日曜、朝十時。睡蓮は、学校の最寄り駅である十六夜駅に来ていた。
『LOVER`S FOREST』で購入したばかりの新作である、膝下丈の紺色のワンピースを着ていた。丸襟のセーラーカラーで、スカートの裾部分は、切り替えのストライプ模様になっている。美綴が、おまけでつけてくれたワインレッドのタイツに、ブラックの編みあげショートブーツを合わせた。紺色のリボンを添えた、ワインレッドのベレー帽を被り、ブラウンの革製ガロンリュックを背負っている。持ち物は財布とハンカチ、ポケットティッシュ、そして小さな鏡だけ。
スマホの時計を確認すると、待ちあわせ時間ぴったりだった。
約束の場所である、駅前のドーナツ屋の前には、すでに待ちあわせ相手が待っていた。そわそわと落ち着かないようすで、あたりをきょろきょろと見回している。
睡蓮の存在に気づくと、花が咲いたように顔を輝かせ、大きく手を振ってきた。睡蓮は小さく会釈をして返した。
「おはよう、春待さん!」
「……おはよう」
夜桜は、うっすらと化粧をしてきていた。大きめのロゴがプリントされたホワイトカラーのオーバーサイズフーディに、ベージュのワイドパンツ、ブラックのキルティングショルダーバッグにはたくさんのものがつまっているようすだ。グレーのボリュームスニーカーはおろしたてなのか、ぴかぴかだった。
「コーデ、めっちゃかわいい! 春待さんの私服をこんな間近で見られるなんて……ほんと、目の保養! 今日は、最高の一日になりそうっ」
夜桜の瞳は、水分で潤んでいた。泣いているようだ。
春の太陽の日差しがまぶしいからか、睡蓮の頭にじんわりとした痛みが走った。
「今日は、どこへ行くの」
「ふふ。春待さんと、動物園へ行きたいなと思って。動物、すき?」
「……行こうか」
ブーツをカツン、と鳴らして歩き出す睡蓮を、夜桜がにこにこと追いかけた。
改札にICカードを通しながら、睡蓮はもやもやとした気持ちでいた。まさかお気に入りのワンピースで、動物園に行くとは思わなかった。動物は、きらいではない。むしろ、すきなのに。頭のなかが、ざわざわとして色んな感情が渦巻いている。
ウグイスが啼いている。ウグイスのきれいな音色すら、いら立ちを覚える。こんな気分でいる自分を、笑っているように聞こえてしまう。気分がささくれ立っている。
小春日和。空には、うっすらとした雲しか漂っていない。空が晴れわたっていることすら、気に食わなかった。
「デート日和だね」
「……そうなのかも」
素直に返事をしている自分に腹が立つ。こんな気分で、今日は一日過ごさなければならないのか。心のなかでしか、ため息をつけない。
電車にゆられ、動物園を目指す。電車内では、夜桜がずっとしゃべり続けていた。
昨日見た動画の話や、学校の先生や友人の話や、コンビニで買っておいしかったスイーツの話。睡蓮には、あまり興味のない話ばかりだった。聞いているあいだも、てきとうな返事になっていた。しかし、夜桜はまったく気にしていないようすだった。
定期的に、夜桜の口からは睡蓮を称賛する言葉が出た。
「こんなにきれいな春待さんの隣に、今日はずっといられるなんて、信じられない! 今日は、あたしが、あたしだけが、春待さんを独占できるんだよね。お兄さんもいないし、学校の人たちもいないもん。最高の一日になりそう。昨日はそわそわして、ぜんぜん眠れなかったの。だから、早起きできたんだ。ふふ、ツイてる。あたしって、中学までは友達の約束なんて、いっつも遅刻ばっかりだったんだけど、春待さんとの約束に遅刻なんて、ぜったいありえないからさ。がんばったの! だからさ、今日だけは、あたしに春待さんを独占させてね?」
夜桜が自分を褒めるたびに睡蓮は、眉間にしわを寄せたが、彼女はまったく気づかなかった。気づく気配もなかった。
動物園の最寄り駅に着き、二人して降りる。そこから歩いて数分で、動物園に到着した。夜桜がチケットを買ってくるといって、走って行ってしまった。
