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episode2 あたしを忘れないで

 やっと家にたどりつき、睡蓮はセーラー服のまま、リビングのソファに沈みこんだ。長い黒髪がセーラーカラーから、さらりとソファに流れる。

 同時に帰ってきた兄が、心配そうに顔をしかめた。

「スイ、どうした?」

 杠葉の大きな手のひらが、睡蓮の頬にそっと添えられた。熱でもあるのかと思ったのだろう。こういうときは、ちゃんと兄をやるところが、きちんと杠葉をあしらいきれない理由だった。

「入学そうそう、へんな子に声をかけられちゃったの」

「なんだって? どんなやつだ」

「このあいだ、衣替えをしているとき、杠葉が持ってきた手紙の子」

「なんて声をかけられたんだ」

「愛してるって」

「お前をこの世でいちばん愛しているのは、このぼくだ」

 杠葉は怒った声色で、ソファに横たわる睡蓮のそばに、そっと座った。

「真剣にいってるの? ふざけてるの?」

 睡蓮は深く、ため息をついた。

「これだから、春はいやだ」


 ■


 クラスでひとりを貫いている睡蓮とは反対に、夜桜はクラスメイトたちとうまくやっていっているようだった。もともと、人懐っこい性格らしい。夜桜の明るく、憎めない人柄は、クラスにうまく馴染んでいた。

 入学式であんなことをいってきた夜桜だったので、他の人間にはどんな態度をとるのかと注意していたが、ふだんはそんな問題児ではないようだった。

 万が一、教室内でおかしなことをいってきたり、不審な行動を取ってきたら、迷わず職員室に放りこむつもりだったが、そんなことをする必要は今のところないようだ。

 しかし、教室外では、そうはいかないらしかった。

 あの日以降、朝、睡蓮が家から出ると、門の前で夜桜が待っているようになったのだ。帰りも、教室から出たとたん、それまでは一切、話かけてこなかった夜桜が、するりと近づいてきて、「一緒に帰ろう」といってくる。

 どういうつもりなのかわからなかった。

 この時間までは、問題のないそぶりをしていたくせに、登下校の時間だけは、邪魔をしてくるなんて。

 通学路の公園の前で、着いてくるだけの夜桜を振り返ることもせず、睡蓮はいった。

「なんで、登下校中だけ、からんでくるの」

「だって、教室では話しかけられたくないでしょ?」

「……どういうこと?」

「あたし、春待さんのこと、なんでも知ってるの」

 たしかに、夜桜には住所まで突き止められている。教室でのクラスメイトへの、あの明るい、人懐っこい態度は、ふりなのだろうか。

 椎名夜桜とは、何者なのか。

「どうして、そんなにわたしにかまうの?」

「……どうしてって、好きだから。愛してるから、そばにいたいの。それだけ」

「……本気なの?」

「当たり前!」

 また、両手を握られそうになり、あわてて避ける。夜桜の両手が空振り、道路によろける。反射的に手を引いて夜桜を助けそうになり、グッと手を引っこめた。

 ふらりと、夜桜が顔をあげ、睡蓮に熱っぽい視線を送った。

「……やさしい」

「助けてない。いっさい触ってない」

「ふふ。それでも、うれしいの」

 これ以上は付き合ってられないと、睡蓮は走り出した。夜桜は、追ってこなかった。遠くのほうで、夜桜の「また明日ね」という、声が聞こえた。

 電車に飛び乗り、長く息を吐いた。呼吸を整える。駅のホームには、知らない顔ばかりが並んでいた。夜桜はいない。

 今日は、お気に入りのショップで予約していた、春物のワンピースを取りに行くのだ。春物で珍しく気に入った、丸襟の紺色ワンピース。

 憂鬱な春での、唯一のうれしい出会い。ようやく、気分が上向きになってきた。いったん、夜桜のことは忘れよう。春のワンピースを、笑顔で出迎えるために。


 何度か電車を乗り換え、目的の駅に着いた。十五分ほど歩いた所にある、ビルの三階に、睡蓮の行きつけのショップがあった。

 ローファーで階段を軽やかに登っていく。三階に着くと、そっけないデザインのドアの横に、店の看板があった。

『LOVER’S FOREST』

 ヴィンテージっぽいヨーロッパ風の看板。扉にかけられた、『OPEN』という札を確認し、睡蓮はガチャリとドアを開けた。

 少し薄暗い店内には、ステンドグラスのランプがいくつも並んでいた。薔薇の花が描かれた、丸型のサンキャッチャーが窓辺に並んでいる。凛とたたずむトルソーには、店の新作の洋服が着せられ、棚にはブラウスやシャツが、美しく陳列されていた。睡蓮が持っている秋服と冬服は、ほとんどこの店で購入したものだ。

 レジの奥で作業をしていた女性店員が、睡蓮に気づき、顔をあげた。

「やあ、春待ちゃん。学校、終わったの?」

「はい」

 美綴のきれいな横顔が、ステンドグラスランプの淡い光に照らされている。ワンレングスを耳元で切りそろえ、切れ長の瞳を無邪気に細めたその笑顔は幼げで、どこか未成熟だった。

