椎名夜桜は、しあわせだった。
優しい、両親。部屋の音楽再生機器から流れる流行の歌と、木漏れ日に溢れた、ぬくもりの家。笑顔で過ごす食卓には、色とりどりのごはんがたっぷりと並ぶ。それが、当たり前だった。幸福に満ちていた。
しかし、自分には何かが足りない。いつも、自分の欠落した何かがわからないまま、夜桜は日々を過ごしていた。
両親は、夜桜を甘やかした。
大切なひとり娘だからと、何でも買い与えた。危険なことは一切させなかった。包丁は決して、待たせないので、料理をしたことがない。海やキャンプ、川遊びなども、事故が起きたら取り返しがつかない、と行ったことがなかった。いつも、両親の目の届くところで、夜桜は安全な遊びだけをしていた。それを心のどこかで疑問に思いながらも、夜桜は両親のいう通りにして、健やかに育った。
高校に入学する前の、三月上旬のころだった。
街を歩いていて、ふと目の前を歩いていた人に、夜桜の心臓がどくんとはねた。夜空の闇のような美しい黒髪。陶器のような透き通った肌。薄いくちびるは色づいた果実のように甘そうだった。整った長いまつ毛の奥にある、大きな丸い瞳は黒水晶のようで、どこか遠くを、愁いを帯びて見つめている。
信じられない、と思った。
こんなにきれいな人が、あたしと同じ世界を息をして、生きているの? どんなものを食べているの? 音楽は何を聞くの? どんなご両親から生まれたの? どんな人間になれば、お友達になれるの? ……お付き合いしている人はいるの?
ああ、気になる! 気になる! 彼女のことが知りたい!
……どんなことだって知りたい。
気づいたら、彼女の前の中学のことを調べあげていた。彼女の同級生たちに、彼女のことを聞いて回った。
名前、住所、好きな食べ物、好きな本、好きな映画、好きな音楽。彼女のことを知っていくたびに、自分のなかの彼女が増えていく快感が堪らなかった。彼女という存在で、自分のなかが満たされていくことに幸福感を抱いていた。
同時に、
どうすれば、彼女は自分のものになってくれるのだろう。まずは、自分の思いを伝えないといけない。自分の真剣な気持ちを伝えれば、彼女はわかってくれるだろう。いつだってそうだった。本気な気持ちで話しあえば、相手はわかってくれるのだから。
手紙だ。相手に思いを伝えるには、手紙が一番いい。でも、いきなりの手紙で、彼女を吃驚させないように、わかりやすい内容にしよう。
第一印象は、よくしたい。自分たちは気があうんだと思ってもらいたい。そうだ。彼女の好きな香水、ジャスミンの紅茶のフレグランスを手紙に振りかけよう。好みがいっしょの相手なら、文句なしの相手だと思ってもらえる。すぐに、好きになってくれるでしょう。
手紙を完成させ、すぐにポストに投函しに行った。そのまま、彼女の家のポストに入れてもよかった。でも、さすがにすぐに読んでもらうのは、ちょっぴり恥ずかしい。
ああ、ホッとしたからか、不愉快なことを思い出してしまった。彼女の同級生の家に話を聞きに行ったとき、聞き捨てならないことをいわれたのだ。名前は忘れた。茶髪で日焼けをした、下品そうな女子だ。
「まーた、春待さんのストーカーかあ。もう、止めてあげな。そういうの、きらわれるよ」
もちろん、その女から話を聞くのは止めた。腹が立ったので、そいつの家の花壇に咲いていたパンジーを二、三本踏みつけてから帰った。
こんなに真剣にやっていることの、どこかストーカーなのだ。本気で、純粋な気持ちで、彼女のことがすきで、やっていることのどこが犯罪なのだ。汚らわしい。許せない。いらいらする。失礼極まりない。
しかも「止めてあげな。そういうの、きらわれるよ」とはどういうことだ。
なれなれしい! 友達気どりか! 彼女にふさわしくない!