すると少し離れた場所から、男性らの話し声が聞こえてきた。
「あの子、めっちゃよくね?」
「肌、しっろ! 人形じゃん」
「モデルか、なんか? まじやべえー」
ずかずかと、男性らが睡蓮に近づいてきた。睡蓮はまたかと、いつものように防犯ブザーを手に、さっさと立ち去ろうとする。
とたんガッと、腕を掴まれた。顔をあげると、夜桜がいた。
夜桜にぐいぐいと引っ張られる。男たちがぽかんとしているのをしり目に、夜桜に腕を掴まれたまま、睡蓮は動物園に入った。ちらりと後ろを見ると、男性らが首を傾げながら、苦笑いをしていた。ここまでは、追ってこないようだった。
園内に入ったにもかかわらず、睡蓮は夜桜に、ぎゅうぎゅうと腕を掴まれたままだった。夜桜はさらに、ずかずかと園の奥へと歩いていく。カバの展示も、サイの展示も、そっちのけだった。
異常な力で腕を握ってくる夜桜に、睡蓮はいい加減にしてほしいと立ち止まろうとする。
「ちょっと。どこに行くの……?」
しかし夜桜に、無言で引っ張り返されてしまう。手を緩めることも、足を止めることもなかった。
睡蓮は、いらいらしながらも、反抗するのは諦めた。夜桜の機嫌をそこねることほど、面倒なことはないからだ。
いや、すでに、面倒なことになっているのかもしれないが、今はそれを考えたくはなかった。
まだまだ、今日ははじまったばかりだからだ。
園内に入って、五分ほどたったところで、夜桜が建物のなかへ入った。
そこは、動物のはく製や、生態を調査した資料を公開している資料館だった。薄暗く、人の気配はない。あたりを見渡すと、たしかに見学者は、ひとりもいないようだった。みんな、生きている動物のほうに夢中のようだ。
資料館に入ってすぐの、ショーケースの前で、夜桜は睡蓮の手をようやく放した。睡蓮の腕には痛々しい、赤い手跡がついていた。
「いったい、なんなの……っ」
いいおわるや否や、睡蓮は黒い長椅子に、倒れていた。夜桜に、覆いかぶさられている。強いちからで、肩を押さえつけられ、身動きが取れない。逃げようと、身をよじるが、それ以上のちからで、夜桜は睡蓮の細い肩を抱きしめた。
ぎゅうぎゅうと、ぬいぐるみを抱きしめるように、夜桜は睡蓮を絞めつけた。深く、深く、絞め殺されるんじゃないかと思うほどに。
夜桜の心音が、伝わってくる。早鐘のように打ちつけられている心臓が、熱のかたまりのように、睡蓮の体温と混ざり、重なり、同じになっていく。
はく製ばかりの展示たちのなかで、夜桜の小動物のように跳ね回る小さな心臓だけが、この空間で、いちばんの本物だった。
おろし立てのワンピースは、しわくちゃだった。ソファに、横になったせいで、時間をかけて、ていねいに手入れした髪も乱れてしまっている。
夜桜の真っ直ぐになった長い髪が、睡蓮の頬に、すとんと降りかかる。ゆっくりと目を開けて、夜桜を見あげると、ぼろぼろと涙を零していた。せっかくのメイクも、食べかけのデコレーションケーキのようになっていた。
いったい、なんなんだ。
感情を向けられれば、向けられるだけ、自分の感情が覚めていくのを、睡蓮は体感していた。
夜桜のあたたかい心臓だけが、この空間のなかで本物で、氷のように冷えていく、自分の感情は、まるで偽物だった。
夜桜の頬が熱い。夜桜に抱きしめられていると、わずらわしい夏になってしまったかのような気分になる。
「椎名さん……どうしたの」
「春待さんを取られちゃう……あたし、不安で……不安で……」
睡蓮は、ようやく夜桜の肩が震えていることに気づいた。荒々しく胸を上下させ、激しい息を繰り返している。
逃がすまいと、ますます睡蓮のからだを強く抱きしめる、夜桜。
「痛いよ……止めて。落ち着いて、どこにも行かないから」
夜桜の冷たくなった手が、睡蓮の頬に触れた。緊張と恐怖で、湿っている。
「春待さんがいないと、あたし……こ、怖いの」
「どうして? どうしてそんなふうに思うの? わたし、あなたに何もしてあげたこともないし、こんなに執着されるような覚えもないのに」
