朝、起きると、睡蓮はいつの間にか、ベッドで眠っていたことに気がついた。
すぐに杠葉が運んでくれたんだろうということを理解した。幼いころだったら、よくあることですんだのかもしれないが、もう高校生になったというのに、と恥ずかしくなる。寝落ちして、ベッドに運ばれるなんて、幼稚園児のようじゃないか。どうせなら、きちんと起こしてくれればいいのに。いまだに杠葉は、自分を子どもと思っていることに、朝からもやもやしてしまう。
リビングへ行くと、杠葉が朝食を作っていた。時計を見ると、まだ六時だった。杠葉へのもやもやのせいで、時計を見るのを忘れていた。
「もう起きたのか。スイ」
「……誰かさんが、いじわるをしたせいでね」
「ああ、勝手にベッドに運んだことを怒ってるのか」
「当たり前。もうわたし、高校生なのに」
「すねるなよ。まだ、時間はあるだろう。ゆっくり身支度をしてきたらどうだ」
「でも」
「あの子が来たら、今日は先に行ってくれって、いっておいてやるから」
顔をあげると、杠葉が穏やかにほほ笑んでいた。なんだか、安心してしまう。こんな言葉で、兄への信頼が一気に回復してしまって、自分の単純さに呆れてしまう。いや、違う。目の前のこの人が、これまでずっと自分のそばにいてくれたから、そう思えるのだろう。この人だけは、自分を見捨てない。
だってこの人は、血を分けた、自分の家族なのだから。
こくりと頷き、睡蓮は洗面所に向かった。お気に入りのブラシで、大切な髪をていねいに解く。窓から、やわらかな温度が差しこんでいる。あたたかな陽気がからだに染み渡っていく感じがした。
いつもよりも時間をかけて身支度していると、玄関のチャイムが鳴った。
夜桜が来たのだろう。ずいぶん、来るのが早い。杠葉が玄関に出る気配を感じた。
一分もたたずに、ガチャリと玄関のドアが閉まった。トントン、と洗面所のドアがノックされた。
「スイ。あの子、先に行かせた」
「ありがとう……杠葉」
椎名夜桜は、先に登校した。それでも、自分の顔がこわばっていくのを感じた。これがいやな予感、というものだろうか。
洗面所を出ると、杠葉が立っていた。
「遅刻してもいいだろう。ココアをいれた。マシュマロも用意したぞ。ゆっくりと飲んでから、行くといい」
「いいの? 遅刻しちゃって。入学早々に」
「当たり前だろう。ぼくは、そんな顔をしている妹を黙って学校に行かせるような、ひどい兄じゃない。お前が死ぬまで、ずっとずっと、お前のやさしい兄でいたい」
ダイニングテーブルに座った睡蓮の前に、ふんわりとした湯気をたたせたホットココアが出てきた。小さなマシュマロが小皿に乗って、いっしょに置かれる。
「ぼくが乗せてやろうか」
「子ども扱いしないで。自分でできる」
「ぼくがやりたいんだよ。やらせて、ね?」
「……ひどくわがままな兄だね」
睡蓮は、まゆを下げると、「どうぞ」とばかりに手のひらをカップに向けた。杠葉はうれしそうに笑うと、マシュマロをゆったりと指揮をするようにココアに入れていく。睡蓮はそれを、オーケストラを聞くような気分でながめていた。
■
もちろん、睡蓮は遅刻をした。
すでに時計の針は、一時間目が終わろうかという時刻を指していた。だが、杠葉が学校に電話を入れてくれたので、問題はない。送っていくときかない杠葉を放って、睡蓮はさっさと家を出た。
学校の最寄駅に着くと、近くの弁当屋の影から、こちらを見ているセーラー服の女子がいた。椎名夜桜だ。
夜桜は睡蓮の姿を見つけると、嬉しそうに大きく手を振った。昨日のシーンが脳内によみがえる。庭の花を踏みつけにする、夜桜のすがたが。
睡蓮は、背筋がゾッとしたのを気づかないふりをした。夜桜と、すでに視線が合ってしまっている。無視を決めこむわけにもいかなかった。
「春待さん。待ってたよ」
「……もう授業、はじまってるんじゃない」
「授業なんて、いいじゃん。春待さんのお兄さんがね、なんでかわからないけど、『先に行け、先に行け』って、うるさかったの。だから、先にここまで来ちゃったんだ。ごめんね。せめて、ここからでも春待さんと、いっしょに行こうと思って! ふふ、待ってたんだ!」
夜桜がにっこりと笑う顔は、本来はきっと花が咲いたように愛らしいものなのだと思う。しかし、そんな夜桜の笑顔は、今の睡蓮に、何の感情も湧きあがらせることはなかった。
ふと、睡蓮は気づいた。夜桜のすがたに、違和感を感じたのだ。
「あなた、その髪……どうしたの?」
夜桜のトレードマークであった天然パーマが、真っ直ぐに伸びていた。ツヤツヤとした、美しい直毛になっている。
