叔父さんが連れて行ってくれたのは、歩いて五分ほどの、裏通りにある「さがみ屋」という上品な和食屋さんだった。ここで暮らし始めてずいぶん経つけれど、こんなところにお店があるとは知らなかった。
「大将」
叔父さんが、暖簾をくぐりながら声をかけると、カウンターの奥にいた坊主頭の大将の顔に、ぱっと笑顔が広がった。
「日下部さん、いつ帰っていらしたんですか?」
「今日の午後に成田に着いたばかりなんですよ。あっ、甥っ子の晴臣です」
紹介されて、僕はぺこりと頭を下げる。
「こんばんわ」
大将は、僕にも笑いかけてくれた。
「いらっしゃい」
僕たちは、畳敷きの個室に案内された。座布団の上にあぐらをかきながら叔父さんが言う。
「マンションにいたとき、よく来ていたんだよ。特に奥さんだった人と気まずくなってからは、かなり頻繁に」
そう言って、叔父さんは苦笑した。
「そうなんですか?」
「うん。向こうの住まいの近くにも和食屋はたくさんあったけど、ここの味が懐かしくてねえ。
でも、晴臣くんは洋食のほうがよかったかな」
「いえ、僕も和食好きです。キンピラとか」
「二十歳の男子にしちゃ、渋い好みだね。ここにもキンピラはあるんじゃないかな」
叔父さんはメニューを開いて見ている。
「晴臣くんも、遠慮しないでなんでも好きなものを頼んで」
「はい」
「お酒は飲むの?」
「お父さんの晩酌のときに『付き合え』って言われて、ちょっとビールを飲んだりはしたけど、自分からは飲まないです」
「そう。最近は、兄さんとうまく行っているの?」
「うまく行ってるってほどでもないですけど、前みたいに嫌味を言われたり、ギクシャクしたりはなくなりました」
「それはよかった。兄さんは、なんでもずけずけ言うからなあ」
「叔父さんのおかげです」
叔父さんが、きょとんとしてこちらを見る。
「えっ、僕?」
「叔父さんがマンションの管理を任せてくれてくれたから。お父さんは、初めは僕には無理だって思っていたみたいだけど、せっせと掃除しているのを知って、少しは見直してくれたのかもしれないです」
「なるほどね。でも僕は、晴臣くんなら、ちゃんとやってくれると思っていたよ。
君は、真面目で几帳面な性格だってわかっていたから」
「そういうところ、お母さんに似たみたいで」
叔父さんが笑う。
「そうだよね、兄さんはズボラだもんな。そのくせ人には厳しいんだから困るよね」
叔父さんの言葉に、僕も笑った。叔父さんとならば、楽しく暮らしていけそうな気がする。
「あー、うまかった。腹いっぱいだ」
帰り道、すっかり暗くなった路地を並んで歩く。冷酒を飲んでほろ酔いの叔父さんは上機嫌だ。
「僕もお腹いっぱいです。ホント、すごくおいしかった」
どれも上品な味でとてもおいしいのに、値段は思ったよりリーズナブルだった。
「晴臣くんは、料理はしないんだろう? じゃあ、これからもときどきあそこで晩飯にしよう」
「はい」
路地を曲がると、マンションが見えてきた。僕は聞いた。
「帰ったら、お風呂沸かしますか?」
「いや、シャワーでいいよ。僕は帰ったら、少し荷物の整理をしたいから、晴臣くん先に浴びていいよ」
「はい」
「出社は来週からだから、朝も僕のことは気にしないで、いつも通りにして。明日の朝は、多分寝坊するから」
「わかりました」
自室に入ってスマホを開くと、彼からメッセージが来ていた。
―― 今帰りの電車の中。叔父さんは到着した?
1時間ほど前のものだ。すぐに返信する。
―― お仕事お疲れ様。叔父さんは夕方に着いて、一緒に外食して、今マンションに帰って来たところ。
すぐに返信が来た。
―― 久しぶりに会った叔父さんはどうだった?
―― 前に会ったときと全然変わっていなくて、すぐに普通に生活できるのはありがたいって言ってくれた。
―― そう、よかったね。
―― うん。仁さんは、もうご飯食べた?
―― 食べたよ。
―― 何食べたの?
―― 今日は忙しくて疲れたから、コンビニの弁当で済ませた。
―― 疲れちゃったの? 大丈夫?
―― 晴臣くんが自撮りを送ってくれたら元気が出ると思う。
おっと、そう来たか。
―― じゃあ、今撮るから、ちょっと待って。
急いでアプリで撮ってから、メッセージを添えて送信。
―― 元気になあれ!
―― かわいい。元気出てきた。
―― ホント? よかった。僕も仁さんの自撮りがほしいな。
すると、すぐに画像が送られて来た。Tシャツを着て、ベッドでくつろいでいる姿だ。
――今度の週末は来られそう?
ちょっと首をかしげて微笑む姿にキュンとする。今すぐにでも、彼の隣に行きたいくらいだ。
叔父さんは、いつでも好きなときに出かけてかまわないと言ってくれている。
―― もちろん行けるよ。
だが、彼が言った。
―― でも、しばらくは泊まりは控えたほうがいいよね。
叔父さんは、友達の家に泊まると言えば快く送り出してくれると思うけれど、今までのように毎週、しかも二日続けてというのは、さすがに気が引ける。
―― たまにはいいと思うけどね。
―― じゃあ、今度の週末は、泊まらない分、昼間から部屋でイチャイチャしよう♥
午後の明るい部屋で淫らな時間を過ごした後、枕に顔をうずめる僕の髪を撫でながら、彼が言った。
「叔父さんとの生活にはもう慣れた?」
「うん」
「やっぱり、今までとは違う?」
「そうでもない。いろいろやることが増えるかなって思っていたけど、叔父さんは、自分のことは自分でするし」
「へえ、そうなんだ」
「今まで通り、掃除だけしてくれればいいんだよって言うんだ」
「ふうん」
「でも、朝ご飯は一緒に食べるよ。目玉焼きとか作ってくれる。
叔父さんも、わりと料理は好きだって言っていたよ。夜は、たまに一緒に外で食べる」
「例の和食屋さん?」
「うん」
「叔父さんと暮らすの、楽しい?」
「わりと」
それきり彼が黙ってしまったので、顔を上げて見ると、ぼんやりと虚空に目をやっている。
「仁さん?」
「ああ」
ちらりと僕を見て、彼が言った。
「今の気持ちを正直に言うと、ちょっと嫉妬してる」
「え?」
「もちろん、おかしな意味じゃないけど、叔父さんは、晴臣くんと一緒に暮らせていいなあって」
「あ……」
僕は思わず、裸の胸にしがみついた。彼と毎日一緒にいられたらどんなにいいだろう。
年末に、ずっと彼の部屋に泊まり込んだときも、すごく楽しかった。あんなふうにして暮らせたら……。
彼が、ぎゅっと僕を抱きしめる。
「変なことを言ってごめん」
「ううん、僕も仁さんと暮らしたい……」
夜、マンションに帰ると、叔父さんはビールを飲みながらテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり。楽しかったかい?」
今日は友達と会うと言って出かけたのだ。
「はい」
叔父さんが、ごくりとビールを飲んでから言った。
「今度ここに連れてきたら?」
「……え?」
「お友達だよ。なんならゲストルームに泊まってもらったっていいし」
叔父さんは、何の気なしに言ったようで、すぐにテレビのバラエティー番組に目を戻し、司会者の言葉にあははと笑った。