「……えっ」
夜桜が心底、悲しそうに顔を歪めた。睡蓮は、何も考えずにいったことを後悔していた。なんで、そんな顔をされないといけないのか、睡蓮にはさっぱり理解できなかった。
「春待さんは、あたしのこと、そんなふうに思ってたの?」
「だって……そうでしょ」
夜桜の動きが、ぴたりと止まった。諦めたのかと思ったが、それは違った。
いよいよ、夜桜の涙は滝のようにあふれだし、ひっくひっくと声をあげて、泣き出してしまった。覆いかぶさっている夜桜の涙が、睡蓮の頬や眉間に、ぽたぽたと降り注いだ。
「あ、あたし……やっと春待さんの恋人になれたのに……! 春待さんは、あたしのものになったのに……!」
まるで子どものような、だだのこねかたに、睡蓮は呆れてしまう。抱きしめられた態勢のまま泣き続ける夜桜の髪を、睡蓮は仕方なく撫でてやった。そうするしか、なかった。
それから三十分ほど、資料館に居座ったが、誰も来なかったのは幸運だった。
ようやく泣き止んだ夜桜の目は、泣いたのが丸わかりなほど腫れていた。資料館を出たところに、小さな池があった。そばにベンチもあったので並んで座り、池の鯉をながめた。
けっきょく、園内の動物など一匹も見ずに、お昼の時間になってしまった。
「そろそろ帰る?」
夜桜にたずねると、きょとんとした顔をした。いそいそと、キルティングのショルダーバッグから、大きな四角いものを取り出す。大家族の運動会でしか見られないような、重箱が出てきた。
「お弁当、作ってきたんだ」
「え……」
ふたを開ければ、色とりどりの豪華な料理がお目見えする。
一段目、二段目には、だし巻き卵、ミニハンバーグ、鶏のから揚げ、ちくわの磯部あげ、きんぴらごぼう、コーンサラダ、ぶりの照り焼きが、ぎっしりつまっていた。
三段目には、ちらし寿司いなりが、宝石のように並んでいる。トッピングには、さくらでんぶや、花のかたちに切られた人参、千切り卵。ハムの花びらのようにかざりつけられ、三つ葉がアクセントに乗せられている。
春にぴったりのメニュー。おいしそうなのは間違いなかった。
だが、まだここにいるつもりなのかと、うんざりした気分になったのも事実だ。
「いっしょに食べよ?」
「あ……」
そもそも、得体のしれない彼女が作った食べ物に、手をつけてしまっていいのかと、背筋が冷たくなる。
睡蓮にとって、椎名夜桜への信頼は、ないに等しかった。
「ごめん。わたし、アレルギーが多いんだ。だから、兄が作ったものしか食べられないの」
「え? このお弁当のメニュー、全部?」
「うん」
「わ、わたしががんばって、作ったものなんだよ。それなのに、食べられないの……?」
「学校の給食も、兄が作ったお弁当を持参していたくらいなんだよ。それくらい多いんだ。ごめんね」
すべて嘘だが、杠葉が
夜桜は、また泣きそうな顔をしながらも、睡蓮の言い分に反論することもできず、黙って重箱のふたを閉めた。
「じゃあ、何食べようか? あたし、売店で買って来る!」
「お弁当を食べればいいでしょ。せっかく作ったのに、もったいないよ」
「あっ、春待さんが食べれるもの、やっぱりこのお弁当のなかにあったの?」
「ううん。食べれないよ。でも、わたし、お昼はそんなに必要ないの。朝食をたくさん食べるタイプだから。だから、あなたが食べるところを見ているだけで、お腹いっぱいになれるから、気にしないで食べればいい」
すると、さっきまで落ちこんでいた夜桜が、心の底から嬉しそうに笑った。
「わかった。じゃあ、あたしが食べるところ見ててくれればいいよ!」
動物園のゆるやかな喧騒のなか、夜桜は大きな重箱を、ぱくぱくと元気に食べていった。やがてあれだけあった重箱の料理は、夜桜がほとんど食べ尽くしてしまった。幸せそうに食べる夜桜に、睡蓮はつい質問してしまう。
「なんで、そんなにおいしそうに食べてるの」
「だって、春待さんといっしょに食べてるから」