くるくるだった夜桜の髪は、今、背中の肩甲骨のあたりまでになっていた。
睡蓮に髪を指摘され、夜桜は嬉しさに破顔した。「えへへ」と笑って、髪をさらりとひと撫でした。
「気づいてくれた!」
睡蓮の顔の前につめ寄ると、髪を一房手に取り、ペラペラと早口で巻くしたてた。
「デートのときにね、春待さんの横に並んでも、恥ずかしくないように、美容院で縮毛矯正をかけてきたの! あんなくるくるの髪、本当はあたし、大っきらいだったんだ。だって、春待さんみたいに、上品じゃないでしょ? でも、これでやっと春待さんみたいなきれいロングヘアになれた! 予約がなかなかとれない美容師さんにやってもらったから、二万円くらいかかったけれどね。ねえ、どう? ねえ? 春待さん!」
「えーと、いいんじゃない……」
「本当?」
「うん」
「ふふ! 嬉しい! 今度ね、エステにも行くの! もっともっときれいになって、はやく春待さんと釣りあう女の子にならなくちゃね!」
サラサラになった髪の毛をなでながら、夜桜は心の底から幸せそうにいった。
「今度のデートの日までに、少しだけでもきれいになっておかなくちゃ。今のまんまじゃ、春待さんの横に並べない!」
夜桜は、睡蓮の白くて、すべらかな手を取った。
「さあ、学校に行こう。二限目が、はじまっちゃう」
睡蓮の手を引いて、走り出す夜桜。ストレートロングになった夜桜の髪が、等しく円を描いた。
さらりとなびく、その乾いた音が、睡蓮の耳にいやにこびりついた。
■
金曜日。いよいよ明後日が、夜桜と出かける日だ。睡蓮はその日、鬱々とした気分で一日を過ごした。
授業後、さっさと帰ろうかと、荷物をまとめていたところ、担任の教師に職員室へと呼ばれた。
まだ、入る部活を決めていなかったためらしい。十六夜女子高等学校は少し、お堅い校風の学校で、生徒の健康的な精神形成を目的とし、部活の入部を義務づけていた。今日が、入部希望届を提出する締め切り日だったらしい。
「もう出してないのは、春待さんだけなんだけど……どこか入りたい部活はない?」
担任の鈴鳴先生が、困ったようにいった。
「いちおう、考えてはみましたが、けっきょくなくて」
「見学は? 行ってみたりした?」
「……忙しくて、行けませんでした」
ここ最近、椎名夜桜のことで頭がいっぱいだった睡蓮は、部活動を決めるどころではなかったことはたしかだ。だが、鈴鳴先生の前で、それをいいわけにすることはしたくなかった。
部活動を決めかねていた理由は、他にもあった。もしかしたら、夜桜と同じ部活に入ってしまうかもしれない、ということだった。
これ以上、夜桜と同じ時間を共有することは、睡蓮の望むところではなかった。むしろ、それを恐れた。
「何か、興味のあることはない? スポーツとか、音楽とか」
鈴鳴先生が、白紙の入部届を見つめながら、たずねてきた。
「興味のあることは、たくさんあります。多趣味なので」
「たしかに、それなら部活動に入る時間はないかもしれないけど……ごめんなさい。この学校の規則は古めかしいから……そういう理由では、なかなか特例というわけにはいかなくてねえ」
「もちろん、わかってます」
「仲のいい友達は、まだできていない? ほら。最近、いっしょに登校している、椎名さんとか。彼女は、演劇部に入ったんでしょう?」
どくん、と心臓がはねた。
椎名夜桜は、演劇部に入ったらしい。だったらもう、なにも躊躇する必要はない。目の前の壁は、すっかりとなくなってしまったのだから。
「……先生。わたし最近、絵を描くことに、とても興味があります」
「なんだ。春待さん、知らなかったの? この十六夜女子高等学校には、美術部があることを」
鈴鳴先生は安心したように、入部届を睡蓮にわたした。シャーペンを借りると、入部届にさらさらと『美術部』と書きこんでいく。名前の記入も忘れずにすませると、一気に胸がスッとした。
もしかしたら、部活の居残りを理由に、夜桜との時間が減るかもしれない。それはとても、喜ばしいことだ。
しかし、職員室を出たあと、すぐに釈然としないモヤモヤした気持ちが沸き起こる。
睡蓮がこの学校に入学することを決めた理由のひとつに、入学説明会で美術部の作品を見たから、というものがある。高校生とは思えないような、レベルの高い作品が多く、睡蓮は心を打たれた。中学を卒業したら、この高校の美術部に入ってもいい、と思うほどに。
だから、立ちはだかるものがなければ、睡蓮はとっくに美術部に入っていたのだ。ようやくさっき入部でき、安堵したところだったのに。
何やら、違和感がぬぐえないのだ。
なぜ、椎名夜桜は、自分に相談せず、さっさと部活に入ったのだろう?
