスメイトたちの評価は、睡蓮に集中していた。

 それはたしかに、『春待睡蓮が、椎名夜桜を誘惑している』と聞こえた。

 だが、睡蓮にとってそれは気にするほどのことでもなかった。そんな噂は、いつものことだった。ショックを受ける必要など、何ひとつない。

 毅然とした顔で、さっさと教室を出た。


 美術室では、すでに部員たちが作業に入っていた。今年の一年生は、睡蓮だけ。なので、部長直々のマンツーマン指導がはじまった。

「それじゃあ、今日は『自分の心象風景』を描いてください」

 心象風景とは、自分の過去の記憶や、夢の中で見て強烈に覚えているもの。心の奥底に眠る風景のことをいうようだ。

 部員たちが、悩みつつも鉛筆を動かしているのは、そのテーマが原因らしかった。

 睡蓮は、風景画を描くことがすきだった。見たままの風景を自分のフィルターを通して、緻密に描写し、色づけていくことが何より楽しかった。

『自分の心象風景』というテーマを素直に飲みこみ、鉛筆を走らせていく睡蓮。その手つきを、部長であるマーサが静かに見つめていた。

 睡蓮が描くのは、自分の部屋だ。小さいころからずっと、趣味に没頭できる、ゆいいつの空間。すきな服、すきな映像作品、すきな雑貨、すきな芸術作品、すきな本を楽しむ空間。ひとりで、あいする世界に浸り、時には杠葉といっしょに楽しむ。この世でいちばん大切な場所が、あの部屋だった。

 できあがった睡蓮の作品を見て、マーサも、先輩部員たちも、息をのんだ。睡蓮の絵を見るために、わらわらと絵の周りに集まった。

 睡蓮の絵は、うまいのはもちろん、見るものを圧倒するちからがあった。ただそこに描かれているだけではない、物語があった。絵のなかにあるものたちへのが、深く深く存在していた。

 美術室のなかが、ざわざわと騒がしい。睡蓮が戸惑っていると、脇腹をつん、と小突かれた。にっこりと笑っている、マーサがいた。

「春待さんなら、コンクールに出せば、いい成績を残せそうだけど……でもあなたは、そういうものに興味ないだろうねー」

 睡蓮は、目を丸くした。

「部長なのに、そういうふうに思うんですね」

「え~? 部長だからって、熱血指導なわけじゃないよ」

「でも、わたしがそういうのに興味がないことまで、わかってるなんて」

「なんとなく、ね。春待さんって、そういう人なのかもなあって」

「……そう、ですか」

 夕日に赤く染まる美術室、マーサの無邪気な横顔がオレンジに染まる。不思議な人だ、と睡蓮はくちびるをゆるめた。

 部活動終了を告げるチャイムが鳴り響いた。わらわらと部員たちが、帰り支度をはじめる。

「今日の部活はどうだった?」

 マーサが睡蓮の顔をのぞきこんだ。まるで子どものような無垢な表情に、睡蓮はいいようのない高揚感を覚えた。

「とても、楽しかったです」

「よかった」

 目を細めて笑うマーサに、睡蓮は「それじゃあ、また明日」と挨拶し、美術室を出て行こうとした。

「ねえ」

 睡蓮の前に、するりとマーサが回りこむ。

 美術室はいつの間にか、睡蓮とマーサ、ふたりだけになっていた。マーサは、後ろ手に首を傾げ、睡蓮を見あげる。

 マーサの「はあ」という、息をのむ音が聞こえた。

「わたし、こんなにきれいな肌も髪も声も、映画や絵のなかでしか見たことないよ。まるで、芸術作品みたい」

 マーサは、じろじろと睡蓮を観察する。まるで、デッサン対象をじっくりと分析するように。

「あ、あの」

「うわあ。ごめんね。わたし、小さいころから、絵がだいすきで……きれいなものを見ると、こんなふうになっちゃうんだ。失礼だったよね。本当に、ごめんなさい」

「いえ……」

 そのとき、廊下から声がした。

「春待さーん。まだ、絵なんて描いてるの?」

 聞き慣れた、ハスキーボイス。夜桜だ。睡蓮は、とっさにマーサの手を取って、教卓の下に隠れた。

 夜桜に、マーサとふたりきりのところを見られたら、また面倒なことになるかもしれない。それは、どうしても避けたかった。

 教卓の下で、魔女見習いのような小さなマーサを抱きこみ、睡蓮は息を潜めた。

「春待さん? ――いない……。お手洗いかなー」

 気配が、遠のいていく。思わず、安堵する睡蓮。だがまた、夜桜が戻ってくるかもしれない。安心は、できない。

 突然のことで、マーサは驚いたかもしれない。謝ろうと、腕のなかで丸まっているマーサを見ると、なぜか頬をりんごのように紅潮させていた。

「部長。すみません。突然」

「あ……うん」

 マーサの心臓は、まるでおもちゃの太鼓のように、早鐘を打っていた。壊れてしまったのかもしれない。

 目の前にいる、神の奇跡のような美術作品に触れてしまったから。


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