ご機嫌だ。資料館から出たときの夜桜とは別人のような顔色になっていた。幸せに、あふれている。
資料館であんなことをしてきたのは、お腹が空いていたからなのかもしれない、と睡蓮は納得した。
昼食がおわると夜桜は、睡蓮に猫のような甘えた声でいった。
「あの、さっきみたいに、また頭を撫でてほしいな……」
「どうして、わたしが?」
「あ、安心するから……なんだけど、だめ、かな」
「……わかった」
また、目の前で花を踏みつけにされるような事態には、なりたくない。ベンチに座った睡蓮の膝に、夜桜が頭を寝かせてきた。膝枕状態だ。
それから、頭を撫でる睡蓮に、夜桜はご機嫌でたくさんの話をした。たまに、池を泳ぐ鯉を見に、小さな子どもや老夫婦が近づいてきたが、ふたりのすがたを見ると、逃げるようにどこかへ行ってしまった。睡蓮は、何も思わないようにした。
ただ、この時間が早く過ぎればいいと思い続けた。長い長い時間が、ゆっくりと過ぎていった。
やがて、午後五時。動物園の閉まる時間になった。
夜桜は、やっとその言葉を口にした。
「帰ろうか。春待さん」
睡蓮の、長い長い春の休日が、ようやく幕を閉じた。
夜桜に家の前まで送ってもらった。別れを惜しむ夜桜に、睡蓮は「疲れているから」というと、彼女はさみしそうに手を振って、「またね」といった。
玄関でブーツを脱いだら、どっと疲れが出てきた。
リビングではすでに、杠葉が夕食の支度をしていた。食卓のテーブルに並ぶ、健康的でいて色鮮やかな料理。夜桜が作ったものとは、やはり違う。料理が並ぶ光景に、安心感を覚える。
これが家族の料理なんだと、睡蓮は思った。
「帰ったか」
「うん」
「食事は? 食べてないなら、用意してあるが」
「誘われた。でも、断った」
「……何か、あったのか?」
睡蓮が黙っていると、杠葉は息をついた。睡蓮の肩を押し、ダイニングの定位置に、妹を座らせた。
「話す必要はないさ。ぼくが、心配をする。それをお前は理解していて、いつでもそのことを思い出してくれるなら、ぼくはそれで十分だ」
「……今は、杠葉の作ったごはんを食べたい」
「こんなにうれしい言葉は、ないな。すぐに用意を終わらせよう」
■
また、新たな月曜日を迎えた。
鬱々とした春の授業をのらりくらりと過ごしているうちに、部活の時間となっていた。
席で荷物をまとめていると、夜桜が睡蓮の元へやってきた。顔をあげると、自分よりも高い身長の彼女が、思いつめたような顔をしていた。
「あの、あたしやっぱり……美術部に……入ろうかなって思うんだけど……」
「夜桜さん」
とたん、夜桜のからだに電撃が走る。
甘い砂糖菓子のようなソプラノ。夜の帳のような深い瞳に見つめられ、脳がびりびりと痺れた。
「あなたの演技、評判がいいんでしょ。とても楽しみ。見に行くから」
「うそ……」
夜桜は、玉のような涙をにじませ、感極まったように吐き出した。
「春待さんに、そんなふうに期待してもらえるなんて……。信じられない! あたし、がんばる!」
「うん」
「ぜったい、ぜったい次の公演、見に来て! じゃあ、また後でね。春待さん!」
叫ぶようにいうと、大きく手を振り、夜桜は教室を出て行った。部活の準備があり、時間ギリギリだったのだろう。
ふたりのやりとりを遠巻きに傍観していたクラスメイトたちの、ひそひそ声が聞こえはじめる。
夜桜の人柄のせいもあってか、クラスメイトたちの評価は、睡蓮に集中していた。
それはたしかに、『春待睡蓮が、椎名夜桜を誘惑している』と聞こえた。
だが、睡蓮にとってそれは気にするほどのことでもなかった。そんな噂は、いつものことだった。ショックを受ける必要など、何ひとつない。
毅然とした顔で、さっさと教室を出た。
美術室では、すでに部員たちが作業に入っていた。今年の一年生は、睡蓮だけ。なので、部長直々のマンツーマン指導がはじまった。
「それじゃあ、今日は『自分の心象風景』を描いてください」