つまり、彼女の尊さを一番に理解しているのは、自分だけ。
「あたしが、春待さんを守らないと、あぶない。もしかしたら、まだ、彼女は自分の尊さに気づいていないかもしれない。気づいてしまったら、大変なことになってしまう。大丈夫、あたしがいる。ぜったいに、変なやつらなんか、近づけさせない」
春待さん。
あたしだけが、あなたのことをこんなにも愛しているの。
■
春の空だ。いまいましく青く澄み渡っている、雲ひとつない快晴。
睡蓮は少し早く家を出て、自宅の門の前に立っていた。夜桜に伝えなければいけないことがある。日曜日のことだ。美綴との約束ができたため、断らないといけない。夜桜に、むりやり取りつけられた約束とはいえ、無下にはできない。穏便に断るための文句を考えながら、春の空をながめていた。
夜桜との約束をわざわざこっちから、丁重に断らないといけない。そのせいで朝から欝々とした気分だったのだ。そのせいでリビングに現れた杠葉に笑わてしまった。家を出るときも、ふき出されながら「いってらっしゃい」といわれたので、無視をしてやった。
ぬるい空気のなか、カラスアゲハがヒラヒラと飛んでいく。庭の赤いチューリップにとまったとき、夜桜のカラッとしたハスキーな声が聞こえた。
「おはよう、春待さん。今日もすばらしくいい天気ね」
春風のようなあたたかな声色で、にっこりとほほ笑む夜桜に、睡蓮もふわりと笑みを浮かべた。
「おはよう、椎名さん」
「今日は早いんだね。いつもだったらこの時間にチャイムを鳴らしても、お兄さんにまだ寝てるよって、いわれるのに」
「まあね。あなたにいわなければならないことができたから」
すると、夜桜は瞳を目いっぱいに開いて、ぱあっと顔を輝かせた。
「ええっ! ……なあに? あたしにいいたいことって、なあに?」
急に身を乗り出してきた夜桜に、睡蓮は息をつまらせた。夜桜は勘違いをしている。自分の都合のいいほうに解釈して、睡蓮に期待をしている。
このままでは、角が立ってしまう。のちのち、面倒なことになるかも知れない。朝から、どういういい方をすれば、夜桜を傷つけずに約束を断れるだろうと考えてきた。
しかし、むりなのだ。どんなに気を使ったいい回しをしても、夜桜のことを傷つけてしまうことには違いない。
もう、考えるのは止めよう。睡蓮は、まっすぐに気持ちを伝えることにした。
「日曜日の予定だけど……ごめんなさい。やはり行けない」
「……え?」
夜桜の太陽のような笑顔が瞬間、蠟燭のように消えてしまった。睡蓮は、構わず続けた。
「大切な予定が出来たの。先約はあなただったかも知れないけれど、こちらの予定は他の日には動かせないみたいでね。だから、申し訳ないけれど、あなたとの約束はキャンセルさせてほしいの」
「予定って、どんな予定なの?」
「それは、プライベートなものだから、教えられない」
「キャンセルなんておかしいでしょ! 先約はあたしなのに!」
とたん、睡蓮の足元から、鈍い音がした。夜桜が春待家の門を蹴りつけたのだ。睡蓮は驚いて、思わず後ずさった。
心臓が、どくんどくんと飛び跳ねている。夜桜は、自己中心的な部分が多少はあったかも知れないが、基本は明るくて、人懐っこい、例えるなら大きな犬のような子なのだと思いこんでいた。
こんなふうに、怒りをあらわにしてくるような一面があったなんて、想像もしていなかった。
睡蓮は、夜桜が恐ろしくなった。
とりあえず、家のなかに入ろうと、身をひるがえした。まだ、家のなかには杠葉がいる。門のなかに滑りこみ、飛びつくようにして、ガチャリとドアを引いた。カギがかかっていて、開かない。杠葉が、かけたのだ。
そうか。さっき、今日の仕事は遅番だといっていた。睡蓮を送り出したあと、鍵をかけ、部屋に戻ったのだ。二度寝をするために。
寝ぎたない杠葉め。ここで大声を出せば、杠葉は起きるだろう。しかし、ご近所にこの状況がバレることは、なんとなく避けたい。
睡蓮が逡巡している横で、夜桜は落ち着かないとばかりに、庭のチューリップを踏みつけてにしていた。目に涙をためながら、「うう、うう」と苦しそうに土を蹴りあげ、花壇を荒らしている。その瞳は、焦点が定まらず、一目でいつもの彼女ではないことがわかった。
夜桜の暴挙に、睡蓮はなすすべがなかった。花の命を文字通りに踏みにじっていく夜桜のことが、まったくわからなかった。どうしてこんなことをしてしまうのか、理解できなかった。そして、彼女のことをわかりたいとは思えなかった。
とにかく、この場を一刻も終わらせ、立ち去りたい。そのことだけを考えていた。
今、自分は、どうするべきなのだろう。夜桜に、かけるべき言葉はなんだろう。睡蓮は、緊張感のなか、懸命に考えた。
「
夜桜のからだが、ぴたりと止まった。そして、ゆっくりと夜桜の、墨を流したような瞳が睡蓮を捕えた。
「わかった。あなたの予定を優先させるから……もう、そんなことをするのは止めて」
自分を落ちつけようと、ゆっくり、ゆっくりと、夜桜は息を吐いていた。「はあ、はあ」と肩で息をしているものの、次第にその瞳は、落ち着きを取り戻していく。そうとうな、興奮状態だったようだ。
