俺の手の怪我も良くなり、俺は大工仕事に戻った。秋口に入ると冬支度の為に仕事の依頼が増えてくる。その日は仲間に現場を任せ、家でキョウコと一緒に事務仕事をしていた。帳簿をつけて、キョウコと確認し合う。事務仕事と格闘している時、ふとキョウコが俺を見て微笑んでいるのに気が付いた。
「何だよ。」
聞くとキョウコが頬を染めて言う。
「慶一さんの眼鏡姿、初めて見たから。」
あぁ、眼鏡な。そう思って笑う。
「普段、眼鏡なんてしねぇからな。」
キョウコは俯いて言う。
「すごく素敵です…」
俺はそう言われて照れる。
「ま、まぁな、眼鏡かけてるとこなんて、お前くらいにしか見せねぇけど。」
えーと帳簿、帳簿。キョウコがうふふと笑って呟く。
「私だけ、特別…」
俺はそう言われて焦る。
「べ、別に、こんなもん、特別でも何でもねぇだろ。」
キョウコは机に向かっている俺の傍に来て、俺の背中に頬を寄せる。
「好き…」
キョウコが小さく言う。体がピクッと反応してしまう。あぁ、これは反則だ。反則的な可愛さだ。
「い、いいから、仕事しろよ、仕事。」
本当はずっとそうしていて欲しかったのに。キョウコはそのまま背後から俺に抱き着く。俺は少し笑って自分の胸に回っているキョウコの手を撫でる。こんなふうに一緒に居られるなら事務仕事も悪くないな、と思う。今までは一人で書類と数字に向き合い、格闘していただけだったけど、いまはキョウコが居る。
昼下がり、事務仕事をしていると、玄関から声が掛かる。
「ごめんください。」
男の声だ。キョウコが立ち上がり、玄関に向かう。誰だ?訪ねて来る奴なんて居たっけな?そう思って玄関を覗きに行く。
「元気そうで安心したよ。」
そんな声で立ち止まる。
「東条さんもお元気そう。」
東条?誰だ?キョウコとも知り合いっぽいけど。
「誰か、居るの?」
男が聞く。キョウコが言う。
「あ、今、一緒に住んでる人が居て…」
チラッと玄関を覗く。スーツを着ている、どっかのボンボンだった。
「ふーん、そうなの。大丈夫なの?その人。」
言葉に棘があるのを感じ取る。なるほどな、と思う。
「慶一さんは!…優しい良い人です…私一人じゃ危ないからって、色々助けて貰ってて…」
それを聞いてふっと笑う。聞きようによっては悪くとられるだろうなと思う。息を吸い込む。
「キョウコ!」
そう言って玄関に顔を出す。
「上がって貰えよ、玄関先で話すの、失礼だろ。」
男と目が合う。男は訝しんでいる。まぁそうだろうなと思う。
リビングで男と向き合う。
「私は東条といいます。キョウコちゃんとは昔からの馴染みで。」
お茶を飲みながら優雅にそう話す男。如何にもボンボンという出で立ち。きっと苦労なんてして来なかっただろうなと匂いで分かる。
「俺は前島慶一。大工やってる。」
東条がちょっと笑う。それが蔑みの意味だと分かる。キョウコは俺の隣に座ると俺に言う。
「東条さんは渡瀬の人たちと昔からお付き合いがあって、たまにこうして訪ねて来てくれるんです。」
あーね、そういう事ね。
「東条さんだなんて、余所余所しいな。幸成って呼んでよ。」
俺はそう言う東条にちょっと笑う。余所余所しいんじゃなくて、お前がここでは余所者なんだよと思う。目の前のこの男はきっと俺に対して、自分の方がキョウコと親しい、自分の方がキョウコとの付き合いが長いと暗に言っているんだろう。鼻持ちならない奴だ。
「父がね、キョウコちゃんの様子見て来いって言うもんだから。」
今度は父かよ。家族ぐるみで仲良くしてますってか。鼻で笑う。話す価値もねぇなと思う。
「東条のおじ様はお元気ですか。」
キョウコが聞く。東条が笑う。
「あぁ、元気だよ。」
東条はまたお茶を一口飲んで言う。
「キョウコちゃん、良かったら今夜二人で食事でもどうかな。」
俺の目の前でそれを聞くのかよと内心、笑う。まぁ度胸だけは認めてやる。俺が何か言う前にキョウコが言う。
「ごめんなさい。行けません。」
東条がそう言われて驚く。キョウコは微笑んで言う。
「慶一さん以外の男の人と二人きりで食事はしません。」
俺は堪え切れず笑う。キョウコの頭を撫でる。
「ま、そういう事なんで。」
言うと東条は一瞬、悔しそうに眉を顰め、すぐに微笑む。
「そうか、それは失礼。」
東条が帰る。キョウコはそれを見送ると俺に微笑む。
「今日のお夕飯、お肉にしますね。」