あんなに、自分に執着心を抱いている彼女が、さっさと部活を決めているなんて、矛盾しているような気がする。いつもの行動パターンを考えれば、「入る部活はいっしょにしたいな」なんて、いいそうなものなのに。
ただの自意識過剰なら、それでいい。せっかく美術部に入れたのだ。
今は、細かいことを考えるのは、やめよう。
鈴鳴先生が、入部届をトントンと人差し指で突いた。
「じゃあさっそく、部活に行ってね」
「えっ、今からですか?」
「だから、急いで決めてもらったんだよ。部活。今日から一ヶ月、仮入部期間!」
「ああ……そういうことですか」
「教室に、鞄を取っておいで。美術室に行って、部活を体験したら、そのまま帰っていいよ」
「……わかりました」
美術室は、校舎の三階。西側一番奥の、教室だった。
静かに扉を開けると、十数人ていど部員たちが石膏像を囲い、キャンバスに向かっているところだった。
睡蓮の存在に気づいた女子が、そばに寄ってきた。赤茶の髪、蝋燭のように白い肌、なにやら全体的に色素が薄い。身長は睡蓮の胸ぐらい、この美術室で一番、低身長だった。
「新入部員?」
「はい」
「今、デッサンの真っ最中なんだ。キャンバスで絵を描いたことは?」
「何度かあります」
「なら、もう説明は不要だね。部長の島袋
手招きされた、副部長といわれた女子がマーサの隣に並んだ。睡蓮よりも頭ひとつ分、高い身長。腰まである、ウェーブがかった長い黒髪。すらっとしたワシ鼻、切れ長の瞳。魔女がこの場にいたとしたら、こんな顔立ちなのかもしれないと、睡蓮は思った。
「副部長の、白銀
ミレーに会釈をされ、睡蓮もそっと会釈を返した。
マーサとミレーが並ぶと、美しい魔女とかわいい魔女見習いのようになった。このふたりが並ぶと、さながら映画から飛びだしてきたかのような見映えがあった。
その日は、部員たちのデッサンを見学させてもらいながら、もらった画用紙に鉛筆のデッサンをした。
描きあげたものをマーサに見せると、目を見開いてこういった。
「仮入部が終わったら、ぜひ正式に入部してほしいな。わたし、もっとあなたの絵が見たい!」
そのあとは、美術部の活動内容などを聞き、下校時刻となった。
ふと睡蓮は、気になったことをミレーにたずねた。
「あの、他の新入部員は、誰かいるんですか……?」
「それが、今年からコミック制作部っていう部活が新設されてね。絵を描きたい子は、みんなそっちに行っちゃったみたいで……。実は、うちの部、もともと去年までは三十人くらいいたんだよね。それが、今年できたコミック制作部に二十人くらいとられちゃってさ。新入部員が来なかったらどうしよう~って、みんなでいい合ってたところだったんだよ。だから……」
マーサは、睡蓮に手を差し出し、満開の笑顔を浮かべた。その表情に、まるであたたかな光のなかに包まれるような気持ちになる。
この人には、影がない。いっしょのところにいるのに、まったく違う場所に立っているみたいだ。気づくと睡蓮の鼓動は、早鐘のように打たれていた。
「うちの部に入ってくれて、ありがとうね。春待さん!」
「は、はい……」
睡蓮は、生まれてはじめて、誰かと握手をした。マーサの手は小さくて、なめらかな和菓子に触れているような気分になった。
ミレーにも挨拶をし、鞄を手に取った。西日の差しこむ美術室を出て、二階への階段をおりていく。
踊り場に、ひとりの女子が立っていた。
椎名夜桜が恨めしそうに、睡蓮を見あげていた。
夜桜のからだが、ブルブルと震えている。顔も真っ赤で、目は充血していた。夕日のせいだろうか、と思ったが違う。
怒っているのだ、と気づいたときには、ドスドスと音を立てながら、睡蓮をジッと見据え、階段を駆け登ってきていた。
睡蓮の目の前に顔を近づける、夜桜。その目に涙がたまっている、と思ったとき――パシッという、乾いた音がした。