「そ……それじゃあ……予定は……変わらないの?」
「ええ」
「春待さんは……あたしを……あたしを……選んでくれたの……?」
「そう」
「ああ……よかった……。それじゃあ……学校に行きましょうか。あたしたち、ふたりで……いっしょに」
夜桜が、睡蓮の手を強く握った。
とても嬉しそうに、へらっと笑う夜桜に、睡蓮は何もいえなかった。睡蓮は夜桜に決して気づかれないような、小さな溜息をついた。
学校から帰ったら、美綴に電話をしなければならない。
ぬけるような青空が広がっている。春らしい、低い空。これじゃあ、夜桜がいらいらするのも無理はないのかもしれない。
睡蓮は、そう思うことにした。
■
その日の夜。ルームウェアに着替えた睡蓮は、ソファに座り、杠葉のスマホをにらめっこをしていた。
スマホを持たない睡蓮は、杠葉のスマホを借り、慣れない操作に悪戦苦闘している。美綴に、電話をかけるためだ。
以前、美綴から教えてもらっていた、電話番号が書かれたメモを見つつ、キーパッドを押していく。
美綴は、コール三回で電話に出た。
日曜日の都合がわるくなったことを伝えると、美綴は残念そうに、笑って許してくれた。
「じゃあ、いつならいい? なんて……聞いてもいいかな」
「その日以外なら、いつでも」
「オーケー。また誘わせてもらうよ。店には、いつでもいるから。もちろん、買い物じゃなくてもいいよ。いつでも来て」
「ありがとうございます。また寄らせてもらいますね。それじゃあ」
「うん。またね、春待さん」
電話を切ると、睡蓮の口から零れ落ちるように、またため息が出た。美綴なら、許してくれるだろうとは思っていた。問題は、そこではなかった
ただ、単純に美綴との時間が楽しみだったのだ。お気に入りの店の服を、たくさん着ることができる、貴重な時間だったのに。落ちこむしかなかった。
杠葉がソファに座ったまま動かなくなった睡蓮を、心配そうにのぞきこんだ。
「スイ、どうした……暗い顔だな。まあ、いつものことか」
「ねえ……朝、わたしを送ったあとは……部屋で寝てた?」
「そうだ。それがどうした。いつものことだろう」
「そうだけど」
睡蓮の隣に、杠葉がそっと座った。睡蓮の小さな頭に、杠葉の大きな手が乗せられる。よしよし、と頭をなでられた。
「おや? おとなしいな。拒否しないのか。いつもだったら、小さいころのように接するぼくの手を、猫のように振り払うくせに」
「……疲れてるの」
「彼女のことか。ぼくの出番は?」
「……誰にも、どうすることもできないと思う。できるしたら、それはわたしだけなのかもしれない」
「それは、困ったな」
「だから、困ってるの」
杠葉の膝に頭を乗せ、睡蓮はソファの上で身を丸くする。
こんなに人間関係で悩んだのは、人生で初めてだった。こんなことは、これまでに何回もあった。そのときは、こっちが素っ気なくし続けていれば、相手は勝手に身を引いてくれた。少し面倒な人間であっても、態度に示していれば、いつかは理解してくれた。
中学までの登下校も、杠葉がずっと送迎してくれていたので、トラブルにも巻きこまれにくかった。
「でも……もう、それはむりだしね」
「……スイ?」
「何でもない……」
「……落ちこんでいるな。そうだ、明日は買い物にでも行くか。スイがすきな『HORN』のシフォンケーキを買ってやろうか」
「……いらない」
「そうかあ……」
がっかりしている杠葉は、それでも睡蓮の頭をやさしくなで続けた。そのあたたかさに、睡蓮は少しだけほほ笑んだ。
しばらくそうしていると、睡蓮は寝息を立てはじめた。精神的にそうとう、参っていたのだろう。
そもそも睡蓮が交友関係を持たないのは、精神が極度に弱いことにもある。睡蓮は幼いころから、他人の心ない言葉で傷つけられてきた。
美しい見た目、うるんだ瞳、艶やかな黒髪、色づいた頬。か細いからだに、魅力的な仕草、達観した口調に、大人びた振る舞い。
昔から、「きれいだ」、「美しい子だ」と、多くの人間に愛されてきた。それと同じくらい、ひどく妬まれてきた。まだ幼い睡蓮に嫉妬した人々は、理不尽な罵声を浴びせた。
はじめは、小学生のころだった。睡蓮を中心に、ひと騒動あった。そのとき、多くの人々が、睡蓮を敬遠し、離れて行った。
睡蓮は思い知った。自分の存在は、他人の人生を狂わせるのだ、と。その事実がとても辛かった。
もう、同じようなことで悩みたくなかった。
それから、一切の人間関係を持つのを止めた。
ひとりの時間を楽しく、充実して過ごせるのであれば、人間関係など、なくていい。なんの弊害もない。むしろ、人間関係なんて趣味の時間を蝕むだけだ。時間のむだだ。友人と遊んでいるヒマがあるなら、映画を一本でも多く見たほうがいいに決まっている。
睡蓮は、そう思うようにした。
眠ってしまった睡蓮を横に抱きかかえ、杠葉はソファから立ちあがった。睡蓮の部屋までつれて行くと、ベッドにそっとおろした。髪を整えてやると、掛布団をそっとかけてやる。
睡蓮のひたいにかかった前髪をするりと梳いたあと、頬をなで、つぶやいた。
「おやすみ、睡蓮」
部屋の電気を消し、音を立てないよう、扉を閉めた。
睡蓮の部屋に、夜の闇がおりた。