心象風景とは、自分の過去の記憶や、夢の中で見て強烈に覚えているもの。心の奥底に眠る風景のことをいうようだ。
部員たちが、悩みつつも鉛筆を動かしているのは、そのテーマが原因らしかった。
睡蓮は、風景画を描くことがすきだった。見たままの風景を自分のフィルターを通して、緻密に描写し、色づけていくことが何より楽しかった。
『自分の心象風景』というテーマを素直に飲みこみ、鉛筆を走らせていく睡蓮。その手つきを、部長であるマーサが静かに見つめていた。
睡蓮が描くのは、自分の部屋だ。小さいころからずっと、趣味に没頭できる、ゆいいつの空間。すきな服、すきな映像作品、すきな雑貨、すきな芸術作品、すきな本を楽しむ空間。ひとりで、あいする世界に浸り、時には杠葉といっしょに楽しむ。この世でいちばん大切な場所が、あの部屋だった。
できあがった睡蓮の作品を見て、マーサも、先輩部員たちも、息をのんだ。睡蓮の絵を見るために、わらわらと絵の周りに集まった。
睡蓮の絵は、うまいのはもちろん、見るものを圧倒するちからがあった。ただそこに描かれているだけではない、物語があった。絵のなかにあるものたちへの
美術室のなかが、ざわざわと騒がしい。睡蓮が戸惑っていると、脇腹をつん、と小突かれた。にっこりと笑っている、マーサがいた。
「春待さんなら、コンクールに出せば、いい成績を残せそうだけど……でもあなたは、そういうものに興味ないだろうねー」
睡蓮は、目を丸くした。
「部長なのに、そういうふうに思うんですね」
「え~? 部長だからって、熱血指導なわけじゃないよ」
「でも、わたしがそういうのに興味がないことまで、わかってるなんて」
「なんとなく、ね。春待さんって、そういう人なのかもなあって」
「……そう、ですか」
夕日に赤く染まる美術室、マーサの無邪気な横顔がオレンジに染まる。不思議な人だ、と睡蓮はくちびるをゆるめた。
部活動終了を告げるチャイムが鳴り響いた。わらわらと部員たちが、帰り支度をはじめる。
「今日の部活はどうだった?」
マーサが睡蓮の顔をのぞきこんだ。まるで子どものような無垢な表情に、睡蓮はいいようのない高揚感を覚えた。
「とても、楽しかったです」
「よかった」
目を細めて笑うマーサに、睡蓮は「それじゃあ、また明日」と挨拶し、美術室を出て行こうとした。
「ねえ」
睡蓮の前に、するりとマーサが回りこむ。
美術室はいつの間にか、睡蓮とマーサ、ふたりだけになっていた。マーサは、後ろ手に首を傾げ、睡蓮を見あげる。
マーサの「はあ」という、息をのむ音が聞こえた。
「わたし、こんなにきれいな肌も髪も声も、映画や絵のなかでしか見たことないよ。まるで、芸術作品みたい」
マーサは、じろじろと睡蓮を観察する。まるで、デッサン対象をじっくりと分析するように。
「あ、あの」
「うわあ。ごめんね。わたし、小さいころから、絵がだいすきで……きれいなものを見ると、こんなふうになっちゃうんだ。失礼だったよね。本当に、ごめんなさい」
「いえ……」
そのとき、廊下から声がした。
「春待さーん。まだ、絵なんて描いてるの?」
聞き慣れた、ハスキーボイス。夜桜だ。睡蓮は、とっさにマーサの手を取って、教卓の下に隠れた。
夜桜に、マーサとふたりきりのところを見られたら、また面倒なことになるかもしれない。それは、どうしても避けたかった。
教卓の下で、魔女見習いのような小さなマーサを抱きこみ、睡蓮は息を潜めた。
「春待さん? ――いない……。お手洗いかなー」
気配が、遠のいていく。思わず、安堵する睡蓮。だがまた、夜桜が戻ってくるかもしれない。安心は、できない。
突然のことで、マーサは驚いたかもしれない。謝ろうと、腕のなかで丸まっているマーサを見ると、なぜか頬をりんごのように紅潮させていた。
「部長。すみません。突然」
「あ……うん」
マーサの心臓は、まるでおもちゃの太鼓のように、早鐘を打っていた。壊れてしまったのかもしれない。
目の前にいる、神の奇跡のような美術作品に触れてしまったから。