そう言ってパタパタと台所へ走って行く。俺は事務仕事に戻る。キョウコがあんなふうにハッキリと断るとは思っていなかった。きっと今までのキョウコなら断り切れず、受けていたんだろうなと思う。それにしても。あの東条とかいう男。胡散臭いなと思う。
車に揺られながら、考える。キョウコちゃんが男と住んでいるのは想定外だった。大工風情があの渡瀬の家に住んでいるなんて。しかもキョウコちゃんはあの男に操を立てている。もっと早くに動くべきだった。あの渡瀬の土地を何とかしようとした不動産屋が潰れたのは噂で聞いてはいたが。キョウコちゃんの養父母が亡くなって、色々やりやすくなったと思っていたのに。それまでのキョウコちゃんならちょっと優しくすればすぐに絆されてくれた筈だ。俺からの誘いを断るなんて。
2、3日は何事も無かった。俺は引っかかりを感じながらも事務仕事に追われる。その日、キョウコが買い物に出かけた後、家の屋根の様子を見に屋根に上がった。古くはなっているが、まだ大丈夫か。屋根から下りようとした時、声がした。
「ごめんください。」
あーアイツか。またか。そう思った。俺は屋根を下りて言う。
「キョウコなら買い物行ってる。」
俺が急に現れた事に驚きながらも、東条が言う。
「丁度良かった、今日は君にお話があるんだよ。」
家に入れるのは何か嫌で、庭に出る。
「話って?」
聞くと東条が言う。
「前置きせずにハッキリ言おう。君はキョウコちゃんに相応しくない。」
言われて鼻で笑う。
「で?」
聞くと東条は溜息をつく。
「キョウコちゃんにはもっと相応しい相手が居る。俺みたいな、ね。」
コイツ、本気か?
「アンタさ、誰に言われてここ来てんの?」
急に聞かれた事で東条はしどろもどろになる。俺は笑う。
「まぁ大体の察しはつくけど。」
東条を見る。
「キョウコとは昔馴染みだって言ったよな?」
東条が頷く。
「そうだ。」
俺は東条を真っ直ぐ見て聞く。
「って事はキョウコがこの家でどんな扱い受けてたのかも、知ってんだよな?」
俺にそう言われるとは思っていなかったのか、東条の顔色がサッと変わる。
「この間、キョウコがアンタに言ったろ?渡瀬の人たちって。その中にキョウコが含まれてない事ぐらい、アンタにだって分かるだろ?どうせ養父母だか、義理の?家族だかが生きてた頃はキョウコに見向きもしなかったんだろうよ。」
俺は腕を組む。
「で、義理の家族が死んで、この家にキョウコが一人で残されて、キョウコ一人ならちょっと優しくしてやればコロッと行くだろうってタカくくってたんだろ?ところがそこに俺が居た。俺の事追い出せばキョウコが絆されるとでも思ってんのか?」
東条が言う。
「私だって!…キョウコちゃんの事については申し訳無かったと思っているよ。でもキョウコちゃんと話す事は禁じられていて出来なかったんだ。仕方無かった。」
俺は鼻で笑う。
「はっ!仕方無かった?それ本気で言ってんのかよ。良い年こいて親の顔色伺って、禁止されてたから出来ませんでしたって?今どき中坊でも言わねぇだろ。」
東条を睨む。
「アンタ、親に逆らった事、ねぇだろ?」
言うと東条が言う。
「君は親が居ないだろ。」
鼻で笑う。
「だから何だよ。親が居たら欲しいもん全部用意してくれんのか?好みの女、連れて来てくれんのか?くだらねぇ。」
東条を真っ直ぐ見る。
「テメェが守りてぇと思ったら、俺はやる。相手が誰であってもな。親に反対されようが、禁止されようが、そんなこたァ関係ねぇ。好きな女の為なら命張るさ。」
東条ににじり寄る。
「好きな女の為に命も張れねぇお前に何が出来んだよ。悪い事言わねぇ、帰れ。んで二度と来んな。どんなに口説こうが、キョウコはお前じゃ落とせねぇよ。」
東条が言う。
「そんなの!キョウコちゃんが決める事だろ!」
俺は鼻で笑う。
「食事の誘い、断られたの忘れたのかよ。キョウコが言っただろ、俺以外の野郎と二人きりで飯は食わねぇって。」
東条が溜息をつく。
「そうか、キョウコちゃんが君じゃなきゃダメだと言うなら、君を排除するしか無いよな。」
は?何言ってんの、コイツ。そう思った瞬間だった。ガツンと頭に衝撃を感じる。え?何だ、これ…グラッと体が傾く。
「私がこんな所に一人で来ると思ってたのかい?」
ニヤケ面の東条が見える。そのまま倒れ込んで気を失った。