僕は、彼女が今口にした言葉を信じられなかった。嘘であってほしいと思ったという表現の方が正しいかもしれない。
脈絡もなく、理由もわからず、一瞬で僕の信頼はなくなったようだから。
今まで重ねてきた年月はなんだったのだろうか。僕はすごく彼女のことを思っているのに、それだけじゃ解決できないことがあるのだろうか。
人と人との関係性って、こんなに些細なことで崩れてしまうのだろうか。
いや、些細なことと捉えている時点で、僕は間違いを犯しているのだろう。
考えて、疑って、また同じことを考える。
壊れたおもちゃのように、僕の頭は今全く働いていない。
それでも、僕は考えることをやめない。「やめてはいけない」とさえ思っている。
正直僕にも込み上げてくる感情もあったけど、それはグッと抑えた。
今僕が熱くなっては、話は絶対にうまくまとまらないとわかった。
僕は、極力彼女に悪い言葉を投げかけたくない。
衝動的に言ってしまうところは、確かに僕にはある。それでも、僕がいつも衝動的なわけではない。
きっと衝動的になってしまうスイッチなようなものがあるのだろう。
基本的には『言葉』の力を信じているから言葉選びを慎重にし、相手の心に響くような『言葉』を使いたいと僕は思っている。
僕は「さっきの言葉は、どういう意味なの?」とゆっくりとした口調で聞いた。
聞きながら、僕のどの言葉が彼女の態度を激変させる原因となったのか自分でもまた考えた。
きっと原因は、僕にある。
僕が怒りを見せたからだろうか? いや、きっとそれだけじゃない。怒られることをよしとする人はいないだろうけど、彼女のさっきの発言は異様さえあったから。
あの言葉は、様々なものが複雑に絡み合ってでた言葉のような気がした。その中心にある感情は一体なんだろうか。
彼女を苦しめているものの正体を僕は知りたい。
壁に掛けてある時計の秒針の動く音だけが部屋に響き渡る。
この部屋は、いつの間にか時計が規則正しく音を鳴らすだけの空間になっていた。
静寂が怖いと僕は初めて思った。
でも、何より彼女の感情の変化が一番怖かった。理由がわかれば気持ちも軽くなるだろうか。
彼女は、僕の言葉にたいしてあれから一言も口にしていない。でもずっと今にも消えそうな儚い顔をしている。
僕は勇気を出して、「華菜が、気分を害したことがあったなら、全部ちゃんと謝るからどうか教えてくれないかなあ? せめて、今華菜がどんな気持ちかだけでも教えてほしいな」と彼女の瞳を真っ直ぐと見つめた。
どうか僕の思いが、彼女に届きますようにと神様に祈った。
僕のさっきの言葉を彼女がもし答えたくないとしても、まだ話し合うことはできると僕は信じて疑わなかった。
「教えたくない」
彼女は、僕の目を見つめ返さず、床に目をやりそれだけ言った。
その態度と言葉は、頑なさを表すには十分すぎるほどのものだった。
僕はすぐに「じゃあこのことは、聞かないね」と言った。
嫌だと言っている相手から無理やり聞き出しても、それはなんの意味もないだろう。彼女の苦しみはきっとなくならない。
それなら行動の方向性をすぐに変えなきゃと思った。
「あなたとは、今は話すらしたくないと私は意思表示したのよ。なんでそんなことも気づけず、どんどん話しかけてくるの? そんなに私を苦しめたいの??」
彼女の言葉が、心にグサグサと刺さっていく。
こんなにまで言う彼女の辛いこととは一体なんだろう。
そして、彼女に僕の思いは届かなかった。
いや、こんな言い方をしているけど、僕は彼女の思いを正しくわかれているのだろうか。
彼女に今苦しい表情をさせていることが正しいと、本当に言えるだろうか。
僕はまだうまく考えることができない。
彼女は僕の言葉に耳を傾けないだけでなく、僕と物理的にも距離をとった。
彼女は完全に僕を拒絶し始めた。
時間は、いつも僕を置き去りにしていく。
僕の感情が追いつく頃には、大抵物事は終わってしまっている。僕が時間についていけたことはほとんどない。
僕はこの時になってやっと、『言葉』では、誰かを救うことができないかもしれないと疑問に思った。
こんなになるまで気づくことすらできなかった。
僕は本当に馬鹿だ。
もしかしたら僕が勝手に思っているだけで、『言葉』にはそれほど力はないのかもしれない。
僕は、様々な考え方があるのはわかるけど、同じ人間なのだから時間をかければ必ずわかりあうことができると思っている。なぜ人間は『言葉』を持っているのかと考えると、それは『思いを誰かと通わせる為』だと信じていた。
でも、僕が下手なりにも言葉を尽くしても、彼女は心にある悩みの一部さえ打ち明けてくれなかった。
『言葉』では、相手の感情を変えられない?
僕はどんどん自分の考えに自信が持てなくなってきていた。
『言葉』でなければ、何なら彼女を救うことができるだろうか。
どうしたら彼女の苦しみを、僕はわかれるのだろうか。
拒否されているのはわかるけど、僕はまだ彼女の手を掴みたいと思っている。わかりあえると信じている。今できることはまだあると思っている。
だから、僕はまた言葉を紡ごうとする。
「華菜、」
「あなたとは、話したくないと何度も言ってるでしょ」
彼女は僕の言葉を完全に遮り、勢いよく立ち上がった。彼女の顔は、泣いている鬼のようだった。彼女は確かに怒っているのに、その顔は僕を心配させる。
そして、そのまま何も持たず玄関まで走っていった。
彼女は玄関のドアを開けてから、一度こちらを振り返った。
僕は決してせかさず、彼女の言葉を待った。
それが正しいかはわからないけど、そうした。
「絶対に追いかけてこないで。もし追いかけてきたら許さないから」
ドアは勢いなく閉められた。
僕は結局何が起きているのか、最後まで少しもわからなかった。
「今は、僕のことはどうでもいい」と僕は頭をふり、なんとか立ち上がり彼女をすぐに追いかけていった。