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二十二章 「わかり合えないよ」

「涙って、複雑だね」

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 今彼女は涙を流していた??

「どういうこと??」

「今、悠希の私を思うまっすぐな気持ちが嬉しくて涙が出た。涙を流した理由は、それがかなりの割合を占めてることは確かなことだよ。でも、実は私の心にずっと浮かんでいる別の感情があって、それも関係して『涙』という形で外にあふれたのだと思う。涙がもっと単純で、一つの感情だけで流れればいいのにね」

 彼女の横顔は、大人っぽいけど寂しそうだ。

 僕は子どもの頃から我慢して涙を流さないように生きてきたから、涙の仕組みはよくわからなかった。

 「同じ体験をしないとわからないこともある」と彼女はさっき言っていた。その言葉が突然ずしりとのしかかってきた。

 彼女のために涙はどうして流れるかすぐに考えてみた。同じじゃなくても、わかることができると彼女に伝えたい。

 人はどうして、どんな時に、涙を流すのだろうか?

 多くの場合、ある言葉や行動を受けて、何かしらの大きな感情が自分の中で生まれたからではないだろうか。

 つまりは、感情の放出だ。

 それはずっとため込んでいたものもあれば、今の気持ちだけの時もあるだろう。

 きっと涙とはあふれるもので、流している本人もその時はそんなに難しいことを考えていない気がした。 

 もちろん、『嘘泣き』などのようにわざと泣いている場合は、これらからは除外される。

 だからだろう。涙を流しながらも、涙について彼女が冷静に分析をしている姿に、僕はさっき寂しさを感じたのだろう。

 涙について深く考えて悩む人もたぶん多くはないだろう。

 そして何より涙を流している時ぐらいは、誰かに甘えて頼っていいのにと僕は思う。人間はそんなに強い生き物ではないのだから。

 でも、彼女はそれを一切しない。いつも一人で何でも解決しようとする。一人で平気なふりをする。

 彼女が平気なふりをしていることに、僕はやっと今気づけた。本当は全然平気なんかじゃないのに、彼女は笑顔を見せる。

 僕は、彼女を抱きしめた。

「華菜をずっと苦しめている別の感情って何?」 

 僕は、彼女に聞いた。

 彼女が自分から助けを求めないなら、僕が行動を起こせばいいだけだ。

 先ほど伝えた僕の思いだけではまだどうにもできないものがあるなら、もっと彼女に関われば変えられるかもしれない。

 普段はしない行動も、すると意味があるときもきっとあるから。

 僕は自分の行動が間違いではないことを神様に祈った。

「それは、『怒り』だよ。嬉しくても、楽しくても、あることのためにいつもその感情が私を支配する」

「怒り??」

「そう。私は『怒り』という感情に苦しめらている。そして、その感情のために人とわかり合えないと強く思ってしまう」

「えっ!?」

 反射的に僕は声を上げてしまった。

 言葉の意味は理解できたけど、どうしてそんなふうに繋がるのかわからなかった。

「人と人はわかり合えないよ」

 彼女はもう一度強く言った。

 それは状況を理解していない僕を諭しているかのようだった。

 僕は自分の考え方が否定されてるとわかったのに、不思議と辛くならなかった。

 むしろ彼女の考え方を知りたいとさえ思った。

「華菜は、どうしてわかり合えないと思っているの?」

 わからないことを僕は、今聞くことができた。

 わざわざそのことを言葉にしなかったけど、これは自分の中ではかなり大きな一歩だった。

「それは、私たちは自分が思ってるよりもずっとできることが少ないからだよ。まずは、自分の人生をしっかり生きなきゃいけない。悠希ならもうわかってると思うけど、生きることだけで大変だよね。自分の人生なのに、わからないことやうまくいかないだらけなのだから。自分のことを理解し、前に人生を進めていきながら、同時に他人の人生のことを考える余裕がある? 私はないと思う。それに自分を犠牲にして他人にすべて捧げることはとても孤独なことだよ。ドラマみたいにきれいなことじゃない。自分が頑張ってることは誰もみてもいない。たとえ辛くても、それを言うことはできない。だって相手の方が辛い状況なのだから。自分が好きなことも好きな時にできないかもしれない。ひたすら相手を支えるだけの毎日。その努力も報われるという保証はどこにもない。それを続けられる人なんていないよ。どんな思いがあっても無理。ましてや、私たちは夫婦じゃなくて、他人だよね。他人のために大切な自分を犠牲にするなんておかしくない? だから、物理的にも現実的にも、誰かとわかり合うことはできない。もしも本気でわかり合いたいなら、真剣に向き合わないとできないよ。少し助けるぐらいで相手のこともわからないし、相手もただかき乱されて迷惑なだけだよ」

「華菜の考え方はわかった」

 彼女はわかりあえないと思っているのに、そのことについてとても深い考えをもっていた。

 それは今までにわかり合うことについて何度も考えたことがあるということではないだろうか?

「でも、それとさっき話していた『怒り』の感情は、どう結びつくの?」

「それは、私が怒る対象は自分自身だからだよ」

「華菜自身?」

「そう。私は助けようとしてくれる人をいつも信じることができない。どうせ私は変われないと思っている。そんな自分が情けなくて嫌で、ずっと私は私を怒っているんだよ」

「そうだったんだね。そんな自分を好きになれないんだね」

 彼女は本当はダメな部分もある自分を許してあげたいのに、それができないのだろう。

 そのために、さらに自分を苦しめている。

 負の感情は、一人で抱えているとどんどん大きくなっていく。僕も今まで同じだった。

「そういうことになるのかあ」

 彼女は頭を傾け、少し考えていた。

 それからまたすぐに話し始めた。

「もし仮にそうだったとしても、これ以上悠希に迷惑をかけるわけにはいかない。悠希の大切な時間を、私のことで無駄に使っちゃダメだよ」

「華菜は本当に優しいね。でも、このことは華菜一人の問題じゃないよ。『二人の問題』だよ」

「えっ、二人の問題?」

 僕は、ゆっくりとその理由を話し始めたのだった。

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