僕は、彼の肩にそっと頬を近づける。彼が言う。
「僕のことは気にせず眠っていいよ」
「でも……せっかく一緒にいられるのに、眠っちゃうのもったいない」
本当は泊まりたいけれど、叔父さんに二人の関係を知られた早々、それはなんだか気まずい。もちろん、泊まると言えば、叔父さんは快く受け入れてくれるだろうけれど、僕が勝手に気にしているのだ。
自意識過剰なのはわかっている。そんな僕の気持ちを知っている彼が言う。
「滅多に会えないわけじゃなし」
「そうだね」
「僕たち、これからも一生一緒にいるんだし。一生は、きっとすご~く長いよ」
「そうだね。僕は幸せ者だな」
そんなことを言っているうちに、いつしか眠ってしまった。
夕方、マンションに帰ると、叔父さんはテレビのスポーツ中継を見ているところだった。
「あれ、早いね。笹垣さんと一緒だったんだろう? もっとゆっくりして来ればよかったのに」
「はあ……」
それはそうなんだけどと思いながら、僕は手提げから大きな保存容器を取り出して見せる。
「これ」
「うん? 何?」
「今日、仁さんに教えてもらってカレーを作ったんです。たくさん作ったから、彼が『叔父さんにも食べてもらったら?』って」
二人分のカレーを容器に詰めても、鍋にはまだ、彼が食べるのに十分な量が残っていた。叔父さんが言う。
「へえ、それは楽しみだな。今日は晴臣くんは笹垣さんと食べて来ると思って、さがみ屋にでも行こうかと思っていたんだよ」
「あっ、いや、だったら、さがみ屋に行ってもらったほうが」
とてもじゃないけれど、あそこの料理に勝つ自信はない。叔父さんは笑う。
「何言ってるの、君の作ったカレーがあるのに、外に食べになんか行かないよ」
「はあ……」
その日、夕暮れの中を、僕は彼と叔父さんと一緒に、さがみ屋に向かって歩いていた。もうすぐ僕たちが出会って一年だと知った叔父さんが、お祝いしてくれることになったのだ。
初めは、イタリアンかフレンチに連れて行ってくれるつもりだったらしいけれど、僕からさがみ屋の話を聞いていた彼が、ぜひ一度行ってみたいと言い、実現した。
叔父さんは「せっかくのお祝いなのに」と言ったけれど、さがみ屋の料理はとてもおいしいから、彼にも食べてほしいし、そもそもお祝いしてくれるという気持ちだけでもありがたい。
角を曲がり、さがみ屋に続く通りに入ったところで、叔父さんが、ふと足を止めてつぶやいた。
「あれ?」
僕は、叔父さんの視線をたどりながら聞いた。
「どうかしました?」
「あそこ、閉店したんだね」
言われてみれば、以前はコーヒー専門店だったカフェのシャッターが下り、「貸店舗」と貼り紙がしてある。
「あそこ、昔はよく行っていたんだよ。年配のマスターが一人でやっていて、とてもおいしいコーヒーを淹れてくれたんだ。
帰国してから行っていなかったけど……」
残念そうに、しばらく目をやっていた叔父さんが、突然、はっとしたように彼を見た。
「ねえ、『貸店舗』って書いてあるけど」
「……あ」
彼も、はっとしたように、店舗に目をやる。叔父さんが言った。
「小ぢんまりとしているけど、白壁と木が調和した、落ち着いていてとてもいい雰囲気の内装だよ。一度見てみる価値はあるんじゃない?」
僕はただ、二人を見比べる。それって、つまり……。
さがみ屋に入ると、さっそく叔父さんは大将に尋ねる。
「そこの『ブルーム』、閉店したんですね」
「ああ、マスターが、70歳になったのを機に、奥さんと故郷に帰るんだって言っていましたよ」
「そうなんですか、もう一度コーヒー飲みに行きたかったなあ。『貸店舗』って貼り紙がしてありましたけど」
「駅前の不動産屋が扱っているらしいですよ」
個室に落ち着くと、再び叔父さんが口を開く。