「予約してもらってた、ワンピース。用意してあるよ」

「ありがとうございます、美綴みつづりさん」

 美綴海里かいりは、このショップのデザイナーであり、店長でもある。『LOVER’S FOREST』というブランドをひとりで立ちあげ、切り盛りしている。

 刺繍とちゅうのブラウスをカウンターに置いた美綴は、睡蓮が予約していたワンピースをていねいに畳むと、ブランドロゴが印刷された箱にそっと入れた。

「いつもありがとう。これ、おまけ」

「そんな。毎回、おまけしてもらっちゃ、わるいですよ」

「わたしがしたいから、してるだけ。新作のタイツと、ソックス。気に入ってもらえるといいんだけれど」

 質のよさそうな生地のタイツとソックスには、『LOVER’S FOREST』のブランドロゴが刺繍されている。

「常連さんは、大切にしないと。それに、春待ちゃんってうちのブランドの服を着るために生まれてきてくれたみたいな子だからさ。わたしが作った服を着て貰えることが、とても幸せなんだ。だから、これくらいのサービスはさせてよ」

「なんだか、そこまでいってもらえると、受け取るしかなくなっちゃいます」

 ふわっとほほえむ睡蓮に、美綴はうれしそうに頬をかいた。

「そうしてもらえると、こっちも助かるよ。また来てほしいから。あっ、このあいだみたいに、新作予定の服への意見も聞かせてほしいな。春待ちゃんの意見、めちゃくちゃ参考になるんだ」

「わたしの意見でいいんなら……喜んで」

「よかった。ぜひ、頼むよ」

 支払いを済ませると、美綴はブラックのショップバッグに品物を入れ、睡蓮に手渡した。

「春待ちゃん。きみほど、わたしが作った服を気に入ってくれてるお客さんはいないよ」

「美綴さんのデザインと仕立てがいいんですよ。いつかきっと、人気のブランドになります。わたし、応援してますから」

「……あのさ。お願いがあるんだけど」

 あらたまったようすの美綴に、睡蓮は首をかしげた。いつもなら、ここで別れるはずなのに、今日はいつもと違う。

 美綴はそわそわしつつ、照れたように切り出した。

「こんど、『LOVER’S FOREST』のカタログを作ろうと思ってるんだ。これまでは、あんまり商品の数もなかったし、お金もなかったから出来ていなかったんだけど、いろいろとよゆうが出てきたからさ」

「カタログ! それは、今から拝見するのが楽しみです」

「それでね、今度、いっしょにうちの店の裏庭で、ピクニックをしてくれないかな」

 意外な展開に、目を丸くする睡蓮。

「ピクニック……ですか?」

「うん。カタログのモデルを春待ちゃんに頼めないかなって……」

「わ、わたしにですか?」

「だめかな? まだ、日差しはそこまで強くないし、少し肌寒い日もあるから、虫もそんなにはいないだろうし。お弁当はわたしが作って行くから。そのワンピースに似合うアウターなら、持っているよね?」

「もちろんです」

「カタログ撮影用に、裏庭をずっと整えてたんだ。商品数とお金も準備できたし、いよいよ踏み切ろうと思ったってわけでさ。ここのビルの二階がわたしのアトリエだかた、撮影用の着替えはそこで……って、もちろん、誰か付き添いを連れてきてもらってかまわないよ! ごめん、重要なことなのに、どんどん話を進めちゃって……」

「いつですか、撮影?」

「えっと、あさっての日曜……朝十時とか、どうかな?」

「いいですよ」

「い、いいの?」

「もちろん。『LOVER’S FOREST』のためですもん」

 とたん、美綴の顔が安心したように、ぱあっと明るくなる。

「うれしいよ。……じゃあ、当日はきみの家まで迎えに行く」

「はい。楽しみにしています!」

 ショップバッグを肩に店を出た睡蓮の足取りは、羽のように軽かった。

 大好きなピクニックを、大好きなブランドの服を着てできるなんて、夢みたいだ。当日はまだ購入していない『LOVER’S FOREST』の服をたくさん着るのかな。お店に通っていて、よかった。お小遣いをほとんどこの店に捧げてきて、よかった。こんな日が来るなんて、信じられない。

 憂鬱な春が、吹っ飛んだ。へんな子に着きまとわれていることも、今は忘れて好きなブランドの夢に浸ろう。

「あれ、待てよ。今度の日曜日って、何かあった気が……」

 椎名夜桜との予定って、いつだったっけ? あの時、夜桜はなんといっていたっけ。

「たしか、『今度の日曜日』といっていたような」

 美綴との約束と、かぶっている。全然、気がつかなかった。

 いや、夜桜との予定なんて、向こうからむりやり取りつけられたものなんだ。こっちが、申し訳なくなる必要なんてない。

 夜桜との約束は、きっぱり断ろう。

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