睡蓮は、夜桜に頬を叩かれていた。誰かに、平手打ちをされたのは、はじめてだ。今日ははじめて尽くしだなと、ぼんやり思う。直後はあんまり痛くなくて、だんだんと、ジンジンとした痛みが広がってくるのだと知った。
睡蓮の雪原のような肌に、赤い跡がじんわりと広がる。その長いまつ毛を揺らし、瞬きを二回した。
顔をあげようとして、夜桜のガクガクと震える手が、視界に入った。見たくない、と思った。動悸が激しくなる。なんで、彼女は自分に、こんなことをするのだろうという絶望感が、夜桜を視界に入れることすら拒否させた。
夜桜が、睡蓮の細く柔らかな手首を力いっぱい握った。痛みに顔をしかめる、睡蓮。
「どうして……?」
わけが、わからなかった。睡蓮はかたちのよい唇を引きつらせる。夜桜が、なにをいおうとしているのかが、さっぱりわからかった。
「待ってたのに。演劇部に来るのを……」
「え?」
「あたしが演劇部をすきなこと、知ってるでしょ? だから、待ってたのに」
たしかに、鈴鳴先生から聞いていたから、彼女が演劇部に入ったことは知っている。
だが、知っている情報はそれだけだ。出会ってたったの一週間しか経っていない椎名夜桜が「演劇すき」だという情報など知るよしもない。
睡蓮が黙りこんでいると、夜桜の真っ直ぐになった髪が、夕陽によって鈍く光った。彼女が感情をあらわにするたびに、その髪がゆらゆらと左右に揺れた。
「春待さん……。美術部に入ったって、本当?」
「……あ」
「どうなの?」
「そうだけど……」
「どうして? あたしは演劇部に入ったのに」
夜桜が、ぽろぽろと涙を零しはじめた。ひっくひっくと鳴き声をあげ、興奮気味の顔は赤らみ、ぎゅうと手を力強く握りこんでいる。
「……ひどい。ひどい、ひどい!」
踊り場の壁をダンッダンッ、と蹴り飛ばし、癇癪を起こしている。面倒なことになってしまった、と睡蓮は眉間にしわを寄せた。
悲鳴のように叫んだあと、階段の踊り場に蹲ってしまう。夜桜の真っ直ぐになった髪が、背中からさらりと落ち、踊り場に広がった。
睡蓮に憧れ、睡蓮を愛し、ゆえに、真っ直ぐになったあの髪が。
夜桜。
笑顔あふれる、太陽の存在。己の感性を貫く、幸せな人。人懐っこく、はじけるような笑顔で、クラスに光をもたらしている。
自分は、誰ともなれあわず、ひとり、部屋で趣味に没頭している。
いうなれば、影のような存在だ。
彼女とは、対照的な。
「夜桜さん」
パッと、夜桜が顔をあげた。涙に濡れた、ぐしゃぐしゃの顔。
睡蓮に名前を呼ばれた。それだけで、夜桜のささくれだった心が、癒されていく。
睡蓮の、すみれの砂糖漬けのような声色で、名前を紡いでもらえる。それは夢のようなことだった。
踊り場に蹲っていた夜桜の足元へ、睡蓮が膝を折り、近づいた。夜桜が、あからさまに戸惑った反応を見せる。
「は、ははは春待……さん」
信じられない、とでもいいたげに、夜桜はしりごみする。
「あなたの恋人に、なればいいの?」
「……へっ?」
夜桜は、過呼吸気味に何かを口にしようとしていた。苦しそうに息継ぎをし、目を更に血走らせながら、睡蓮に鼻先がつくほどに、距離を縮める。
「そ、そうっ! そうっ」
「じゃあ、なりましょう」
「えっ、あ、う……。じゃ、じゃあ、あ、あの、連絡先、を……」
「持っていないの。連絡があるなら、家にかけて」
睡蓮は生徒手帳の白紙のページに、スラスラと家の電話番号を書いて、夜桜に渡した。
もらった睡蓮のメモを、夜桜はまじまじと見つめる。
ハッキリとした留め、ハネ、はらい。お手本のような、うつくしい文字の羅列。想像していた通りの文字に、夜桜は胸を高鳴らせた。
「うれしい……! ねえ、春待さん」
「なに?」
「ちゅーさせて」
いいおわったと当時に、夜桜はくちびるを、睡蓮のものを重ねていた。深く、深く、沈んでいくようなくちづけは、柔らかく、あたたかい。睡蓮は、まるでお気に入りの毛布に包まれているような心地だった。
しかし、睡蓮には、何の感情もわいてきていなかった。ただただ、その時間がおわるのを、じっと待っているだけだった。