「大通りからは離れているけど、ここら辺はマンションが多いし、場所的にも悪くないと思うけどね」
だが、彼は戸惑ったように言う。
「たしかに、とてもよさそうだと思いますけど、なんだか急で……。カフェを始めるのは三年後くらいを目途に考えていたものですから」
そう、もうしばらく料理や経営について勉強をしながら貯金もして、30歳くらいでで開店できたらいいと僕にも話してくれていた。
「もちろん、どうするかは君次第だけど、今後の参考として見るだけ見てみるのもいいんじゃないかな。もしかしたらチャンスかもしれないし、不安もあるだろうけど、動き出してしまえば、いろいろなことは意外と後からついてくるものだよ」
「はあ……」
叔父さんが苦笑する。
「ごめんごめん、僕が出しゃばることじゃないよね。ただの思いつきで言っただけだから、気にしないで。
さあ、メニューを決めよう。二人とも、なんでも好きなものを選んで」
そう言われて、僕はメニュー表に手を伸ばしたのだけれど、彼は、そのままの姿勢で言った。
「決めました。とりあえず、不動産屋さんに店内を見せてもらうことにします」
「僕も一緒に行く」
思わずそう言うと、叔父さんも言った。
「よければ、僕も付き合うよ。言い出しっぺの責任もあるし」
彼が、ようやく表情を和らげて言った。
「そうしていただけると心強いです。何しろ初めてのことなので」
「オッケー、じゃあそういうことで、まずは料理を注文しよう。二人ともお腹が空いただろう?
ああ、ビールも頼もうか。晴臣くんはどうする?」
後日、僕たちは駅前の「並木不動産」を訪ねた。岡崎と名乗る担当者に会社の車に乗せてもらい、例の貸店舗に向かう。
店内は、カウンターとテーブル席があって、広くはないけれど、シンプルながら、木のカウンターや柱がいいアクセントになっている。
あちこちを見て回りながら、彼が言った。
「これなら、ほとんど改装も必要なさそうだ」
本来ならば、あと三年は貯金するはずだったのだから、かかる費用が少なく済むに越したことはない。
必要ならば、僕もわずかでも協力したいとは思っているけれど、言い出せないままでいる。彼の長年の夢に、後から加わった僕が余計な手出しをするのは、なんだか失礼な気がするのだ。
きっと彼は、自分一人の力ですべてを成し遂げたいのではないかと。僕は、そっと彼に尋ねた。
「どう? イメージに合う?」
彼が僕を見て微笑む。
「どこに写真を飾るのがいいかなって考えていたんだ」
会話を聞いていた岡崎さんが言った。
「お店のコンセプトなど、お考えになっているんですか?」
「ええ、壁に、空の写真を引き伸ばしたものをいくつか飾りたいんです」
「ほう、それは素敵ですね」
どうやら、彼はここが気に入ったらしい。叔父さんは、にこにこしながら僕たちを見守っている。
正式な契約は、各種必要な準備を整えた後に交わされることになった。
岡崎さんと別れた後、僕たちは、マンションに戻って来た。
いつも落ち着いている彼が、ケーキと紅茶を前に、どこか呆然としている。それを見て叔父さんが言った。
「笹垣さん、大丈夫?」
「ああ、はい」
「なんだか僕が焚きつけちゃったみたいけど、僕に気を遣わなくていいんだよ。ほかにもいい物件はあるかもしれないし、すぐに決めてしまって後悔するといけないし、何も急ぐことはないんだから」
「いえ、そんなことは。ただ、こんなにとんとん拍子に進むとは思わなくて……」
「本当にあそこでいいの?」
「それはもう。雰囲気もいいし、家賃も思いのほか安かったですし」
「家賃が安いのは駅からの距離のせいもあるだろうけど、顧客がつけば、落ち着いて営業できて、かえっていい場所かもしれないよね」
「はい。店舗はとても気に入ったんですが……」